第十話 「風の兆しと、揺れる日常」
――胸騒ぎだけは、まだ晴れていなかった。
一昨夜の魔素のざわつきは落ち着いたはずなのに、
朝から村の空気がどこかそわそわしている。
表向きはいつも通り。
けれど僕の中だけ、何かがわずかに軋んでいた。
今日は、ここ最近で一番にぎやかだった。
一昨夜の“魔素のざわつき”は落ち着き、
森から流れる風にも、ほんの少し柔らかさが戻ってきたように感じられる。
井戸の横で水汲みを手伝いながら、僕は周りの話し声に耳を傾けていた。
「……森の奥で光が揺れたってよ」
「旅の術師が来てるらしい。あの恰好、絶対ただの旅人じゃねぇ」
「魔素があれだけ暴れるなんて、普通じゃねぇぞ」
(……また旅人の噂か)
けれど、僕の胸の奥がざわつく理由はそれだけじゃない。
最近、妙な“感覚”が増えているのだ。
魔素の波、風の揺らぎ、そして――レーヴェの言い残した言葉。
まるで何かが僕に近づいているようで……
同時に、手の届かない位置へ遠ざかっていくような……
何かを探しているようで、
何かに探されているような。
そんな妙な感覚を振り払うように、僕は深呼吸した。
(……気のせい、だよな)
そう思いたくて、水桶を戻して家へ向かった。
昼になると、子どもたちは自然と村外れの広場へ集まる。
今日も例外なく、剣や魔術ごっこで盛り上がっていた。
僕はいつものように木剣を握り、素振りをしていた。
「イザーク、相変わらず剣だけは上手いよな!」
コルトが満面の笑みで近づいてくる。
真面目で素直で、言ったことが全部そのまま口に出るタイプだ。
「“だけは”って言い方やめろよ……」
「いやだって、魔術とか霊術の訓練になると途端にダメじゃん」
「ぐっ……それは言うな……」
コルトの言葉は事実だ。
剣術はそこそこ自信がある。体の動かし方を理解するのは得意だし、努力も裏切らない。
――前世でも、そういうタイプだった。
何をやっても、大体85~95点までは届いた。
スポーツも勉強も、仕事も。
そこそこできて、そこそこ褒められる。
だけど100点には、どうしても届かない。
「器用貧乏」と言われれば、それも間違いじゃない。
でも、本気で努力すれば何でもできる気がしていた。
(なのに……この世界の魔素だけは、全然思い通りにいかない)
指先に意識を集中させる。
空気の粒子みたいな魔素の気配は掴めるのに――
「……っ!」
小さく揺れただけで終わった。
「おっ、昨日よりは揺れたぞ! そのうち旅の術師が驚くんじゃね?」
「……期待しすぎだよ」
コルトの何気ない一言が、胸の奥に静かな痛みを残した。
(みんなと同じ……なのかな。いや、少し違うのか……?)
剣を振ると“できる感覚”がある。
けれど魔素や霊素に触れると、胸の奥の穴が広がるような感覚になる。
自分でも理由が分からない。
ただ――何かが足りない。
何かが噛み合っていない。
そんな違和感がずっと消えない。
「イザーク? おーい、生きてるか?」
「……ああ。ごめん、ちょっと考えごと」
剣を握り直し、再び素振りに集中する。
ざっ……ざっ……
木剣が空気を裂く音が、胸のざわつきをわずかに落ち着かせた。
そのとき――
――ふっ。
風が止んだ。
音が消えた。
魔素の流れが、不自然に歪んだ。
「イザーク、今の感じ……」
「うん。魔素が……動いた」
胸がざわりと鳴る。
レーヴェが消える直前に残した言葉。
意味は分からないのに、胸に残り続けている。
そして今日は――昨日より近い。
(……何かが、本当に来てる)
風が戻るまで数秒。
けれど、永遠にも感じられる沈黙だった。
「イザークー! おつかい頼んでるよー!」
母の声が遠くから届く。
「……行ってくる。また後でな」
「おう! 魔素の揺れには気をつけろよ!」
広場を出る前、もう一度だけ振り返る。
風は吹き、空は静かで、村はいつも通り。
なのに――胸の奥だけが騒いでいた。
(何が近づいてるんだ……?)
その答えを知るには、まだ早い。
ただひとつだけ確かなのは、
“風も魔素も、世界も――僕を中心に少しずつ動き始めている”
そしてその意味を知るのは、まだ誰もいなかった。




