第二百四十四話 「魔狼王の号令」
僕だけがまだそのまま立ち尽くしていた。
動けなかった。
大きい。
まず最初にそう思った。
でも、すぐにそれだけじゃないと分かる。
ただ大きいだけなら、もっと別の言葉で済んでいた。
目の前のこの存在は、大きさより先に、何かが違った。
体高だけなら、8mか、それ以上あるかもしれない。
ゼフィルさんやエルナさん、ここまで僕たちを導いてきた銀毛の狼よりも、ひと回りどころじゃなく大きい。
並べば嫌でも分かる。
けど、本当に圧倒されるのはそこじゃなかった。
黒に近い毛並み。
けれど、ただ暗いんじゃない。
夜と嵐をそのまま纏ったみたいな色だった。
こちらをすべて見通すような目。
神々しく、堂々とした立ち方。
首を少し傾けただけで生まれる重み。
それと、風だった。
周囲の風が、魔狼王様の毛を揺らしているようでいて、実際には揺らすことを許されていないみたいに見える。
吹いているのに、乱れない。
流れているのに、崩れない。
それが妙に怖かった。
こんなの見たことがない。
これが、王ってやつなのか。
人間の王様なんて会ったことがない。
領主様なら見たことはある。
でも、目の前にいるこの存在は、そういうのともきっと違うんだろうと思った。
僕はただ、その姿に見入っていた。
その時だった。
「……っ!」
空気が急に重くなる。
ぐっ、と全身が沈んだ。
呼吸が浅くなる。
肩の上に見えない岩でも落ちてきたみたいだった。
重力みたいな……。
いや違う。
上から押されてるんじゃない。
空間そのものが重くなって、僕だけを地面へ押しつけようとしている。
アシェスさんの時に感じたものと似ていた。
けど、似ているだけだ。
もっと深い。
もっと動かしにくい。
身体だけじゃなく、内側の芯ごと圧し潰されそうになる。
膝が揺れる。
それでも、僕は倒れなかった。
倒れるわけにはいかないとか、そういうかっこいい話じゃない。
ただ、倒れたら終わる気がした。
何が終わるのかは分からない。
でも、ここで膝をついたら、何か大事なものを見失う気がした。
歯を食いしばる。
息がうまく入らない。
それでも、目だけは逸らさなかった。
「イザクお兄ちゃん」
ハヤトくんの声がした。
「どうしたの?」
「アイザックお兄ちゃん、大丈夫……?」
ユイナちゃんの声も重なる。
そこでようやく、僕は少しだけ意識を外へ向けた。
二人とも、心配そうにこっちを見ている。
でも、苦しんでいるのは僕だけみたいだった。
え……僕だけ?
ゼフィルさんを見る。
違う。
エルナさんも違う。
ハヤトくんとユイナちゃんも、もちろん違う。
じゃあ。
ゆっくりと目を戻す。
魔狼王様と視線が合った。
その瞬間だった。
頭の奥に、声が落ちる。
《我を前にして姿勢を正さぬかと思えば、ここまで耐えるか》
息が止まりかけた。
これ、ゼフィルさんたちの念話じゃない。
もっと深い。
もっと直接だ。
耳から入るんじゃない。
頭の真ん中へ、そのまま意味ごと落ちてくる。
《面白い》
短い。
けれど、それだけで分かった。
この人だ。
いや、このお方だ。
今のは、魔狼王様の声だ。
僕は反射的に周囲を見た。
ゼフィルさんでもない。
エルナさんでもない。
ハヤトくんでもユイナちゃんでもない。
やっぱり、違う。
魔狼王様が小さく首を上げた。
「オオォン」
次の瞬間、声が響いた。
遠吠え、という言葉で片づけるには重すぎた。
長く引き伸ばすような鳴き方じゃない。
短く、低く、深い。
森の奥までひと息で貫くような声だった。
空気が震える。
びくりと肩が跳ねる。
同時に、周囲の狼たちが一斉に応じた。
「アォン」
「オウ」
「グルォォン」
あちこちから声が返る。
高いものも低いものもあった。
でも、全部があの一声に従っていた。
ざわ、と気配が動く。
次の瞬間には、周囲にいた狼たちが一気に引いていった。
早い。
さっきまであれだけいたのに、もう木々の向こうへ溶けるみたいに消えていく。
僕は思わず目を瞬かせた。
「……え?」
気づけば、さっきまでいた普通の狼たちはほとんどいなくなっていた。
「なんで、いなくなったの?」
ぽろっと口から出た。
すると、ハヤトくんが僕のすぐ横で耳をぴくっと動かす。
「たぶん、イザクお兄ちゃんと話があるんだよ」
ユイナちゃんも頷く。
「うん。アイザックお兄ちゃんと」
「なんで分かるの?」
僕が聞くと、二人は少しだけ顔を見合わせた。
「分かるんだもん」
「うん。そういう感じ」
そういう感じって何だよ?
と思ったけど、今はそこを追ってる場合じゃなかった。
残った気配に、自然と意識が向く。
普通の群れは退いた。
でも、全部が引いたわけじゃない。
むしろ、ここからだった。
魔狼王様が前に立つ。
その魔狼王様と向かい合う形で、僕の横にはゼフィルさんたち四体が控えていた。
ゼフィルさん。
エルナさん。
ハヤトくん。
ユイナちゃん。
さらに、僕たちを挟むように左右へ分かれて、別の狼たちが並んでいる。
一頭は、毛並みの奥に熱があるみたいだった。
赤いわけじゃない。
でも、暗い炎を抱えた炭みたいな色が、毛先の方で揺れて見える。
立っているだけで、周囲の空気が少し乾く。
もう一頭は逆だった。
少し青みのある、濡れた岩みたいな深い色の毛並み。
艶があるのに冷たい。
水辺にいたわけでもないのに、周囲だけ温度が下がっているように見える。
さらに別の一頭は、毛の隙間で細い光が走っているように見えた。
見間違いかと思った。
でも、次の瞬間にもまた光る。
紫に近いそれが、毛の奥で瞬いた。
そして、銀毛の狼。
やっぱり、目が離せない。
他の三頭よりも分かりやすい派手さはない。
なのに、ここにいる他の狼たちの中でも埋もれていない。
むしろ静かさのせいで余計に目につく。
派手じゃないのに見落とせないって、なんかずるい。
……狼にも、こんなに種類がいるのか。
今さらそんなことを思う。
風をまとった狼しか知らなかった自分が、少しだけ恥ずかしくなる。
でも、それくらいここは別世界だった。
僕はその場で、小さく息を呑んだ。
その時だった。
残っていた狼たちのうちの一頭が、じっとこっちを見ていることに気づく。
さっきから視線は感じていた。
でも、今のは少し違った。
じぃっと見られている。
しかも、妙に熱っぽい。
視線を向ける。
濡れた岩みたいな毛並みをした狼だった。
深い水の底みたいな色の目が、まっすぐこっちを見ている。
その喉が、小さく鳴った。
グルル……
低い音だった。
同時に、口元からつうっと何かが落ちる。
……よだれだ。
え。
見間違いじゃない。
普通に、よだれ垂れてる。
一瞬だけ頭が真っ白になった。
なんで?
いや、なんでじゃないのか。
そういえばゼルノヴァイドで出した水、おいしいって言われてたっけ。
……いや、だからって。
囲むように立つ狼たち。
目の前には魔狼王様。
横にはゼフィルさんたち。
そしてその中の一頭は、明らかに僕をおいしそうに見ている。
これ、もしかして僕、食べられたりしないよね?




