第五十四話 「ナティア防衛戦 第四撃 真剣勝負の果てに」
森の奥――
木々のざわめきさえ、もう遠い。
風が切り裂く音と、
僕とウィンドウルフの荒い呼吸だけが響いていた。
夕陽は沈みかけ、
空の端が赤く染まり始めている。
(……どれくらい戦ってるんだ)
腕が重い。
足が鉛みたいに沈む。
肺は焼けるほど熱い。
それでも。
(……まだ、倒れない)
向かい合うウィンドウルフも同じだった。
銀灰の毛は所々裂け、
蒼い瞳の輝きも少し揺れている。
だけど――その眼差しはまだ折れていなかった。
剣を握り直す。
刃に纏う剣気が、
さっきより濃くて、重い。
(……剥がせてる)
ウィンドウルフの身体を包む“風の膜”が、
斬るたびに少しずつ薄くなっていた。
霊術で周囲の動きを感じ、
魔術で身体能力と反応速度を引き上げながら、
とにかく“届く一撃”を探し続ける。
剣気を纏わせた刃が風を裂き、
ウィンドウルフの肩に浅い傷をつけた。
その瞬間――
「――ッ!」
体勢を崩したウィンドウルフが跳び退る。
地面に血が落ちる音が、妙に大きく聞こえた。
僕も同じくらい、傷だらけだった。
頬から、腕から、肩から、
色んな場所から血が流れて、
服はもう乾いた血と土でぐしゃぐしゃだ。
(……終わらせないと)
ここで倒れたら――
ナティアが終わる。
風灯り亭の人たちも。
ミーナさんも、ミリエルちゃんも。
パトロール・ファングも、ガルドさんも。
トーヴェルにいる、父さんと母さん。
そして――まだ名前すら知らない、家の中で泣いている“あの二人”も。
(誰も助けられない)
胸の核が、ぎゅっ……と強く脈打った。
そのとき――
風が“もう一度”変わった。
(……来る)
ウィンドウルフの背後。
草むらの奥。
空気が、ほんの一瞬凍ったみたいに静かになる。
そして。
――ザッ。
もう一頭のウィンドウルフが姿を現した。
最初のウィンドウルフより、
一回り大きい。
風の揺らぎも濃い。
(……二頭目)
喉がひりつく。
(いま……は、無理だ……!)
一頭目で限界に近いのに。
ここで二頭目が来たら――確実に殺される。
「……っ!」
胸の核を握りしめる。
魔術の出力を無理やり引き上げて、
霊術も、剣気も――全部を押し出す。
身体が限界を超えて軋む音がする。
(死にたく……ない!)
(ここで終わるのは嫌だ!)
二頭目のウィンドウルフの蒼い瞳が、
僕に向けて細められた。
その“気迫”に反応したように、
一頭目のウィンドウルフが弱った身体を立て直す。
「来い……!」
叫ぶと同時に、
二頭目が風を巻き上げて飛びかかってきた。
その瞬間――
体が勝手に動いた。
「うああああああッ!!」
剣気を限界以上に押し込み、
肩の筋肉が切れそうなほど強く振り抜く。
剣が風を裂き、
二頭目のウィンドウルフの頬から肩にかけて、
深くはないが“確かな傷”が走った。
「――ッ!」
風が一瞬乱れ、
二頭目が後退する。
刹那。
草むらの影から、
二つの小さな影が現れた。
銀灰の小さな体。
蒼い瞳。
まだ幼い――子どものウィンドウルフ。
「……え」
小さな二頭が、か細い声で「キュゥ……!」と鳴き、
負傷した二頭目の前に立つ。
僕へ向かって――牙を剥いて、威嚇した。
(子ども……)
その瞬間、
頭の中に浮かんだのは――
トーヴェルの家で泣いているであろう、あの小さな二人だった。
名も知らない。
言葉も交わしていない。
それでも確かに、
“守らなきゃいけない存在”だと感じた、あの夜の温もり。
(……僕は)
(いま……何をしてるんだ)
僕は――
こいつらの、
親を殺そうとしている。
「なんで……」
喉が震える。
二頭目のウィンドウルフは、
子どもを前に立たせながら、
風の魔法で僕を遠ざけた。
ふわりと風が体を押しやり、
距離を取らされる。
僕はとっさに構えを取り直したけれど――
ウィンドウルフの瞳は、もう“戦う意思”を向けていなかった。
一頭目の傷ついたウィンドウルフの元へ寄り添い、
子どもたちを守るように包む。
その後ろ姿のまま、
森の奥へ、静かに消えていく。
戦いの最中とは思えない、
静かな退却だった。
「……は?」
(なんで)
(なんで僕……)
(なんで、お前らの親を殺そうとして――)
胸の奥が、ずきん、と痛む。
「……ごめんなさい」
声が震える。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
膝が崩れた。
土の上に両手をつく。
(僕は……最悪だ)
(魔物だからって……)
(家族を奪おうとした)
涙が、ぼたぼたと落ちた。
自分の血と混ざって、
地面に黒い染みが広がっていく。
「僕は……僕は……」
その瞬間。
胸の核が――破裂するみたいに震えた。
魔素と霊素と剣気とオーラが、
制御できないほど漏れ出す。
「うああああああああああああッ!!」
咆哮が、森に響いた。
怒りでも。
勝利でも。
憎しみでもなく。
ただ――
自分自身への、どうしようもない叫びだった。
森全体が震えた。
木々がざわめき、
魔物たちの気配が一瞬すくむ。
その中心で、
僕はうつ伏せのまま、ただ泣き続けた。
(何が正義なんだ)
(何が……守ることなんだよ……)
夕陽は完全に落ち、
夜が静かに降りてくる。
戦いはまだ終わっていないのに。
僕の心は――いま、限界まで裂けていた。




