第四十九話 「ナティア防衛戦 前夜 覚悟」
風灯り亭の二階。
まだ薄暗い部屋の中で、僕はゆっくりと目を開けた。
窓の外には、冬の朝に特有の白い息のような靄が漂っている。
街は静かだけど、その静けさの奥には――
不安という名のざわめきが、確かに揺れていた。
(……今日だ)
六千の影がナティアに迫る。
その前日。
ギルドでも街でも、
どこに行っても焦りと恐怖が空気に混ざっていた。
「アイザック、おはよう」
静かな声が階段の下から聞こえる。
ラナさんだ。避難の準備をする前に、最後の朝食を用意してくれていた。
エマとリオはすでに避難の手伝いで外にいるらしい。
ふたりの姿が見えないだけで、胸がきゅっとなる。
(……守りたい)
胸の奥に、その言葉が静かに沈む。
朝食を終え、ギルドへ向かうと――
いつもは和やかな受付前が、戦場の前線みたいな騒がしさだった。
兵士の槍が運ばれ、
魔術師たちは詠唱式の確認をし、
弓使いたちは弦の張りを調整している。
「来たか、アイザック」
ハルドさんが地図の前に立っていた。
その横には、
カールアさん、パトロール・ファングの四人、
そしてナティアの兵士たち。
(……すごい数だ)
七百。
冒険者は百。
兵士が六百。
いつものナティアの冒険者の倍以上が集められている。
ただし――問題はそこじゃない。
兵士たちの多くは、人間相手の治安維持の経験はあるが、
魔物を相手にした戦闘は、冒険者ほど慣れていない。
(……不安は、そこにある)
ハルドさんが指揮棒で地図をなぞる。
「兵は二つに分ける。
一つ目は“第一衝突点”に立つ隊だ。
城壁に突撃してくる魔物の勢いを、槍と盾で殺す」
兵士たちの顔が緊張で強ばる。
「二つ目は、城壁の上。
弓兵、大砲、バリスタ。
正面から突破されないよう、撃ち続ける」
カールアさんが続けた。
「そして――遊撃は私とアイザック、パトロール・ファング。
前線が崩れた場所、突破されそうな場所を潰す」
遊撃。
状況に応じて即座に動く。
つまり、最も危険で、最も忙しい位置だ。
(できるかな……)
胸がざわつく。
だがすぐに、レントさんが僕の肩を軽く叩いた。
「怖いか? ……だったら安心しろ」
「え?」
「俺たちも緊張してる。つまり、自然ってことだ」
ロッカが豪快に笑った。
「そうそう! 怖いからこそ、死なねぇように全力で戦えるんだよ!」
ミゼスさんは眼鏡を押し上げる。
「遊撃は頭も使う。アイザックがいて助かるよ」
ティーネは無言で頷いてくれた。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
(……僕、役に立てるかな)
◇
夕刻。
街全体が緊張の匂いに染まり始めた頃、
ラナさんたち住民は、東側の避難洞窟へ向けて移動していった。
「絶対に戻ってくるんだよ。アイザック」
ラナさんの声は震えていた。
「うん。絶対に」
エマは泣きそうな顔で僕を抱きしめ、
リオは小さな拳で僕の腰をぽすんと叩いた。
「アイザックお兄ちゃん、がんばって……!」
僕は笑顔を作ろうとしたが、
胸の奥が痛くて、上手く笑えなかった。
(……守らなきゃ)
◇
夜。
ギルドの大広間は、救護所として使われる準備が進み、
長椅子に毛布が置かれた。
僕はそこに横になった。
(明日……正午前に来る)
眠らなきゃ。
戦えるように体力を残しておかなきゃ。
でも——胸のざわつきが眠りを遠ざける。
と、そのとき。
脳裏に、あの言葉が蘇った。
シルファさんが僕の剣気を覚醒させたときの――
あの声。
――ここで君が倒れて、二度と立てなくなったら。
――ナティアの人たちはどうなるんだろうね。
――風灯り亭のラナたちは?
――ミーナやミリエルは?
――遠くのトーヴェルで、弟と妹を抱いているご両親は?
胸の奥で熱が灯った。
(……守る)
(僕が戦う。絶対に)
(死んでも、守ってみせる)
言葉は声にならず、
胸の中だけで、静かに燃える。
その熱に包まれたまま――
僕はゆっくりと、眠りに落ちていった。
――そして、夜が明ける。
ナティア防衛戦の幕が、静かに上がろうとしていた。




