第二百五十話 「激突、銀狼ヴェルセイン」
「それってどういうことですか?」
思わずそう問い返すと、魔狼王様は喉の奥で低く笑った。
「面白いことを言うな。自分のことを知りたいと言っただろう。
だから我が直に確かめてやる」
そう言うなり、夜のように黒い巨体がこちらへ迫る。
ゆらりと揺れる毛並みだけで、空気が重くなった気がした。
待ってくれ。
直に確かめるって、どういう意味だ?
そこまで思った時だった。
「お待ちください、王よ」
声を上げたのは、この広場まで僕とハヤトくん、ユイナちゃんを導いてくれた銀色の狼だった。
派手さはないのに、なぜか目が離せない。
研ぎ澄まされた刃みたいな鋭さがある。
「いきなり王自らが動くなど、我らの面目が立ちません」
そう言って、その銀狼は周囲の狼たちを一瞥した。
その視線でようやく気づく。
さっきまで多くの狼がこの場を去ったのに、今も残っている狼たちは違う。
きっと特別な狼たちだ。
ゼフィルさんたちも、多分その中にいる。
「そうか?」
魔狼王様が問う。
「はい。ここはこの私にお任せください」
「それもそうであるな。では頼んだぞ、銀狼ヴェルセインよ」
銀狼ヴェルセイン。
魔物なのに名前がある。
僕がゼフィルさんたちと命名契約を交わしたように、
この狼も誰かに名を与えられた存在なのか?
「感謝いたします」
その返答に空気がわずかに揺れた。
「……ヴェルセイン殿が」
ゼフィルさんの声が低く強張る。
隣でエルナさんも目を見開いていた。
周囲の狼たちも声こそ上げないが、明らかに空気が変わった。
やっぱり、ただの銀色の毛並みをした狼じゃない。
「だが珍しいな、ヴェルセイン自ら名乗り出るとは」
魔狼王様はそう言って、僕ではなくその場に残る狼たちへ視線を巡らせた。
「もちろん、我が最初から動くのは王として、
お前たちの立場も踏まえねばならぬ。
だが、それ以上に何か言いたげな顔をしているな」
「いえ……」
ヴェルセインさんは一度言葉を濁した。
「いや、構わん」
魔狼王様が促す。
少しの沈黙のあと、ヴェルセインさんが口を開いた。
「では、正直に申し上げます。あそこの人間が無害なのは確かに分かります。
ですが……まだ腹の底は静まっておりませんので」
その声は静かだった。
けれど、静かな分だけ奥に沈んだ怒りがよく分かった。
「ふっ、そうか。では任せたぞ」
「はっ」
そこで今度はゼフィルさんが一歩前に出た。
「お待ちください、王よ」
「どうした、ゼフィルよ」
「魔狼王様や……それにヴェルセイン殿が直に確かめるとなると……」
言葉の続きを濁したゼフィルさんの横で、エルナさんも明らかに心配そうな顔をしている。
魔狼王様はそんな二人を見て、少しだけ目を細めた。
「アイザックの強さを実際に知っているではないか。
まあ、おそらく前のナティアの時の方が強かったかもしれんがな」
その言葉に、ゼフィルさんとエルナさんが短く息を飲んだ。
「その通りです……」
「仰せのままに」
なんで確かめるのに、そんな強さの話が出てくるんだ。
僕が戸惑っていると足元から小さな声がした。
「イザクお兄ちゃん……大丈夫かな?」
「アイザックお兄ちゃん……」
ハヤトくんとユイナちゃんが不安そうに見上げてくる。
「だ、大丈夫じゃないかな? 確かめるだけだし」
「そっか」
「くうん……」
二人の声は全然安心していない。それでも、僕はそう言うしかなかった。
「では、そういうことだ。アイザック。準備はいいか?」
魔狼王様に問われ、僕は反射的に背筋を伸ばした。
「は、はい!」
僕のことを知るために確かめるだけなのに、
なんでこんなに空気が張り詰めてるんだ。
そう思った時だった。
「アイザック以外は下がれ」
魔狼王様の一声が響く。
「え?」
「ハヤト、ユイナ、こっちに」
ゼフィルさんとエルナさんがすぐに二人を下がらせる。
ハヤトくんとユイナちゃんが、どこか心許なさそうな目で僕を見ていた。
そんな顔しなくてもいいのに、と思う。
でも同時に、胸の奥で嫌な予感も膨らんでいく。
気づけば、広場の中央に取り残されたのは僕だけだった。
「アイザックよ。ヴェルセインは中々に強いぞ。存分に力を振るうがよい」
魔狼王様の声が落ちる。
へ?
だから一体、どういう。
直に確かめる……。
って、まさか手合わせ……?
「よそ見とは随分余裕そうだな、人間よ」
え。
視界いっぱいに、銀色の巨大な爪が迫っていた。
爪というより、何本もの鋭い剣だ。
まずい。
「っ」
ギィン。
咄嗟に剣で受ける。
受けた。受けたはずなのに重い。
爪がもう離れているのに、残った圧だけで体が押されていく。
「やるな、人間よ。さすが風狼の長たちが認めただけはある」
「やるなって、なんなんですか! いきなり!」
「なに。直に確かめるのが魔狼王様ではなく、私になっただけだが」
そう言って、ヴェルセインさんは首を小さく傾げた。
ああ……そういうことか。
直に確かめるって、やっぱり手合わせで確かめるってことか。
でも、なんでそれが僕のことを知ることに繋がるんだ。
黒き揺らぎの残滓。
お父さんが言っていた黒いイザーク。
いや黒い僕……もしかして。
「私を前にして目を逸らすとは、舐めているのか?」
「くっ……また!」
今度は速さだけじゃない。
狙う場所もえぐい。右、左上、右下。
そこからすぐ足元まで入ってくる。
しかも4mはある巨体から叩き込まれる一撃一撃が重い。
ガキィン。
キィン。
ガキン。
「おい、人間。見くびっていたぞ。矮小な人間風情が、
私の攻撃をここまで捌くとは見事だ。だが出し惜しみはするなよ」
「それはありがとうございます。って、矮小って……」
たしかに人間と魔物、それに魔族や魔人族の仲が悪いのは知っている。
けれど、あまりにもはっきりしていた。
「ヴェルセインさんは、人間のことをどう思ってるんですか?」
「屑だな」
「は?」
白銀の毛並みがゆらりと揺れる。
その次の瞬間、残像が生まれた。
分身じゃない。残像だ。
しかも一つじゃない。
動きが遅くなったように見えるのに、身体が何重にも遅れて襲いかかってくる。
でも、このくらいの速度なら。
そう思った瞬間、嫌な感覚が背筋を走った。
これ違う。
風位感応の加護が警告している。
左からじゃない。
右から。
まずい、間に合わっ。
「炎弄!!」
ドォン。
爆ぜた炎が僕の周囲を一気に吹き払う。
「なんだこれは。火の魔術というより……規格外だな」
ヴェルセインさんの声が低く落ちた。
たしかに僕自身、自分の周囲を吹き飛ばすつもりで出した。
けど、今のはやりすぎたかもしれない。
地面が丸く焦げている。
炎弄って、こんなに強かったっけ。
いや、今はそれどころじゃない。
あの意味の分からない残像に対応しないと。
「今度はこっちから行きます」
「ああ、待ちわびていたぞ」
風霊回路の加護。
そしてフィーラ・オルビス。
ドン、と地面を蹴る。
「速いな」
ヴェルセインさんが短く言った。
まずは左前足だ。
さっきの連撃から見るに、たぶん左前足の方が利き足。
だったら左を守るために右前足で弾く。
今、僕が出してる速さは最高速度に近い。
魔素で雑に身体を強化するんじゃない。
できる限り風の術式へ変えた速度だ。
この速度はまだ見せていない。だから反応は半拍遅れると思う。
そして、風の術式に回していない残りの魔素を右手に叩き込む。
今度は力負けしない。
ギィン。
やっぱり、左前足を守るように右前足で弾いてきた。
そうだよな。
そこだ!
大きく弾かれた右前足をそのまま打ち抜く。
……いやこれも違う。
これは偽りの動き。
残像だ。
本命は真左。
僕の利き手じゃない方。
フィーラ・オルビスなら丸視えだ。
ガァン!!
「人間、やるな」
ヴェルセインさんの巨体が地面を抉りながら後ろへ押される。
「今度は僕の勝ちですね」
そう言いかけたところで、ヴェルセインさんが口元をわずかに歪めた。
「まさか力で人間の、それも子供に押されるとは」
「力もあると思いますけど、魔素の使い方ですよ。この加護の力もありますけど」
「ふっ。いちいち鼻につく」
ヴェルセインさんは鼻を鳴らした。
「その風衣はゼフィルやアエルディナ様から教わったのか?」
「ふうい?」
「その衣のように全身を纏っている風だ」
風衣。
その言葉がすとんと落ちてくる。
衣みたいに全身へまとっている風。
風衣。
そんな感じか。
「ああ、これですか?
これは、その……なんとなくというか、自分で思いつきました」
「なんだそれは。加護に愛されているのか?」
加護に愛されている。
その言葉が妙に胸に残った。
「……まあいい。ところで、さっき私が人間は屑だと言った時、
お前の表情が揺れていたな。理由を聞きたいか?」
「もちろんです」
人間と魔物、魔のつくものが相容れないのは知っている。
でも、あんなに断言されたら気にならざるを得ない。
「だったら、これを破ってみろ」
まただ。
また白銀の残像が増える。
「いくぞ」
「な……三体?」
一体の残像がさらに三つへ増えた。
焦るな。
最大密度のフィーラ・オルビス。
半径30m。
これならさすがに視えるはず。
いや。
「どうした? 目を瞑って」
ヴェルセインさんの声が飛んだ。
どうしたじゃないだろ……。
「こうした方が見やすいんです」
「そうか。変な奴だ」
本当に変なことになっていた。
こんなのありかよ。
フィーラ・オルビスの中で視えた動きまで残像になっている。
しかも、肉眼で見える残像とは別の動きだ。
なんだこれ。
まずい、来る。
落ち着け。
俯瞰で視ろ。
周りに何かある。絶対に。
ん?
目の前に残像があるのに、左斜めからも気配が来る。
「目を開けた方がいいんじゃないか?」
「いや、大丈夫です」
「ほう」
だって、こっちの方が残像が濃い!
今だ。
「風纏刃!」
キィン。
「なっ、どうやって……ていうかお前、なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
僕が嬉しそう?
言われて初めて気づいた。
口角が少し上がっている。
怖いはずなのに、胸の奥が妙に熱かった。
「だって、こんなに強くて、
しかも見たことない技を使ってくる相手が初めてで……」
「そうかそうか」
ヴェルセインさんの目が細くなる。
「だが、これからが本番だ」




