第四話 「風音に紛れる鼓動」
朝の光が、小屋の壁の隙間から細く差し込んだ。
その光がまぶたを撫で、ゆっくりと意識が浮かぶ。
藁の上では、白い獣が静かに眠っていた。
昨日より呼吸は深く、血の匂いも薄い。
(……よかった)
胸の奥に溜まっていたものが、ようやくほどけていく。
小さな欠伸。
前足がもぞりと動き、琥珀色の瞳が光を拾った。
「……おはよう、かな?」
獣はこてんと首を傾げる。
それだけで、胸のどこかが柔らかくなる。
「喋れる……んだよね?」
返事のかわりに、獣はそっと口を閉じた。
言葉の重さを測っているように。
(やっぱり、この子は魔物でも動物でもないよな…?)
――けれど、問い詰める気にはならなかった。
誰にだって、言いたくないことや言えないことはある。
僕は立ち上がり、小さな水瓶を差し出した。
「ほら、水。昨日ほとんど飲んでなかったでしょ」
獣は慎重に近づき、ちろりと水面を舐める。
その瞬間、光の粒が弾けたように見えた。
(……見間違い、だよね)
光素のようにも見えたが――
僕の感知では判断しきれない。
朝日の反射だと、そう思い込むしかなかった。
◇
村の様子を探るため、小屋を少し離れた。
母に見つかれば勘づかれるし、父も優しいけれど――
“正体の分からない獣”を放っておくとは思えない。
小屋に戻ると、獣がじっとこちらを見つめていた。
「……心配してくれたの?」
ちいさく頷くように首が揺れた。
(ほんとに……人みたいだな)
その温度に胸が少しあたたかくなる。
僕はそっと頭に触れた。
柔らかな毛が指の間をすり抜け、温もりがじわりと伝わってくる。
――その時。
「……っ」
指先に、微かな痺れ。
温かい電流のようなものが走った。
見れば、触れた部分の毛が淡く光を帯びている。
(……なぜ、光るんだ)
息をのんだ途端、獣は尻尾をぎゅっと巻き込んだ。
まるで「見なかったことにして」と訴えるように。
「……わかった。言わないよ」
僕が笑うと、獣は小さく鼻を鳴らした。
それだけで、伝わるものが確かにあった。
本当に、それだけのはずだった。
――なのに。
コン……
小屋の扉が小さく揺れた。
(……誰か?)
こんな時間に来る人はいない。
昨日も誰にも見られていないはず。
獣を庇うように前に立ち、声を潜める。
「……静かに」
息を殺すように囁き、背後の獣を庇う。
獣はぴたりと気配を消し、藁に身を伏せた。
その所作は驚くほど自然で――訓練されたもののような、迷いのない動きだった。
コンコン……
規則正しいノック。
まるで合図のような、決まり事のような叩き方。
(……風じゃない)
ゆっくりと扉を開ける。
――誰もいない。
(……え)
朝露に濡れた草が並んでいるだけ。
足跡も影も、気配すらない。
ドアを閉じようとした、その時。
ひゅう……
耳の奥に、かすかな“誰かの息”が混ざった。
冷たくて、けれど──どこか懐かしい響きを持つ風。
――見ツケタ。
風のざわめきに紛れ、確かに“声”が混ざった。
「っ……!」
心臓が跳ねる。
小屋の奥では、白い獣が鋭い光を宿した瞳でこちらを見ていた。
その眼差しは、まるで僕を守ろうとするようで――
それが逆に、事態の異様さを際立たせていた。
(……この風。どこかで……)
思い出せない。
けれど確かに、胸の奥の何かを掴んで離さなかった。
風の声。
獣が隠す“何か”。
そして、僕がこの世界に生まれた理由。
見えない糸が、静かに結びつきはじめているような気がした。
「……大丈夫。まだ誰にも知られてないよ」
獣の頭をそっと撫でる。
細い体が、わずかに震えを止めた。
優しい朝の光が小屋に差し込んでいるのに――
胸の奥では、形のない不安が静かに巣を作り始めていた。
ほんの小さな綻び。
だが、その歪みはまだ誰も知らない。
やがてアストレイブという世界を震わせる、最初の裂け目になることを──。




