第二百五十二話 「異常な驚異は」
俺が見ているのは、本当に現実か?
少し前、あの灰色の髪をした魔族の男に頼まれて、
俺はしぶしぶ人間の街へ向かった。
そこで初めて戦った人間。
しかも、まだまだ未熟だった子供。
それが今や、ヴェルセイン殿と対等に渡り合っている。
その時点で普通ではない。
「あなた」
そう声をかけてきたのは、俺の番……いや、今は妻のエルナと呼ぶべきか。
「どうした?」
「アイザック、あんなに強かったかしら」
エルナは戦いから目を離さないまま、小さく息を呑んだ。
「今のあの子、前よりも弱い気がするの。
あなたが前に言っていた言葉、私も確かにそう思ったわ」
前よりも弱い。
なのに、今の方が怖い。
俺も同じことを感じていた。
風の森にいた頃から、アイザックが賢くて強いのは分かっていた。
だが、それにしてもおかしい。
成長が早すぎる。
「当たり前だ。だから俺も、よく分からないんだ」
「よく分からないだって?」
横から呆れたような声が差し込んだ。
見ると、炎狼と雷狼、それに水狼がいつの間にかすぐ近くまで来ていた。
「お前が分からなかったら、私たちはどう分かったらいいのさ」
炎狼がそう言って鼻を鳴らす。
「そう言われてもな……」
俺が言葉を濁すと、水狼が静かな顔のままぽつりと呟いた。
「本当にあれで弱くなってるの? ヴェルセイン殿は私たちよりも強いし……」
声色は落ち着いているのに、表情は明らかに揺れていた。
あいつなりに衝撃を受けている……いや、それだけじゃない。
何かに食いつきかけているような目だ。
「おい、水狼も、それに炎狼もだが、
なんでそんなにアイザックへ色がるような目を向けているんだ?」
そう聞くと、炎狼は一瞬だけ目を逸らした。
「だ、だって、それは……あいつの火は旨そうだからだ」
「私も、あの子の水はおいしそう……」
水狼までそんなことを言い出す。
「水のおばさん!」
「おいしいんだよ、イザクお兄ちゃんの作った水!」
「うんうん! すごく甘いのに、うまいんだよ!」
ハヤトとユイナが勢いよく割って入った。
「やっぱりそうなのね……って、あなたたち。私はおばさんじゃありません!」
水狼がむっとする。
「まあまあ、落ち着いて」
エルナが苦笑しながらなだめる。
「てことは、火も美味しいのか?」
炎狼が興味津々で聞くと、
「しらない!」
「うん、しらない!」
ハヤトとユイナがそろって首を振った。
そのやり取りの最中も、誰も戦いから完全に目を離してはいない。
アイザックとヴェルセイン殿の戦いに、炎狼も水狼も完全に釘付けだった。
そこへハヤトとユイナの話まで重なって、場の空気は妙に騒がしくなっていく。
「エルナ」
「なに?」
「ハヤトとユイナって、あんなに話がうまかったか?」
「ううん。でも、多分アイザックの影響じゃないかしら」
「そうか」
俺は短く返した。
アイザック。あいつはやっぱりすごい。
アレンと話していた時にも思ったが、あの家族と過ごした時間は確かに俺たちを変えた。
「風狼の長……いや、すまない。昔の癖だ。ゼフィル、それにエルナだったな」
雷狼が少し言い淀みながら言い直す。
「雷狼、お前も無理をするな」
「そうよ。私たちは実際に風狼ですし」
エルナも穏やかに続けた。
「そうは言うがな。特にゼフィル。
貴様、この森に帰ってきてからずいぶん惚けていたではないか。あの人の子に」
「ま、まあ、それもそうだが……」
言い返そうとして言葉が続かなかった。
アイザック。それにアレンやセリア、あの赤子たちと過ごした時間は楽しかった。
楽しかったなんて、魔物である俺が人間に向けて抱くにはおかしな感情かもしれない。
けれど、それでも。
もう俺は、アレンたちをただの人間としては見ていない。
自分でもそれは分かっていた。
「なんだ? そんなに人間の世界が好きになってしまったか?」
炎狼が茶化すように言う。
「断じて違う!」
思わず強く返す。
「じゃあ、あの人間に……」
雷狼がそこまで言って、口を止めた。
ああ、そうか。
俺はもう、アイザックたちのことを……。
そこまで考えたところで、炎狼が目を丸くした。
「すごい……!」
その声につられて、俺も再び戦いへ視線を戻す。
さっきまで押されていたはずだった。
ヴェルセイン殿の残像に翻弄され、防戦一方に見えていた。
それなのに今は違う。
劣勢を振り払って、すぐに食らいついている。
「本当に、さすがお前やエルナ。そして、あの子たちの契約主だ」
雷狼が感心したように言った。
「なぜだ?」
「さっきまでヴェルセイン殿に押されていたのに、
その劣勢を振り払ってすぐ善戦している。
普通なら立て直すだけでも難しい。
あんなふうに、押し返す側へ回れるはずがない。」
たしかにそうだ。
俺も、薄々そう感じていた。
さっきまで、押されていたはずだ。
いや、この感覚は懐かしくもあるかもしれない。
初めてアイザックと戦った時もそうだった。
押していると思った次の瞬間には、もうこちらの想定から外れてくる。
尊敬とともに、恐ろしくも感じる。
「中々盛り上がっているな。我も混ざってよいか?」




