第二百五十三話 「もう隠せない」
魔狼王様。
俺は反射的に頭を下げた。
「騒ぎ立てて、失礼しました」
「醜態をさらし申し訳ございません」
「ご、ごめんなさい!」
「ごめんなさい!」
俺だけじゃない。
炎狼も水狼も、ハヤトとユイナまで慌てて身を低くしようとする。
だが、魔狼王様は気にした様子もなく喉の奥で小さく笑った。
「気にするな。そもそも、我がいきなりここへ来た身だ」
「王が来た身など申さないでください。ここは王の領域です」
雷狼がすぐにそう返す。
その言葉に続くように、炎狼も水狼も小さく頭を垂れた。
やはり、この場の空気は一瞬で変わる。
魔狼王様が近くに来ただけで、さっきまでのざわめきが嘘みたいに引いていく。
「魔狼王様、よろしいですか」
俺は一歩だけ前に出て問いかけた。
「ふっ、よろしいも何も、言えばよいではないか。ゼフィルよ」
魔狼王様は上機嫌だった。
だが、上機嫌という言い方が正しいのかは分からない。
いつもの静かな圧の奥に、何か強い興が滲んでいるように見えた。
「では、お言葉に甘えて。雷狼の発言とも重なりますが、
なぜ魔狼王様自らこの広場へ来たのでしょうか?
本来なら、王域にてアイザックと顔を合わせるはずだったかと」
そう言いながら、俺はちらりと戦いの方へ目を向けた。
激しさは増している。
それに。
あのアイザックの顔。
笑っているのか?
初めて見る顔だった。
あんな顔もするのか。
魔狼王様は少しだけ黙っていた。
だが、その沈黙はただ考えているだけのものじゃない。
見ている。戦いを。アイザックを。ヴェルセイン殿を。
「つい先ほどの出来事だ」
「つい先ほど、とは?」
俺が問うと、周囲の魔狼たちも、ハヤトとユイナも、魔狼王様の次の言葉を待った。
「アイザックを迎えようとして、
魔狼の領域近くまで出ていた狼たちの……生き残りを手当てしていた時だ」
その瞬間、胸の奥が重く沈んだ。
そうだ。
そうだった。
俺のせいだ。
俺がアイザックのことを話したから。
俺が迎えたいと言ったから。
みんなも迎えに行きたいと言ってくれた。
そのせいで死んだ。
アイザックの話によると、かなり残酷に。
もちろん、本来恨む相手が違うことくらい分かっている。
分かっているのに、感情はそんなに綺麗じゃない。
「ゼフィル。お前が気に病む必要はない」
魔狼王様が静かに言った。
「ですが……!」
思わず炎狼が口を開く。
「炎狼よ。王の声を遮るでない」
雷狼が低く制した。
炎狼は悔しそうに牙を噛みしめて俯く。
「すまないな。続きを話そう」
魔狼王様はそう言ってから、もう一度戦いへ視線を向けた。
「その時だ。地を叩いた鋭い音とともに漏れていた、あの黒き揺らぎの残滓。
あれのせいで我はここへ来た。いや、ここへ来ざるを得なくなった」
黒き揺らぎの残滓。
たしかに、あの時。
ひどく憤慨していたアイザックの体から、黒い何かが漏れていた。
黒い魔素。
いや、あれは魔力だったのか?
どちらにせよ、おかしい。
人間のくせに、魔物の死にあれほど心を乱されること自体が、まずおかしいんだ。
「つまり王は、あの黒い力があの子自身を知るための鍵になると見た。
そして、だからこそ今、銀狼殿と戦わせている」
水狼が静かに言った。
「そのうえで、その黒き揺らぎの残滓は、
王をも惹きつけるものだった。そういうことでしょうか」
「さすが水狼だ。頭が回るな」
「お褒めに預かり光栄です」
水狼がわずかに頭を下げる。
魔狼王様は満足そうに頷いてから、今度は俺たち全員に向けて言った。
「おそらく実力はヴェルセインの方が上だ」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
「ヴェルセインは元より、牙と爪を交えながら相手を知ろうとする」
「だが、よく見てみろ。アイザックは必死に食らいつく。そして適応している。
それに剣も、魔素の扱い方も異様にうまい。おかしいとは思わぬか?」
思う。
思わないわけがない。
「お前たちはまだ幼かったゆえ、記憶は鮮明ではないやもしれぬ。
だが、ヴェルセインたち我の近くに立つ者らが、
この地を侵すために押し寄せた数千を超える人間どもを、
迎え撃った時のことを覚えておるか」
ああ覚えている。
はっきりと。
あの時の人間どもの顔も、匂いも、行いも、今でも忘れられない。
「そして今でも、稀にではあるが人間はここへ来る。
その時、奴らは大体四人、五人で固まっている」
「たしかに」
炎狼が短く相槌を打つ。
「剣を振るう者。人間でいう魔術を扱う者。不意を突く者。
近距離で押さえる者。役割が分かれている。人間の戦い方は本来そういうものだ」
その言葉を聞いた瞬間、ずっと胸の奥に引っかかっていた違和感の形が見えた。
「つまり、アイザックは……」
気づけば、俺は口を開いていた。
「本来なら複数で担う人間の戦い方を、一人でやっているということでしょうか?」
「そういうことだ」
魔狼王様は即答した。
「とはいえ、人間でも実力者の部類に入る者の話だ。
人間。いや、勇者や聖なる者どもはまた別だがな」
その言葉を聞いて、幼い頃に聞いた魔狼王様の武勇の話をふと思い出す。
あの頃の俺は、ただすごいとしか思っていなかった。
今は少し違う。
すごいだけじゃない。
その背後にあるものが、少しだけ見える。
だが、それでもなお疑問は残る。
「ですが王よ」
雷狼が口を開いた。
「それを、あのようなまだ幼い人間がその領域に達しているとなると……危険です」
危険。
その言葉に、この場の空気がほんの少しだけ重くなる。
「危険かもしれないな」
魔狼王様はあっさりとそう言った。
ビリッ。
ビリリ。
バリバリバリ!
雷狼の体の周囲で、細い電気が走った。
怒りか、警戒か、それとも本能か。
どちらにせよ、ただの会話の空気じゃない。
「では今、銀狼殿が手を離せない状態でしたら」
雷狼の声が低くなる。
まずい。
そう思った瞬間だった。
「おい、頭が高いな」
ぐにゃり、と空気が歪んだ。
うっ。
体が軋む。
濃い。濃すぎる。
魔素……いや、この存在感そのものが周囲をねじ曲げてくる。
炎狼が息を詰まらせる。
水狼の足元が揺れる。
エルナがハヤトとユイナを庇うように身を寄せる。
忘れていた。
この方は、魔狼王だ。
我ら魔狼の領域を統べる魔狼。
半神。
この広大な魔の森の一角を支配するお方。
そして、俺たちが束になっても勝てる姿が思い浮かばない存在。
「雷狼。いつから貴様は我よりも偉くなった」
「い、いえ。そのようなつもりは。王のためを思い……」
「そうか。我のことを思うのなら、変な気は起こすな。
アイザックは大事な招かれた客なのだからな」
「心得ました……」
雷狼がようやく頭を下げる。
「分かったのならよい」
その直後。
「ぐう……」
「ぐる……」
ハヤトとユイナが小さく唸った。
魔狼王様はすぐに二頭へ目を向ける。
「すまぬ。ゼフィルの子らよ。大丈夫か?」
「おい、雷のおじさん」
ハヤトが唸りをこらえながら、それでも顔を上げた。
「いくらお父さんと仲良くても、イザクお兄ちゃんを傷つけたら許さないぞ」
「私も許せない」
ユイナも続けて睨む。
その言葉に、雷狼は固まった。
「こら、二人とも。魔狼王様の前よ。それに……」
エルナが慌てて止めようとする。
だが。
「ふふ……はっは。随分とたくましくなったな」
魔狼王様は笑った。
「エルナ、お前も気にするな」
「ですが……」
「我は嬉しく思う。この我を前にして、その堂々たる姿勢。
まさか幼き魔狼で初めて見ることになろうとはな」
そう言って魔狼王様は、俺たちを順に見た。
この魔狼の領域で、魔狼王様の前でここまで堂々と意志を通せる者はいない。
それもふざけてではなく、本気で、自分の想いを曲げずに。
それが、まさか俺の子らだなんて。
なあ、アイザック。
お前はいったい何者なんだ。
生まれた時は、こんなんじゃなかった。
あの子らだって、最初からこんなふうじゃなかった。
まさか、それさえもお前の影響なのか。
「い、いえ……違います」
ハヤトが少し慌てたように首を振る。
「はい……でも」
「俺は好きなんです。イザクお兄ちゃんが」
「私もです」
ユイナも、ためらいなく続いた。
好き。
魔物である俺たちが、人間に向けてそういう言葉を使う意味は、本来ならありえない。
ありえてはいけないのかもしれない。
だからこそ、ほんの少しだけ、この場の空気が揺れた。
「それと、さっきはごめんなさい」
「ごめんなさい。魔狼王様。それに雷のおじさんも……」
ハヤトとユイナがしゅんと耳を伏せる。
「謝罪は受け取る。だが、気は落とすな」
魔狼王様がそう言うと、二人は小さく頷いた。
「しかし、そうなるとますます知りたくなるな。あの人間、アイザックを」
「まさか騙されては……」
雷狼が低く漏らす。
「雷狼。黙っていろ」
「は。出過ぎた真似を」
今日の雷狼はとことんついていないな。
だが、言いたいことも分かってしまう。
それくらい魔物と人間はそういう仲だ。
それでも。
もう俺は、アイザックたちをただの魔物と人間の関係だとは思っていない。
あいつらを知りすぎてしまったからだ。
「それにしても、こうなるとはな。
あの灰色の髪をした魔族の小僧の頼みに、
大事なゼフィルたちの力を借りさせたのも、
結果だけ見れば悪くなかったのかもしれぬ」
魔狼王様がふとそう漏らした。
だが、すぐに首を横へ振る。
「いや、お前たちはとんでもない被害に遭った。そうではないな。すまない」
その言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。
でも、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
じゃなければ。
俺たちはアレンとセリアに出会えなかった。
セレノアとレイムに出会えなかった。
そして、アイザックにも。
きっとそうだ。
「もしかしたら、我が出なければならぬかもしれないな」
その一言に、炎狼、水狼、雷狼が一斉に息を呑んだ。
「王が自ら!?」
「そんな……!」
「まさか!」
だが俺は、その言葉よりも先に、自分の胸の奥にある感情を見ていた。
今の俺が戦っても、勝てるかは分からない。
いや、違う。
勝てるかどうかじゃない。
戦いたくない。
負けるからでもない。
怖いからでもない。
ただ。
……そういうことか。
もう俺にとって、あいつらはかけがえのない存在になっていたのか。




