第九話 「揺れる風と、見えない兆し」
朝のトーヴェルは、いつもよりざわついていた。
畑へ向かう途中、村の大人たちが小声で言葉を交わす。
「……昨夜の光、見たか?」
「見たとも。森の方だ。魔物の仕業じゃねえ」
「外から来た旅人が森へ入ったらしい。妙な恰好だったらしいぞ」
(旅人……?)
この辺りに外の人間が来るのは珍しい。
道は細く、街から遠い。年に数人来ればいいほうだ。
そのせいで、村には薄い緊張が漂っていた。
だが僕の胸を掴んで離さないのは――別の“異変”だった。
……風だ。
森から吹き込む風が、どこか“重い”。
肌を撫でた瞬間、魔素の塊が叩きつけられるような密度をしている。
(……魔素が荒れてる?)
本来魔素は、空気に薄く溶けるように漂うはずだ。
けれど今日は、流れが歪み、渦を巻いて押し寄せてくる。
胸の奥がざわりと泡立つ。
二年前、風狼が凶暴化したあの夜の――異様な沈黙がよみがえる。
(昨日……森で何が起きていたんだ)
視界の端で木々が揺れ、風がひときわ大きく鳴った。
ただの自然現象だと言い聞かせても、胸騒ぎだけは収まらなかった。
昼過ぎ。
僕は家の裏で、魔素と霊素の感覚訓練をしていた。
「……魔素は外側を流れる力。霊素は内側で響く力……」
呼吸を整え、意識をゆっくり沈める。
魔素は、空気に混じる細かな粒のように肌へ触れ、
霊素は胸の中心で心臓と調和するように脈打っている。
そのとき――
——ざわり。
刺すような異変が、魔素を乱した。
「っ……!」
風が震え、腕を冷たいものがすうっと撫でる。
まるで“誰かが魔素の流れに手を割り込ませた”ような……そんな異常。
(こんなの……初めてだ)
次の瞬間、風が逃げるように吹き抜け、異変は嘘のように消えた。
胸を押さえ、息を整える。
(……あの夜と、やっぱりつながってる?)
考えようとした矢先――母の声。
「イザークー! お客さんよー!」
客?
この村では、ほぼないことだった。
胸騒ぎのまま家へ戻ると、父アレンと向かい合う旅人がいた。
灰色の外套を深くかぶり、表情は影に沈んでいる。
長旅の疲れをまといながら、杖をしっかりと握っていた。
「このあたりで……風が止まった夜があると聞きました。詳しく教えていただきたい」
低く落ち着いた声。
“知っている者”の確信めいた響きがあった。
父は警戒を隠さず答える。
「二年前のことだ。理由は誰にも分からん」
旅人は静かにうなずき、風の気配を探るように目を閉じた。
「……“揺れ”は確かにここです。やはり……」
一瞬だけ、僕を見た。
ただの視線ではなく、何かを“見極める”ような眼差しだった。
(揺れ……魔素の……?)
問いかける間もなく、旅人は踵を返し、村を離れていった。
ただの旅人ではない。
その背中は、そう確信できるほどの“異質さ”を残していた。
夕暮れ。
丘の上では、いつも通り穏やかな風が吹いている。
けれど僕の胸のざわつきは、一度も落ち着かなかった。
(……レーヴェ)
呼んでも返事はない。
気配もない。
手を伸ばせば届いていた存在が、いまは霧の向こうにいるようだった。
それでも分かる。
“まだどこかにいる”と。
そして――その瞬間。
胸の中心が、鋭く締め付けられた。
「……っ!」
息が詰まる。
霊素が波紋のように揺れ、その揺れに混じって“何か”が流れ込んでくる。
遠くから呼ばれたようで、
耳元で囁かれたようでもある――近いのに、触れられない。
近づきながら、遠ざかっていく。
相反する感覚が胸を掻きむしる。
(……誰だ……?)
輪郭のない気配は正体を掴ませず、ただ胸の奥を震わせて通り過ぎた。
だがひとつだけ分かった。
“これは、レーヴェと無関係じゃない”
触れれば届きそうで、
触れようとすれば遠くへ逃げていく気配。
その曖昧さは、胸に痛いほど刺さった。
(……どこにいるんだよ、レーヴェ……)
沈む夕陽を見上げながら、名前を静かに呟いた。
風は吹いているのに、
胸のざわつきだけは、まだ止まらなかった。




