第三話 「白き影の囁き」
白い獣を抱えて村の外れに戻った頃には、夜の霧が深く漂っていた。
向かったのは、父が昔使っていた小さな作業小屋だ。
腕の中の体は、微かに震えている。
雪のように白いはずの毛は、泥と血でほとんど灰色に見えた。
(冷えてる……早く手当てしないと)
父と母に見つかるのは避けたかった。
“この子が殺されるかもしれない”からではない。
――拒絶されるのが、怖かった。
けれど、助けないという選択肢は最初から存在しなかった。
「ここなら……大丈夫だと思う」
村の隅にぽつんと佇む古い物置小屋。
風が抜けるだけの頼りない場所だが、今のこの子には十分だ。
敷いてあった藁を広げ、その上にそっと寝かせた。
「……傷、深いな」
裂いた布を巻いて止血はしたが、とても追いつく怪我ではない。
これだけの深手なら、普通の獣はとっくに動けなくなっているはずだ。
それでも――獣は僕を見ていた。
黄金とも琥珀ともつかない、不思議な光を湛えた瞳で。
「……どうして僕なんかに、助けを求めたんだ?」
(僕はただの子どもだ。魔術も霊術も満足に使えない。それでも――なぜこの子は)
問いかけると、獣はかすかに瞬きをした。
それが言葉の代わりのようで、胸の奥が少し熱くなる。
(……そうだ、水を持ってこないと)
立ち上がろうとした、その時。
「……いか、ないで……」
か細い声が、僕の足を止めた。
「っ……!」
その声は、人間の幼い子どものように震えていた。
なのに確かに、僕に向けられた“言葉”だった。
振り返ると、獣は袖を掴むように前足を伸ばしていた。
爪を立てるでもなく、ただそこに触れていたいと訴えるように。
「……分かった。どこにも行かないよ」
しゃがみ込むと、獣は安堵の息を漏らした。
その仕草があまりに人間らしくて、胸がざわつく。
「君、なんなんだ……?」
問いかけても返事はない。
けれど、その瞳だけが――まっすぐ僕を映していた。
怖さよりも懐かしさが先に来た。
初対面のはずなのに、どこか、知っているような感覚だった。
(……まただ)
胸の奥に、“白い闇”の記憶が微かにざわめく。
選定外。
要審査。
記録――継続。
あの冷たい声とは対照的な、温かい命の鼓動。
それが、今目の前にいる小さな獣だった。
「……眠い、の?」
ゆっくりと目を閉じはじめた獣に、そっと問いかける。
「……ねむ……」
そのひとことを残して、静かに眠りについた。
僕は膝を抱え、寝顔を見つめる。
泥と血で濁った毛並み。
浅い呼吸。
上下する細い脇腹。
どれもが、儚くて、守らなければと思わせる。
(この子……一人だったのかな)
理由も、状況も、何も分からない。
ただひとつ――助けが必要な命だということだけは確かだった。
「……大丈夫。僕が守るから」
自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれた。
眠る獣の耳が、微かに動いた。
まるで、その言葉を聞き取ったように。
夜風が小屋の隙間を抜け、藁を優しく揺らす。
僕はその隣に静かに座り、ゆっくりと瞳を閉じた。
小さな小屋で、二つの命がそっと寄り添う。
その時の僕は知らなかった。
――この夜の出会いが、やがて世界の形すら変えていくことを。




