第二十四話 「魔術の壁と、霊術のささやき」
本を開いたまま、しばらく指が止まっていた。
魔術書と霊術書を買った日の夜。
宿の薄明かりの下で読み進めてみたものの、
正直、半分以上は理解の枠外だった。
それでも――。
(……見ててくれるなら、ちゃんとやるよ)
祠で聞いたあの小さな鈴の音を思い返しながら、
分からない文字をなぞるようにページをめくり続けていた。
◇
翌朝。
街の喧騒がまだ息を潜めている時間帯。
僕は、宿の裏手にある小さな庭園へ出た。
魔術書を抱え、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込む。
(……まずは、魔術から――)
魔術の基礎は、“魔素を指先に集めること”だという。
魔術書にはこうあった。
『魔素は意図に反応し、外から内へ、内から指先へ流れる』
言葉だけ見れば簡単そうに思える。
でも、実際にやってみると――。
「……集まれ……っ」
意識を集中させるほど、眉間の奥がじりじり痛む。
指先に何かが触れた“気”はする。
するだけで、何も起きない。
もう一度。
さらにもう一度。
一時間。
二時間。
指先は冷え、掌は汗ばんでいくのに、
光どころか、影の揺れさえ変わらなかった。
「……十歳で初級を卒業する子がいるっていうのに……」
昨日見た、火弾を嬉しそうに放っていた子どもたちの姿がよぎる。
(僕……魔術のセンス、ないのかな……)
焦りが胸を締めつける。
螺旋の図を見ても理解は遠ざかるばかりだった。
『魔素の螺旋流を正確に――』
「……螺旋って……どういう意味……?」
呟いた声が、庭の静けさに吸い込まれていく。
(魔物も斬れなくて、魔術も……これじゃ)
額を押さえ、深く息を吐いた。
そのとき、隣に置いていた霊術書が目に入った。
(……じゃあ、霊術は……どうなんだろう)
霊術書は、魔術書とは対照的に言葉が少なかった。
『霊素は内側の力。精神と魂の流れを重んじる。
外と内の境界を静かに見つめよ。
自然は“声”ではなく“気配の流れ”で応える』
(……ざっくりだな……)
半信半疑のまま、書かれている通りに呼吸を整える。
ゆっくり吸って――ゆっくり吐く。
胸の中心。
あの“核”のある場所に意識を寄せると、
風の音。
木の揺らぎ。
遠くを歩く人の足音。
それらがひとつの円の中に並んだように感じられた。
(……なんだろ。すごく、静かだ……)
世界がさっきより“近い”。
霊術書の最初の訓練にはこう記されていた。
『周囲の気配を円として捉える――“気配円”』
顔を上げた瞬間、
庭の空気の“通った道”だけが、微かに分かった。
(……これ、できてる……?)
魔術はまったく動かなかった。
でも霊術は、ほんの数秒で輪郭を掴めた。
(なんで……?)
問いかけた心に答えるように、
胸の核が震えた。
ズキ……ッ。
「……っ」
胸を押さえる。
痛みではなく、深く、内側から“応えられた”感覚。
そのとき――。
宿の裏庭なのに、風は吹いていないのに。
――ちりん。
澄んだ、小さな鈴の音が響いた。
耳元でも、庭でもない。
もっと遠く――街の端、祠のほうから。
(……祠……)
昨日、宿の中で聞こえた音と同じ。
けれど今日は、より明確に“こちらに返ってきた”ように響いていた。
気配円を作った瞬間に鳴った鈴――。
偶然だなんて思えなかった。
(……誰……?)
祠の奥に“何か”がいる。
姿も声もないはずなのに、胸の核が応えるように震える。
「……魔術はダメだったけど……霊術は、一歩だけ進めたんだ」
小さく呟く。
魔術→理解しても動かない
霊術→理解しきれないのに動く
その差が、どこか怖くて、でも嬉しかった。
(……これが、ニュートラルってことなのかな)
剣。
魔術。
霊術。
全部を積み重ねて、
いずれどの道にも分類されない場所に立つ。
カールアの言葉が胸に蘇る。
『全部を底上げし続ける者は――
いずれ、どの道にもはまらない強さになる』
(……僕も、そうなりたい)
胸に手を置いたまま、空を見上げた。
薄い雲の向こうから光が落ちてくる。
気配円に溶け込む世界の気配が、いつもより近い。
◇
その日の夜。
祠の方角で、また。
――ちりん。
ひとつの鈴の音が、静かに響いた。
風が運んだわけでもない。
胸の奥へ問いかけるような、優しい音だった。
(……どこへでも行けるように、なりたい)
アイザックはゆっくりと拳を握る。
魔術の壁。
霊術の入り口。
祠の奥に潜む気配。
すべてが、確かに彼を“まだ見ぬ場所”へ押し出していた。




