第二百四十三話 「疑念の先にある牙」
僕はその狼と目を合わせたまま止まっていた。
ハヤトくんとユイナちゃんも動かない。
二人とも耳を立てたまま、相手から目を離していない。
次の瞬間だった。
その狼の視線が、僕からずれた。
ハヤトくん。
ユイナちゃん。
二人を順に見たあと、そいつの耳がわずかに動く。
それから、低く喉を鳴らした。
威嚇、ではない。
合図みたいな短い音だった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
銀毛の狼は、そのまま僕たちに背を向けた。
振り返りもしない。
ただ、先へ進む。
ついて来い。
そう言っているのが分かった。
さっきまで張りつめていた肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
なんだったんだろう、さっきの覚悟。
でも、拍子抜けしたのは一瞬だけだった。
ここがルプスグロウの奥に近い領域だという事実は変わらない。
油断していい空気じゃない。
「……二人とも、行けそう?」
「うん」
「大丈夫」
短く答える声は、少し硬い。
僕も頷いて、銀毛の狼のあとを追った。
森の空気が変わる。
ただ木が多いだけじゃない。
太い根が幾重にも地面を這い、そのまま壁みたいにせり上がっている場所がある。
岩肌が剥き出しになった斜面には、裂け目みたいな横穴がいくつも口を開けていた。
洞窟というほど深くはない。
でも、風を避けるには十分な陰がある。
獣、いや狼の匂いが濃い。
巨木と岩と根が折り重なって、自然のままなのに、たしかに誰かの生活圏になっていた。
ルプスグロウはただの森じゃない。
そしてここは、狼たちの領域だ。
道の左右、木々の隙間、岩の上。
いくつもの視線がこちらへ刺さる。
低く唸る声はない。
それでも歓迎されていないのは嫌でも分かった。
子どもくらいの大きさの狼が、母親らしい個体の後ろへ下がる。
傷の残る狼ほど、人間である僕を見て目を細めていた。
ゼフィルさんが通しているから抑えている。
そんな空気が張りついている。
「……すごいね」
思わず小さくこぼすと、ユイナちゃんが僕のすぐ横まで寄ってきた。
「ここ、しってる匂い、いっぱいする」
「うん。なんか、なつかしい」
ハヤトくんも落ち着かない様子で辺りを見ていた。
二人の声が少しだけ震えている。
先を歩く銀毛の狼が、根と岩に囲まれた広めの空間で足を止めた。
そこにゼフィルさんがいた。
大きい。
でも、前に会った時よりずっと重く見える。
その横には、エルナさんもいた。
ハヤトくんとユイナちゃんが小さく息を呑む。
「お父さん」
「お母さん……」
二人の声が重なる。
その瞬間、エルナさんの耳がぴくりと動いた。
次の瞬間には、二人へ顔を寄せている。
押しつけるみたいに鼻先を寄せて、匂いを確かめて、それから小さく喉を鳴らした。
ゼフィルさんも二人へ視線を落とし、目を細める。
それから僕を見た。
「……こうして会うのは、久しぶりだな」
低い声だった。
その横で、エルナさんも静かに言う。
「ええ……本当に。無事でよかったわ、アイザック」
僕は小さく息を吐いた。
「はい。ゼフィルさんも、エルナさんも」
けれど、場の空気はすぐには緩まない。
ゼフィルさんが少しだけ顔を動かした。
「まず、確認させてくれ」
その視線を追って、僕もそちらを見る。
少し離れた岩陰に、一頭の狼が伏せていた。
全身に深い傷を負っている。
脇腹は裂け、片脚も酷く傷んでいた。
乾いた血が毛に固まり、呼吸は浅い。
「こいつは逃げてきた」
「辛うじて生き残った一頭だ」
ゼフィルさんの声は低いままだった。
「アイザック、お前を見せる」
僕は黙って頷く。
負傷した狼が苦しそうに顔を上げた。
その目が僕を捉える。
空間が、しんと静まる。
狼はじっと僕を見た。
鼻先がわずかに震える。
「……グルル」
かすれた唸りだった。
「この者ではない、か」
「匂いも違う」
ゼフィルさんが短く言う。
その瞬間、張りつめていた空気がほんの少しだけ変わった。
エルナさんも静かに息を吐く。
そこでようやく、僕はその狼の傷へ視線を落とした。
脇腹が裂け、片脚も酷く傷んでいる。
見ているだけで痛みが伝わってきそうだった。
「……手当てさせてください」
そう言って一歩近づこうとした瞬間、周囲の狼たちが低く唸った。
グルルル……。
数頭が前へ出る。
まだ僕を完全には受け入れていない。
人間の手が仲間に触れること自体を拒んでいるみたいだった。
けれど、ゼフィルさんが一歩前へ出た。
「下…れ」
短い声だった。
でも、さっきまで僕に向けていた声とは少し違う。
それだけで、唸り声が少し弱まる。
「こ…つにや…せろ」
「今のお前たち……、………手際がいい」
言葉が少し崩れて聞こえる。
けれど、不思議と何かを命じているのは分かった。
警戒の気配は残っていたが、狼たちはしぶしぶ道を開く。
エルナさんが負傷した狼のそばへ寄り、落ち着かせるように鼻先を触れさせた。
「大丈夫…」
「こ…の子は、傷つけ…いわ」
その一言で、ようやく僕は膝をつく。
荷物から小瓶と包帯を取り出した。
懐かしいな。
トーヴェルを出る前に、マリエが持たせてくれたものだ。
「少ししみるかもしれない」
返事はない。
でも、怯えた目で僕を見ている。
僕はゆっくりと傷口を洗い、回復薬を垂らした。
薄く光が走り、裂けた肉の熱が少しだけ落ち着いていく。
それから、血で濡れた毛を避けながら包帯を巻いた。
静かだった。
さっきまで突き刺さっていた狼たちの視線が、少しだけ変わる。
それでも、信じているわけじゃない。
ただ、見ている。
僕は傷を確かめてから、小さく息を吐いた。
「……これで少しはましになるはずです」
ゼフィルさんが低く頷く。
「助かる」
問題は、その先だった。
どうやって話を聞くか。
僕は負傷した狼へ向き直る。
ゼフィルさんたちと初めて話した時を思い出しながら、フィリスを薄く広げた。
霊素の糸を細く絞り、尾みたいな一本にして、そっと相手の首筋へ触れさせる。
びくりと体が揺れる。
けれど、逃げない。
「大丈夫です。傷つけません」
そう言って、意識を集中させた。
相手の内側を流れる意志の揺れをなぞる。
魔素に乗ったごく薄い意味の波を、耳へ寄せるように拾う。
途端に、曖昧だった気配に輪郭が宿った。
息。
恐怖。
怒り。
痛み。
血の匂い。
死。
僕は喉にも同じ流れをなぞる。
ぎこちない。
でも、伝わる形にはなるはずだ。
「……聞こえますか」
言葉にしたつもりのそれは、自分の声なのに少し違う響きだった。
周りの狼たちがざわめく。
負傷した狼の耳がぴくりと動く。
その目が、はっきりと見開かれた。
「……なぜ、分かる」
かすれた声だった。
フィリスを通して拾ったその音は、狼の唸りに近いのに、不思議なくらい意味だけが耳に届く。
「なぜ……俺の言葉が」
「人間が……なぜ、話せる」
驚いている。
痛みと衰弱で浅い呼吸を繰り返しながら、それでも目だけは僕を見ていた。
「僕も完全じゃないです。でも、少しだけなら意味を拾えます」
「言ってみてください。答えられる範囲で」
そう伝えると、狼は苦しそうに喉を鳴らした。
それから、途切れ途切れに口を開く。
「……灰色の、体を覆う布」
短い言葉だった。
「手には……杖」
その瞬間、背筋が冷える。
「顔は……見えた」
狼の目がわずかに揺れる。
「だが……怒っていたのか、笑っていたのか……分からなかった」
「気味が、悪かった」
イスカリオ。
間違いない。
狼は荒い息の合間に、なおも言葉を絞り出す。
「最初は……噂に聞いた、人間かと……思った」
「アイザックという名の……大事な客だと……聞いていたから」
「だから……手は、出さなかった」
包帯の下で傷口が熱を持っているのか、狼の肩が苦しげに震える。
「だが……違った」
「子どもには、見えなかった」
「聞いていた匂いとも……違った」
そこで一度、声が途切れた。
「そう思った時には……もう、遅かった」
喉の奥から低い音が漏れる。
「仲間たちは……あっという間に、殺された」
「狩るようには……見えなかった」
「遊ぶように……壊して、裂いて……」
「笑っているのか、怒っているのか……分からない顔のまま」
「楽しむように……」
最後の言葉は、今にも消えそうだった。
「……そこから先は、もう……ぐちゃぐちゃだ」
「気づけば……生きていたのは、俺だけだった」
言葉が途切れる。
呼吸が一気に荒くなり、傷の痛みがぶり返したのか、狼は苦しそうに喉を鳴らした。
僕はフィリスを離した。
指先が震えている。
違う。
震えているのは、指先だけじゃない。
胸の奥が焼ける。
頭の中が熱い。
もっと早く来ていたら。
もっと早くあいつを止めていたら。
もっと早く、あの場で終わらせていたら。
僕は。
気づけば地面を殴っていた。
ドンッ、と鈍い音が響く。
土が砕け、浅い窪みができる。
もう一度。
ドンッ。
また一度。
拳に石が食い込み、皮が裂ける。
血が滲む。
でも、痛みなんてどうでもよかった。
「……許せるわけ、ないだろ」
息がうまく吸えない。
「そんな……そんな殺し方」
ここへ来る前に見た、裂かれ、潰され、貫かれた狼たちの姿が頭をよぎった。
叩きつけた拳の下で、土が小さく陥没する。
周囲の空気がぴんと張った。
グルルル……。
低い唸り声が一斉に広がる。
顔を上げる。
狼たちは半円を作るように広がり、身構えていた。
毛を逆立て、牙を見せ、目を細めている。
威嚇だ。
でも、その中に畏れも混じっているのが分かった。
僕のせいだ。
怒りに引きずられた何かが、抑えきれずに漏れていた。
「アイザックお兄ちゃん!」
ハヤトくんの声が飛ぶ。
「それ! この前のやつ!」
「さっき言ってた、怖かったの、これ!」
ユイナちゃんも耳を伏せたまま叫ぶ。
「やな感じじゃないの! でも、すごくこわいの!」
狼たちの唸りが強まる。
でも、ゼフィルさんが一歩前へ出た。
「や…めろ」
低い一声だった。
それだけで、何体かの狼が口を閉じる。
「こいつはそう…う奴だ」
ゼフィルさんは僕から目を離さないまま言った。
「おかしいのは今さ…だ。人間…くせに、俺た…魔物の仲間の死をここま…で怒る」
群れの視線が揺れる。
ゼフィルさんは続けた。
「だが、仲間をあん…ふうに殺さ…て、怒りも…ない奴の方が俺は信用できん」
その声に、空気が少しだけ変わる。
「俺が命名契約を交わ…たのはこういう人間だ。
少な…とも、敵を見る目で…こいつ…見るな」
ハヤトくんとユイナちゃんが、僕のそばへ寄った。
怖いはずなのに、離れない。
「イザクお兄ちゃんは、俺たちに向けてるんじゃない」
「うん。悲しいのと、悔しいのがいっぱいあるだけ」
言われて、初めて自分の手が血だらけになっているのに気づいた。
拳を開く。
赤い。
そこでようやく、呼吸が少し戻る。
……まずい。
また、あの時みたいに。
そう思った瞬間だった。
風が変わる。
ざわついていた群れの気配が、すっと揃った。
唸っていた狼たちが一斉に沈黙する。
まるで、もっと大きな何かがその場に落ちてきたみたいに。
道が開く。
巨木の根と岩の裂け目、その奥。
濃い影の向こうから、ゆっくりと気配が現れる。
さっきまで強い圧を放っていた銀毛の狼でさえ、自然に頭を垂れた。
ゼフィルさんも、エルナさんも、周りの狼たちも姿勢を正す。
ハヤトくんとユイナちゃんも息を呑んだ。
僕は、血の滲む拳を握ったまま、その先を見た。
格が違う。
強い、なんて言葉じゃ足りない。
そこにいるだけで、群れ全体の空気がひとつにまとまる。
圧なのに、不思議と荒れていない。
ただ、絶対に逆らえないと本能が理解する。
喉が鳴る。
その存在を前にして、ようやく分かった。
ここが本当に、魔狼王様の領域の奥なんだと。




