第四十二話 「トーヴェルの家族と、小さな二つの光」
――また明日、少しでも動けますように。
夜風が、エルドの森の焚き火の煙をさらっていく。
その煙は、冷たい夜空へ細い線となって昇り――
やがて、星々のきらめきの中に溶けていった。
◇
その、ずっとずっと遠く。
ナティアから離れた辺境の小さな村――トーヴェル。
春の気配が少しだけ混じり始めた風が、石造りの家々と畑を撫でていく。
村のはずれにある、一軒の家の窓から、あたたかな灯りが漏れていた。
「ほら、レイム。こっち、こっち〜」
やわらかな声と一緒に、小さな笑い声が二つ重なる。
家の中。
囲炉裏のそばの敷き布の上に、七ヶ月になる双子――レイムとセレノアが寝かされていた。
レイムは、黒に近い茶色の髪がうっすらと生え始めていて、
動きに合わせてぴょこぴょこと跳ねる。
セレノアは、母譲りの赤みを含んだ淡い茶髪がふわふわと広がり、
光の当たり方によっては、ほのかに金色が混じって見えた。
二人とも、まだしっかりとは座れない。
けれど、上体を起こそうと必死に腹筋と腕を使い、
ころん、と転がっては「きゃっ」と笑う。
「も〜、そんなに転がったら、あぶないでしょ?」
そう言いながらも、
セリアは口元を緩めずにはいられない。
赤みの強い茶色の髪を肩口まで伸ばした彼女は、
双子のすぐそばに膝をつき、両手を広げて待ち構える。
「はい、レイム、こっちー。……あ〜、セレノアはそっち行っちゃダメ〜」
レイムは母の声に反応して、
よたよたとしたハイハイもどきで少しずつ前へ進む。
途中で手がすべって、顔から布の上に倒れ込む。
「〜〜っ……」
ほんの一瞬、泣くか迷う顔。
そこでセリアの手が、そっと背中を撫でた。
「えらいえらい。自分で起きようとしたね」
レイムは、鼻をふんと鳴らすと、
今度は両手を大きく突っ張りながら身体を持ち上げる。
その姿がおかしくて、セリアはつい笑ってしまった。
「ふふ。……ねぇ、見てる? アイザック」
そう呟きながら、レイムをそっと抱き上げる。
胸に抱き寄せると、レイムは小さな手でセリアの服をぎゅっと掴んだ。
「“おにいちゃん”にそっくりよ、その意地っ張りなところ
あれ、でもそんなに意地張ってたかしら」
セリアの声を聞きながら、
敷き布の端で転がっていたセレノアが、ふいにその顔をじっと見つめた。
「……あら? セレノアも来たいの?」
手を伸ばしてやると、セレノアはふにゃりと笑い、
両手をぶんぶん振って応える。
「はいはい、待っててね〜。セレノアも、おいで」
今度はセレノアを抱き上げる。
セレノアは、母の髪の先を掴んで、きゅっと引っ張った。
「いった……ちょっと、それはやめてほしいかな〜?」
そう言いつつ、怒る気にはまったくなれない。
セレノアの指が髪から離れたところで、セリアはふたりを胸の前で見比べた。
(レイムは、目元があの人にそっくり。
セレノアは、アイザックと似た色が混じってる)
レイムの瞳は、黒に近い深い茶色の奥に、
ほんの少し赤い光が揺れている。
セレノアは、金と茶と赤が柔らかく混ざり合った色――
アイザックほど強くはないけれど、その“片鱗”が確かにあった。
「……おにいちゃんね、とってもがんばってるのよ」
セリアは、双子の額に順番に口づけを落とす。
「ナティアっていう街で、剣も、魔術も、霊術も。
なんでも“まあまあじゃないくらい”がんばる子なの」
レイムが意味も分からず笑う。
セレノアが、母の胸元に顔を擦りつける。
「いつか、会わせてあげたいな……ね、レイム。セレノア」
その声に、双子の小さな手が、ぱたぱたと宙を掻いた。
同じころ。
家から少し離れた畑では、黒土の上を軽い足音がいくつも走り回っていた。
「はい、そこまでー。今日はここまで」
日焼けした腕で鍬を地面に立てかけ、
汗を拭きながら立っていたのは――アレン。
セリアの夫であり、アイザックの父であり。
そして、村では「ちょっと剣ができる人」くらいに扱われている――
本当は、とんでもない化け物。
「アレンせんせー! もう一回だけ!」
「もっと剣の振り方やりたいです!」
六〜八歳くらいの村の子どもたちが、
木剣をぶんぶん振りながら、口々に叫ぶ。
アレンは、黒に近い髪をかきあげながら苦笑した。
「おいおい。畑仕事のあとにそんな元気残ってるなんて、
お前ら、トーヴェルの土に愛されてるな」
「愛されてます!」
「愛されてます!!」
元気よく返事が返ってくる。
その声に、アレンは喉の奥で小さく笑った。
「よし、じゃあ一回だけだ。
その代わり、さっき教えた“足の運び”を忘れたら終わりな」
子どもたちの目の色が変わる。
アレンは木剣を片手で軽く持ち上げ、
ほんの少しだけ腰を落とした。
その動きだけで、空気の張りが変わる。
(……相変わらず、身体が覚えてやがる)
内心で苦笑しながら、子どもたちの正面に立つ。
「いいか。剣は腕じゃない。足と腰だ。
“ここ”で折れた線は、剣先に届かない」
自分の腰と足首を指さし、
そのまま地面を蹴る。
――す、と。
ただ横に一歩踏み出した。
それだけの動きなのに、子どもたちの視界から一瞬アレンの姿が消える。
「わっ……!」
「い、今どこに……!」
一拍遅れて驚きの声があがる。
アレンは、さっきまで立っていた場所の横で、
何事もなかったかのように木剣を下ろした。
「今のが、“線を崩さない踏み込み”だ。
別に速く動いてるわけじゃない。止まらず繋げてるだけだ」
もちろん、それはほとんど誤魔化しだ。
実際には、筋肉と魔素と“剣気の名残”すら混ざった、
とんでもない踏み込みだった。
(……あいつとやりあってた頃に比べりゃ、さすがに丸くなったかね)
淡い金髪の剣士の姿が、ふいに脳裏をよぎる。
口元がわずかに緩んだ。
「せんせー!」
一人の少年が、恐る恐る手を挙げた。
前歯が一本抜けかけている、七歳くらいの子だ。
「ん? どうした、ティオ」
「あの……、この前話してた“先生の子ども”って……
その、強かったんですか?」
「あー……」
アレンは、思わず空を見上げた。
薄く靄のかかった空の向こうに、どこか遠い街の姿を探すように。
「強かったんですか?」
ティオはもう一度尋ねる。
他の子どもたちも、興味津々の顔でこちらを見ていた。
「……まあ、そうだな」
少し間を置いて、アレンは口の端を上げた。
「“まあまあ”だ」
子どもたちから、微妙な声が漏れる。
「えー、“まあまあ”なんですか?」
「先生の子どもなんだから、もっとすごいかと思った」
「そうか? まあまあ、ってのも結構すごいもんだぞ」
肩をすくめて見せるアレン。
けれど、その心の中では――
(七年。たった七年――あいつは一度も、さぼらなかった)
小さな手で木剣を握っていた頃から。
畑仕事を手伝わせたあとでも、眠そうな目をこすりながら、
毎日欠かさず素振りを続けた息子の姿。
魔素をうまく扱えず、悔しそうに歯を食いしばっていた顔。
霊素の感覚を覚えたときに、あからさまに目を輝かせた横顔。
(剣も、魔素も、霊素も――全部を“まあまあ”以上で続ける。
そんなやつが、“まあまあ”なわけがねえだろ)
胸の奥で、誇らしさと少しの寂しさが、静かに混ざり合った。
「でもな」
アレンは、木剣を肩に担ぎ直し、子どもたちを見回した。
「あいつは“強くなるため”だけに剣を振ってたわけじゃない。
誰かを守るために、毎日“線”を重ねてた」
「守る、ですか?」
「そうだ。……お前らにも、いつかそういう“剣の振り方”ができるといいな」
子どもたちは、よく分かったような分からないような顔をしながらも、
まっすぐうなずいた。
「じゃあ、今日はここまで。木剣を片付けて、ちゃんと水飲んで帰れ」
「はーい!!」
子どもたちが走り去っていく。
その背中を見送りながら、アレンは小さく息を吐いた。
(……まあ、“強かった”かどうかの答えは)
ふと、遠い空の向こうを見上げる。
(次に会ったとき、“アイザックが見せてくれる”んだろうさ)
◇
夕暮れが近づくと、トーヴェルの家々から、
夕食の匂いと子どもたちの声が漏れ始める。
アレンが家の戸を開けると、真っ先に飛び込んできたのは――
「〜〜〜〜!」
意味のない声を全力で叫びながら、
敷き布の上でバタバタしている双子の姿だった。
「おう、ただいま――って、元気すぎねえか?」
靴を脱ぐ間もなく、レイムがこちらを見つけ、
ぱぁっと顔を輝かせる。
そのまま、転がる勢いでこっちに突進してくる。
「おっとっと……!」
アレンは慌てて両手を差し出し、レイムをひょいと抱き上げた。
「うわ、もうこんなに重くなったか。お前、本当に七ヶ月か?」
「ふふ、ちゃんと食べて寝てますからね」
台所から顔を出したセリアが、エプロンの裾で手を拭きながら笑う。
「セレノアは?」
問いかけると、セレノアは敷き布の端で、
お気に入りの布切れを握りしめたまま、こちらをじっと見ていた。
目が合った瞬間、ふにゃっと笑い、両手を伸ばしてくる。
「はいはい、分かってるって」
アレンはレイムを片腕で支えたまま、
空いた方の腕でセレノアを抱き上げた。
「よしよしよし。……なんだこの状況、両手が塞がってんぞ」
そう文句を言いながらも、顔は緩みっぱなしだった。
レイムはアレンの顎ひげをむにっと掴み、
セレノアはアレンの鼻を指でつつく。
「いって、いって……! お前ら、父親の顔をなんだと思ってる」
「遊び道具ですかね」
セリアの即答に、アレンは思わず笑った。
(……アイザックのときは、もっとぎこちなかったよな、俺)
初めて抱いたとき、どう腕を添えればいいか分からず、
不器用に固まっていた自分。
今は、自然と身体が動く。
「……なぁ、お前ら」
アレンは、双子を胸の前で軽く揺らしながら、ぽつりと呟いた。
「おにいちゃん、がんばってるらしいぞ」
レイムがきょとんとした顔で瞬きをする。
セレノアは、なぜか笑いながらアレンの胸元を叩いた。
「そうそう。あいつ、がんばるときだけ顔が怖ぇんだ」
くすくす笑う声が、囲炉裏の火の音と混ざる。
セリアは、鍋をかき混ぜながら、その背中をじっと見つめていた。
(……あなたも、ね)
“まあまあ”なんて言ってごまかすけれど。
息子の話をするときのアレンの背中は、
いつだって、少しだけ誇らしそうに見える。
双子の小さな手が、アレンの服をぎゅっと掴む。
その温もりを胸いっぱいに受け止めながら、アレンは目を細めた。
(アイザック)
遠く離れた森のどこかで、
息子がまた剣を振っている気がする。
(お前が“守りたい”って思った線は――
ちゃんとここにも、繋がってるからな)
レイムとセレノアが、同じタイミングであくびをした。
その小さな口を見て、アレンとセリアは顔を見合わせ、同時に笑った。
トーヴェルの夜が、ゆっくりと降りてくる。
遠く離れたナティアの森と、
小さな村の家の灯り。
二つの場所で、同じ空の下――
細い線が、確かに繋がっていた。




