第二十六話 「揺れる炎と、祠が見ている夜」
――魔術……絶対に覚えてみせる。
エルドの森の静寂の中でそう呟いてから、数日が過ぎた。
あの日、確かに“見えかけた”魔素の流れ。
あの一瞬をもう一度掴みたくて、本当なら毎日でも森に籠もっていたい。
けれど、僕は冒険者だ。
宿代も、食費も、装備の修理代も――自分で稼がなければならない。
(生活もしなきゃいけないしな……)
訓練の合間に、僕は依頼をいくつか受け続けた。
今日もまた、そんな一日だ。
ギルドの小さな列に並んでいると、
カウンター越しにミーナが微笑みながら依頼票を確認していた。
「街道沿いの護衛ね。盗賊じゃなくて魔物対策。
小型が多いはずだから、Eランクなら十分よ」
「うん。群れだけ気をつければ大丈夫だと思う」
ミーナは僕の顔をしばらく見つめ、ふっと表情を柔らかくした。
「……前より、顔が落ち着いてきたね。アイザックくん」
「え?」
「前は、そうね……
“怖いけど前に出なきゃ”って焦ってるような顔をしてたけど。
今は、“怖いけど、それを抱えたまま前に出る”って感じ」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
(……ほんと、よく見てるな)
ミーナは、人の変化に敏感だ。優しさで見ているから気付けるのだと思う。
「無茶しないでね。でも……その変化は、ちゃんと“いいこと”だよ」
「……ありがと」
短いやり取りなのに、胸に灯るものが確かにある。
依頼主の商隊へ合流し、道中ウサギ型の魔物が現れたが――
「大丈夫、動きを止める」
僕は足を刈るようにして倒し、他の冒険者がトドメを刺した。
(……斬れないままじゃ駄目だって分かってる。けど、今はまだ……)
商人の差し出したパンが妙に温かく感じるのは、不思議な心の重さのせいかもしれない。
♢
別の日。
護衛依頼を完了したのち、
ミリエルの採取依頼にも同行した。
「ほら見て! この葉っぱ、微妙に形が違うでしょ?
薬草になるのは、こっち!」
森の中をぴょんぴょん跳ねるように進むミリエル。
小型の魔物が現れても、僕が一歩前へ出れば――
「大丈夫、近づけないように動きを止める」
斬らず、軌道だけ逸らして木にぶつける。
「やっぱり、前より動きが滑らかになってるよね」
「そう?」
「そう。“怖いのをごまかしてる”じゃなくて……
“怖いのと一緒に動いてる”って感じ」
「……難しいこと言うなぁ」
でも――その言葉は、胸の奥で灯りのように温かかった。
依頼を終えてミリエルとわかれて街へ戻る途中、銀髪の戦士が歩いてくる。
「……カールアさん」
特別試験の試験官――カールア・フェンリス。
「依頼帰りか?」
「はい。護衛と採取を少し」
カールアは僕を見つめ、すぐにそっと視線を逸らした。
「……“死にに行く目”じゃなくなったな」
「え?」
「試験の時のお前は、覚悟だけで自分を潰す目をしていた。
今は……少しだけマシだ」
短い言葉なのに――
その背中には、計り知れない“階層”の違いが滲んでいた。
(あの人……どれだけ強いんだろう)
胸の奥がひゅっと冷え、同時に熱を帯びる。
♢
そして、ある朝。
僕はまた、エルドの森のお気に入りの場所にいた。
小川のせせらぎ。
揺れる木陰。
霊術で広げた“気配円”が、森全体の息づかいを優しく撫でる。
(今日は……魔術をもう一度やってみよう)
剣の素振りを終え、深く息を吸う。
魔術書で何度も見返した《ファイア・バレット》の術式。
胸の奥――核のあたりが静かに熱を溜め始める。
(胸から魔素を……器に流す。流れを捻って、火の形に――)
頭で考えるほど混乱する。
だから今日は、少し発想を変えてみた。
(“色”で感じてみる……)
霊術の“内と外の境界を見つめよ”という言葉が、ふっと思い出された。
魔素は――薄い空色。
霊素は――胸の奥で脈打つ金色。
そして胸の奥に揺れる、名前のつけられない“三つ目の色”。
色を決めると、不思議と世界が少し色づくように感じられた。
空気に溶ける空色の線。
胸奥で点滅する淡い金色。
そして、境界に揺れている“第三の色”。
(混ざれ)
“第三の色”が混ざったかと言えば分からないが、
そう念じることで、なぜか落ち着く。
願った瞬間、空気の輪郭がほんの少し震えた。
指先に、温度が生まれる。
冷たくも熱くもない。
ただ“まだ名前のついていない光”のような温度。
そこへ――火のイメージを重ねる。
焚き火。
家の鍋を温める炎。
母の「手をかざすと温かいよ」という声。
――ぱち。
小さな音。
次の瞬間、僕の掌の上に――火が灯った。
「……え」
橙より淡く、白に近い。
でも、確かな熱を持っている。
ふわりと揺れる掌サイズの火球。
それは確かに、《ファイア・バレット》の“器”。
嬉しさで胸が震える。
(……やっと、魔術が……)
火球を見つめる瞳が熱を帯び、思わず息を呑む。
炎は、風もないのに静かに震えている。
端には、金色の揺らぎと、無色の粒子が淡く混じっていた。
――けれど。
その“異常さ”に、僕はまったく気づかなかった。
火球を解くと、音もなく消えた。
焦げ跡は……ほとんどない。
ただ、地面に“焼けてもいない影”だけが残っている。
(……影?)
見間違いかと思い目をこすったとき――
――ちりん。
遠く、街の端の祠の方角から鈴の音が響いた。
「……祠……」
森の中なのに、明らかに分かる。
気配円を広げると、街の端だけ光が揺らめいたように感じた。
(見られてる……?)
胸の核が、規則的に脈打つ。
ズキ……ズズ……。
不思議と、怖くはなかった。
♢
その頃、森を見下ろす高木の枝の上。
黒い外套の男――
ザルヴェイン帝国《影紡》の諜報員、シリアス・ヴェイルは
淡い術式板に映る魔素の揺れを見つめていた。
「……今の揺らぎ。
初級魔術の範疇を、わずかに逸脱している」
空色の魔素の渦線。
そこに干渉する、無色の“第三の揺らぎ”。
「“律”の枠組みを……外側から微かに撫でている」
彼は小さく呟く。
刻文を書いた札が光を放ち、霧散する。
『対象、魔術体系への初アクセス確認。
魔素・霊素・不明エネルギーの混合。
“律揺らぎ”増大』
シリアスは、微かに笑った。
「……やはり、“Genesis(創造)系統”の素質。
帝国だけではない。“向こう側”も動き出すか?」
影のように、気配ごと枝上から消える。
♢
夕方、ギルド。
「……アイザックくん。今日の顔、すっごく明るいね?」
ミーナが不思議そうに笑う。
「そんなに変かな?」
「変じゃないよ。“なにか掴んだ人”の顔だよ」
図星だった。
(ここで……魔術が使えたなんて言えないけど)
「少しだけ、魔素の扱いが分かってきた気がして」
「そっか。それなら嬉しいよ」
そう言いかけたとき――
ギルドの扉が、勢いよく開いた。
「伝令だ!!」
場の空気が凍りつく。
「ナティア近郊で“魔素の暴走”の兆候!
中型以上の魔物の出現頻度が上がっています!」
ざわめき。
ギルド長が書状を受け取り、
名が呼ばれた。
「カールア・フェンリス。調査任務の編成と実行を任せる」
「了承」
戦場へ向かう戦士の背中――
あれは、ただの試験官ではない。
(あの人……やっぱり……)
Eランクの僕でさえ分かる。
あれは“高位”のそれだ。
ミリエルが袖を掴む。
「今日、森の気配……ピリピリしてた。怖かった」
「……そうか」
(魔素の暴走……)
嫌なざわつきが胸を走る。
「絶対、ひとりで突っ込まないでね?」
「……うん。約束する」
同じ頃、ギルド長室の隣の小部屋。
カールアは羊皮紙に筆を走らせていた。
『件名:アイザック・ヴァーンについて
Eランク・無界修得者。
致死打を躊躇する一方、人への攻撃を“寸止め”する異能の制御力。
剣周囲に“剣気に近い揺らぎ”を確認』
返信の羊皮紙を思い返す。
『面白い。詳しく見ておけ』
(……あの人が“面白い”と言うとは)
カールアはさらに書き足す。
『本日、魔素暴走の兆候あり。
件の少年との関連、不明。観測を継続する』
封をしてギルド長に渡す。
それはひっそりと――
けれど確実に“世界の外側”を揺らす一筆だった。
♢
夜。
依頼の疲れ、魔術成功の喜び、不安。
全てを抱えたまま宿の机に向かう。
魔術書と霊術書を開き、今日の感覚を反芻する。
(空色の魔素、金色の霊素……
そして、“あの色”)
掌を見る。
あの火球――静かすぎた。
(気のせい……だよな)
窓の外。
ナティアの夜は静か。
ふと祠の方角を見た瞬間。
――ちりん。
風もないのに、鈴の音が胸の隣で鳴ったように響いた。
(……まただ)
胸の核が応える。
ズキ……ズズ……。
祠の奥から、誰かがこちらを“見ている”。
影でも声でもない。
ただ、はっきりとした視線だけ。
「……見てるなら」
思わず、息のように呟いた。
「ちゃんと……前に進むからさ」
返事はない。
ないのに――
どこか遠くで、誰かがそっと鈴を揺らした気がした。
この世界の“どこか”。
ナティアより外――もっと遠く。
揺れる炎。
揺れる律。
揺れる世界。
祠が見ている夜に、
僕の小さな一歩が、深く刻まれていった。




