第四十八話 「憂慮と注視と策略」
夜明け前のトーヴェル村は、
冬の匂いを含んだ冷たい風が、ゆっくりと家々の屋根を撫でていた。
家の前で薪を割る音が、コーン、と乾いた空に響く。
「ふぅ……今年も冷え込むなぁ」
アレンが、額の汗を拭いながら笑った。
積み上げられた薪は、家族四人が冬を越すには十分な量になっている。
家の前の畑では、野菜を詰めた木箱をセリアが整えていた。
「アレン、今日の分はこれで全部よ。
ナティアにも出荷しないといけないし、近所にも分けないと」
「おう。コルトんとこの親父さんにも持ってくか」
「そうね。あの人、毎年楽しみにしてるもの」
そう言って微笑むセリアの横顔は、相変わらず優しかった。
家の中から、
レイムとセレノアの小さな声と笑いが聞こえてくる。
「きゃっ、あーっ」
「ばばっ、んー!」
二人は庭に出て、
霜のついた草を手でぱたぱた触ったり、
雪みたいに舞う光を追いかけるように手を伸ばしていた。
その無邪気な姿に、
セリアは自然と頬を緩め――
だが、胸のざわつきは消えない。
ふと気づいたのか、
二人がこちらを見て、よちよち近づいてくる。
レイムがセリアの服の裾をぎゅっと掴む。
セレノアは不安そうに眉を寄せ、
「ぅあ……」
と小さく声を漏らした。
セリアはすぐ膝をつき、
二人をそっと抱き寄せた。
「大丈夫よ。寒くてね、ちょっと震えちゃっただけ」
二人はまだ意味は分からないはずなのに、
セリアの声に安心したのか、ふにゃ、と笑う。
「あなたたちのお兄ちゃんは――
私とアレンの誇りの息子よ。
だからね……心配しなくていいの」
言い聞かせているのは、子どもではなく――
揺れ続ける自分の心だった。
その声に、セリアは胸を撫で下ろし……
同時に、自分に言い聞かせた。
(……大丈夫。そう言い聞かせても、胸の奥のざわつきだけは静まらなかった)
けれど、胸のざわつきは消えなかった。
村の外れ、
視界の利く小高い丘に、ひとつの影が立っていた。
黒い外套。
薄く笑う口元。
黄金の瞳が、遠くのナティアの方向へ細められる。
――シリアス。
冷たい風を受けながら、彼は小さく呟いた。
「ふむ……やはり、あの少年は“揺らぎ”を持っている」
冬の空気を震わせるような、低い声。
「三週間程度で、あれほど魔素と霊素を馴染ませるとは……
あれは規格外としか言いようがない。
やはり――律の揺らぎ……やはり君は、世界の構造そのものに干渉する“鍵”になりうる」
彼は指先で、空中に見えない線をなぞる。
すると、淡い紫の粒子がその軌跡を描いた。
「手に入れるべき価値は、十分にあるな……」
その瞳の奥には、狩人のような光が宿っていた。
だが、視線の先――
ナティアの上空に漂う魔素の揺らぎを見た瞬間、彼は眉をひそめる。
「……六千。いや、それ以上か」
冷たい笑みを浮かべたまま、彼は呟いた。
「手を貸すのは簡単だが……帝国が動けば、余計な波紋が生まれる。
あくまで“観察者”でいなければな」
風が外套を揺らす。
「さて……少年。
君がどこまで抗えるのか――見せてもらおうか」
その声は、冬の空気へと溶けていった。
同じ頃。
ナティアの北東。
エルドの森の奥――。
木々がざわめき、空が暗く染まる。
小動物たちが穴に逃げ込み、鳥が一斉に森から飛び去る。
そして――地面が震え始めた。
ドドドドド……ッ!!
無数の足音。
木々を薙ぎ倒す音。
唸り声。
吠え声。
それはまさに、黒い波。
小型魔物が群れをなし、
その間を縫うように中型魔物が突進していく。
牙をむき出し、涎を垂らし、
森全体が唸りを上げていた。
腐臭と血と湿った土の混じった匂いが、風に乗って広がり始める。
だが――
その“群れの後ろ”には、
静かに歩く四つの影があった。
ひとりの 魔族。
その後ろに従う 三人の魔人。
魔族の男が、退屈そうに肩をすくめる。
「六千なんて、やりすぎじゃないか?
ナティア程度の街、十分すぎる戦力だろう」
ひとりの魔人が笑いながら答える。
「竜族に頼んで来てもらったら、一瞬で終わりますけどね。
どうしてこんな回りくどいことするんです?」
魔族は深い溜息をついた。
「竜族は外界に干渉したがらん。
それに――“森の魔素が乱れた今”なら、人間側の感知も甘くなる。
カモフラージュにはちょうどいい」
「はぁ、めんどくさ……」
彼らは飄々と歩きながらも、
その足取りには一切の隙がない。
もう一人の魔人が、書状のようなものを見ながら肩をすくめる。
「ただ……斥候から報告がありましたよ」
「なんだ?」
「エルドの森に、人間なのに“突出した反応”が三つほどあるとか」
魔族はふっと笑う。
「……ほう。
それは――楽しみだ」
森全体が震えた。
まるで、巨大な獣が息を吸う前触れのように。
六千の影が、確実にナティアへ迫っていた。




