第十九話 「影が動き出す夜と、揺らぐ決意」
昇格試験の申請書を渡された翌朝。
胸の奥が落ち着かないまま目が覚めた。
階下へ降りると、宿の女将さんが朝食を並べながら声をかけてきた。
「アイザックちゃん、今日はなんだか顔が引き締まってるねぇ」
「え……そう、ですか?」
女将さんはふふっと笑って首を傾げる。
「なんていうか、“決めた顔”っていうのかい。昨日よりずっと強く見えるよ」
その一言に、胸が少しだけ軽くなる。
(やっぱり……顔に出るんだ、僕)
温かいパンとスープの匂いに包まれながら席につく。
いつもどおりなのに、胸の奥だけがざわついていた。
「ご飯、しっかり食べておきな。今日もギルドに行くんだろ?」
「はい……行ってきます」
女将さんは柔らかく目を細める。
「無理はするんじゃないよ。あんたは優しい子なんだからね」
(……優しい、か。
でも僕は……もっと強くなりたいんだ)
胸の奥でわずかな熱が揺れる。
食事を終えて宿を出ると、朝の空気がひんやりと肌を刺した。
申請書を出しにギルドへ向かう足は自然と速くなっていた。
今日のナティアの空気は、どこかざらついている。
ギルドに足を踏み入れた瞬間、視線が一斉に集まった。
「おい、あれ……」
「成体ドリンブルを吹き飛ばしたFランクだろ」
「昇格試験の噂、本物らしいぞ」
昨日までの嘲笑ではない。
今は“観察”と“警戒”が混ざった視線。
その中で、ひときわ強い敵意が突き刺さる。
――ガルド・レインズ。
大柄で筋肉質なDランク冒険者。
ギルドに来てから僕の両親をばかにして、ずっと見下し続けてきた男。
「チッ……ガキのくせに目立ちやがって」
肩をすれ違わせた瞬間、わざと強くぶつかってくる。
胸が少し揺れた。
「昇格だと? 笑わせんなよ。
Fランクが背伸びすんな。……死ぬぞ?」
低く押し殺した声に、敵意がはっきりと滲む。
(……怖い。でも、負けたくない)
胸がじくりと痛む。
それでも前ほど怯えなかった。
拳を強く握る。
「……僕は、やるよ」
「なんだと?」
「逃げないって決めたんだ。このままじゃ終われない」
ガルドの目が細くなる。
そこには苛立ちと――僅かな“焦り”があった。
「せいぜい足掻けよ。落ちて泣きてぇなら止めねぇがな」
吐き捨てて去っていく。
ミーナが急いで駆け寄った。
「アイザックくん、大丈夫……?」
「……うん。怖いけど……進むしかないから」
ミーナはそっと微笑んだ。
「昇格試験の詳細、明日発表されるみたい。
でも……無理はしないでね。あなたの実力、私は信じてるから」
その声が、胸に貼りついていた痛みを柔らかく包んでくれた。
夕方。
街を歩きながら胸の奥に意識を向ける。
(僕の力……何なんだ?
魔素でも霊素でもない……もっと“根源”に近い何かだ)
呼吸を整えると、胸の中心で脈動のようなものが走る。
怖い。
でも――知りたい。
いつの間にか祠へ足が向いていた。
夕暮れの祠。
ちりん……
鈴が静かに揺れる。
手を合わせて目を閉じた。
「……僕、強くなりたい。
誰も傷つけず、誰かを守れる力が欲しい」
その瞬間――
胸の奥が、強く脈打った。
ズキンッ!
「……っ」
痛みではない。
何かが“呼応”している。
(……僕の中の何かが……目覚めようとしてる……?)
風もないのに、鈴が大きく揺れた。
ちりん……ちりりん……!
いつもより澄んだ響きが祠の敷地に広がる。
(また……だ)
胸騒ぎが増していく。
その時――
ぞくり。
背筋を冷たいものが撫でた。
「……誰か……いる?」
振り返る。
夕闇に沈む道には誰もいない。
だが――確かに視線を感じた。
(気のせいじゃない……誰かが見てる)
胸がざわりと震えた。
――同時刻、祠から離れた屋根の上。
黒い外套に包まれた影が、静かに祠を見下ろしていた。
「……今の揺らぎ。やはり“報告通り”か」
存在感の薄い男。
ザルヴェイン帝国・情報局《影紡》――
諜報員シリアス・ヴェイル。
男は結界式通信の札を取り出し、低くつぶやく。
『帝国本部へ。
対象を確認。
“律に抗う反応”は明確。
対象は十三~十四歳。名は――アイザック・ヴァーン』
札は淡い光とともに霧散した。
「……どれほどの器か、楽しませてもらうとしよう」
影は風に溶けるように消えた。
――さらに遠く、帝都ザルヴェーレ。
巨大な黒城“アーク=バシリカ”。
その最深部の玉座の間。
白銀の髪、灰青の瞳――
七魔導将・第七席 ヴァルド=レギオスが札を受け取り、口角を僅かに上げた。
「“律の揺らぎ”……十三の少年からここまで明確に感じるとはな」
立ち上がり、静かに命じる。
「シリアス、監視を続けろ。
場合によっては――“採取”を行う。
律の鍵となる器……逃すな」
冷たい声が城に響く。
「律へ抗う芽が、この時代で育つとは……面白い」
帝国の巨影が、静かに蠢き始めた。
――祠の前。
僕は痛む胸を押さえ、空を見上げる。
(……何かが始まろうとしている。
もう、後戻りはできないんだ……)
強い風が吹き、鈴が最後にひとつだけ鳴った。
ちりん。
(……俺は、変わる。絶対に)
胸の奥で、確かな決意が脈動していた。




