豚の生姜焼き
家の様子は元の時代とさほど変わっていないように感じた。
なんの変哲もない、玄関があって靴箱があって、少し進んで右に曲がればリビングに出る。
左手には洗面所と階段がある。入ってすぐのところにはトイレがある。懐かしくも変わらない物。
ただなんとなく、一人暮らしを長い間していた俺にとって、靴がいくつか無造作に並んでいるという光景が、あまりに新鮮に思えた。
すると階段の上から「おかえりー」と妹がひょっこり顔を出した。
妹の名前はミヤ。歳は二つしたで、俺が中二なのだから彼女は小学6年生だということに気づいた。
大人になっても今の面影は十分にあるな、と感心した。それにしても幼く感じたが、そそくさと部屋に戻っていった所を見ると、対して変わりはないらしい。無論、大人になっても無愛想というか素っ気ない所がある。
なぜか帰ってきた時のおかえりは欠かさなかった気がする。
俺はリビングのほうに向かった。入って左側にはテーブルとテレビがあって、右側のキッチンには母が夕飯を作っているようだった。
「あら、おかえり」
こちらに振り向いた母は本当に同一人物か疑うほど若かった。10年という時間は想像以上に人を変えてしまうらしい。
「あっ、うん。ただいま。」
なんとなく素っ気ないただいまをしてしまった。
もちろん、色々話してしまいたかった。
もうろくに母とあってなかったのに加え、俺の記憶に焼き付いている輝かしい過去がそっくりそのまま目の前にあるのだ。情けない話だが、今すぐにでも母に抱きついて泣き出したかった。
自分の辛かったこととかいろんな感情をぶちまけてしまいたかったのだ。
でも、しなかった。なぜかといえば、これといった理由もない。でもいつもそんなもんじゃないか。
理由をいちいち決めることもない。
俺はそそくさと二階にあがって、自分の部屋に入った。
ただ、ただ、本当に懐かしいものばかりだった。
たくさんの本が並んだ本棚。だらしなく並べられた教科書とそれを乗せたくすぶった色の勉強机。
俺が一人暮らしをはじめる前、この部屋は全て綺麗に掃除してしまった。幾つもの物を捨ててしまったし、捨てなかったものも綺麗に押入れにしまった。
だからこの部屋は二度と見ることなどないはずだった。
いや、もっともこの時代のほとんどはもう二度と見れるはずはなかったものばかりだった。
とりあえず俺は現在の状況を整理しようと勉強机のイスに腰掛けた。
整理といってもただの考え事にしかならなかったのだが。
まず、第一に俺は本当に死んだのか。
正直な所これに関しては本当だろうと思った。
これに関してはただの憶測にしか過ぎないのだが、
あの、死にいくような感覚は今まで感じたことのない嫌に気持ち悪いものだったし、俺の死をよりリアルなものにしてくれた。
もっともこれまでに死んだ経験などないのだから、
死ということが何なのかはわからないが。
そこから考えたのは今、俺は一種の走馬灯のようなものを見ているのではないかということだ。
この時の記憶が大事だから走馬灯をみているだけであって、成すべきことをすれば無事安らかに眠ることが出来るのではないか?
何の根拠もないただの妄想だった。
だが、そうやって考えるしか今の状況を正当化するだけの理由はなかった。
もし、これが本当にタイムスリップしているのだとするならばまたややこしくなる。
元々ややこしい話ではあるが、さらに考えるうちに、なぜ?が尽きなくなってきてしまった。
自分から考えといてあれだが、今の段階では考え込むにふさわしいだけの情報が無さすぎることに気づき、考えるのをやめた。
ただ、とりあえずしばらくは思い出せるだけ過去の通りの自分の生活をしていようと思った。
いきなり過去と違ったことをしたらどうなるかわかったものではない。
ここは慎重に行くべきだと思った。
色々やっていくうちに答えのようなモノが見えて来るかもしれない。
それまでは平凡な中学生のままであろうと思った。
不意に下の階から「ご飯できたよ~!」という声が聞こえた。それは母の声だった。
とりあえずお腹も減っていたので俺はリビングへと向かった。
俺と母さんと妹で手を合わす。
「いただきます。」というと妹はすぐ食べ始めた。
夕飯はほかほかの白飯と大根の味噌汁。
レタスのサラダと俺の大好きだった豚の生姜焼きだった。いつも母がよく作ってくれた料理だった。
ゆっくりと食事を口に運んだ。
何年も食べていない母の味。
自分でも不思議なくらいなのだが、一口食べただけで、俺の中の感情はこれまでにないくらい溢れてきた。
久しぶりに食べてもやっぱりうまいなぁとか。
母が俺が死んだことを知った時、いったいどんな顔をするのだろうとか。
やっぱり死にたくなかったなぁとか。
本当に純粋な部分がボロボロと出てきて、
気がついたら俺は涙もボロボロながしていた。
まったくもってみっともないくらいにボロボロと。
母と妹はかなり驚いた顔をしたが、途端に俺の事を心配してくれた。
もしここで本当のことを話したら信じてくれたのかもしれない。でも、言えなかった。
未来から来たなんていえず、その時はただ泣きたいように泣いた。まるでダムが決壊したかのように。
母は何度も「何かあったの?」と訪ねてきた。
その度に俺は大丈夫、大丈夫、と言っていた。
結局最後まで母は心配していたのだが、ひとしきり夕飯を平らげると俺は部屋に戻った。
色々なことに想いを馳せた。途端にまぶたが鉛みたいに重くなった。
久々の二段ベッドは天井が近く、妙に落ち着かなかった。二段ベッドと言っても下にはタンスがあるだけだが。
月明かりがやけに綺麗に見えた。あっという間に俺は眠りに落ちた。
俺はこうして始まる長い長い夏の1ページを終えたってわけだ。
もちろんこの時から俺はなんとなく感づいていた。
これから起こることは決して幸福などではないということを。
それでも俺は進まねばならぬ。
この暑い暑い夏を。




