第五話 「風の縫い目」
白い獣──まだ名も知らないその子と暮らし始めて、三日が経った。
世話をしているのは、家の裏に建つ古い物置小屋だ。
父アレンが昔、農具をしまっていた場所で、今はほとんど使われていない。
朝は水を汲んで傷を確かめ、藁を交換する。
昼は畑仕事の合間に様子を見に行き、
夜になるとこっそり抜け出して、小さな体のそばで眠った。
そんな日々が、静かに続いていた。
(……情が移るのは、仕方ないよな)
獣は僕を見ると、ふわりと尻尾を揺らす。
笑うみたいに細めるその瞳に、胸の奥がじんわり温かくなる。
けれど同時に、その温かさの裏側に薄い痛みがあった。
(……いつか、離れなきゃいけない)
魔物を家族として置くことはできない。
村人に知られれば恐れられるし、父や母もどう接するべきか困るはずだ。
だからこれは、一時だけ。
“治るまでの間だけ”──そう言い聞かせていた。
しかし。
「イザークー! ご飯できてるよー!」
母セリアの声が家から響くと、
白い獣はびくりと肩を跳ねさせた。
「大丈夫、大丈夫。母さんにはバレてないよ」
小声でそう言うと、獣はこてんと首を傾げた。
あまりに可愛らしくて、思わず口元が緩む。
「待ってて。また後で来るから」
小さく鳴いた声が、名残惜しさを帯びていた。
ほんの一瞬だけ、足が止まりそうになる。
(……僕だって、本当は)
けれど首を振り、胸の奥に沈みかけた気持ちを押し込める。
僕には“人間としての日常”がある。
家族がいて、やるべき仕事があって──
その間、小屋の獣はじっと息を潜めていた。
家に戻ると、具だくさんのスープと焼きたてのパンの香りが迎えてくれた。
父アレンは黙って席につき、母セリアは器を並べていく。
「今日、風が強いわねぇ。畑、大丈夫?」
「朝は静かだったんだが……昼に急に吹いた」
「最近、風の向きが変なのよ。村の人も言ってたわ」
(……風の向き?)
心臓がひとつ跳ねた。
確かに、風はおかしい。
突然止んだり、急に吹き荒れたり──
まるで“誰かが操作している”みたいに乱れている。
特に、あの小屋にいるときは顕著だった。
(……いや、考えすぎだ)
ただの魔物のはずだ。
白くて、不思議で、どこか知性も感じるけれど──
“何かを起こせるようには見えない”。
しかし胸のざわつきだけは、消えてくれなかった。
夜。
僕はいつものように小屋へ向かった。
月が薄くかかった雲の隙間から光を落とし、道を淡く照らしている。
(……今日も元気だといいけど)
扉をそっと開く。
「――っ」
白い獣が壁にもたれ、苦しげに目を閉じていた。
「どうしたの!?」
駆け寄って体に触れる。
熱い。呼吸も浅い。
胸の毛が上下するたび、淡い光が脈のように揺れていた。
(……また光ってる。発熱……いや、もっと違う何かだ)
怖さはなかった。
ただ必死に、その小さな体を支える。
「大丈夫だよ……! ここにいるから……!」
その瞬間だった。
ひゅう……
小屋の中で、風が吹いた。
閉じた扉の向こうからではない。
この空間の“内側”で風が生まれた。
冷たく、鋭い風。
耳元を掠めるその音には、明らかに“何か”が混じっていた。
――アナタハ……
(……え?)
――探シテイル。
(探して……? 誰が?)
白い獣が目を開けた。
琥珀の瞳が震え、僕を必死に見つめる。
そして──
「……にげ……て……」
かすれた声が、確かに空気を震わせた。
「逃げ……? なんで……?」
問い返す間もなく、獣は再び息を荒くする。
胸がざわつき、足元の地面がわずかに揺れたような気がした。
僕はその体をしっかり抱きとめる。
(……誰から逃げろと言ったんだ?)
小屋を飛び出して外を見る。
夜の村は異様なほど静まり返っていた。
風も、人の気配も、虫の声さえない。
――無風。
あれほど乱れていた風が、嘘みたいに止まっている。
(……やっぱりおかしい)
何かが近づいている。
その“気配”だけは、はっきりと分かった。
白い獣は確かに言った。
「にげて」と。
(……僕が? それとも、この子が?)
まだ、何も分からない。
けれど一つだけ──
“この子は普通の魔物じゃない”
その確信だけが、じわりと形になり始めていた。
僕は小屋に戻り、獣の隣に静かに座った。
「大丈夫。僕がいるから」
その言葉に、獣はかすかに尻尾を揺らした。
外の風は沈黙している。
静寂が、地面ごと世界を覆っているようだった。
その不自然な沈黙に気づく者は、
まだ村のどこにもいなかった。




