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真っ暗な空に、細い爪のような月が浮かんでおります。その月を、無遠慮に大きな雲が通り過ぎていきます。
そんな月の様子を、一人の男が見上げております。
ビルの裏側にある、ひっそりとした自転車置き場。ときおり3月のひんやりとした風が、男を吹きつけます。男はそこで、女と携帯電話で話しております。
「そっか。しばらく連絡がとれないから、変だなって思ってたよ。まあ、好きな人できたんだろうなって思ってた。正解だったね」
男の声は一応の笑顔を携えてはおりますが、あまり元気はありません。それも当然でございます。たった今、突然、女にふられたわけですから。
電話の向こうからは、若い女の声がします。
「ごめんね。罪悪感があって、お話できなかった」
少し粘着質な、それでいて可愛らしい声でございます。
申し訳なさそうな声色はしていますが、話し方は憑き物が落ちたようにさっぱりとしております。
「いいよ。仕方ない」
「ねえ、傷ついた?」
「そりゃあね。そのうちそういう日が来るとは分かっていたけど、こんなに早くくるとは思わなかった。ずっと大好きだって言ってくれていたから。だからそれで自惚れていたね」
「ごめんね。でもそれも、嘘じゃなかったんだよ」
「ありがとう。でも、ショックだよ。こんなに苦しいなんて、想像もしていなかった。急に人が一人いなくなるって、ほんとに大変なことだね」
「……ごめんなさい。わたしにはもう、どうにもしてあげられない」
「いいよ。これは俺の問題だから。自分でなんとかするよ。君は彼氏さんと楽しく、幸せにやるんだよ」
「うん。分かった。まかせといて」
「これが最後の電話だよね?」
「たぶんそうなると思う」
「そっか。何か話し忘れたことがないか不安になるね」
「そうだね。でも、きっと何かを話し忘れるよ」
「後悔しそうだ」
「うん。でも仕方ない」
「楽しかったよ。大好きだったし、今でも大好きだ」
「あはは。ありがとう」
沈黙が訪れます。
電話は二人の呼吸音だけを、交換し続けます。
男は何かを話し忘れたことがないか、頭のなかに記憶をめぐらせます。
「そうだ。誕生日にあげたプレゼントのことだけど……」
男が何かを話そうとすると、女はそれをとがめます。
「ねえ、私たちはもう、終ったんだよ」
「……そっか。そうだったね」
「うん。キリがないよ」
「そうだね。分かった。うん、これで終わりにするよ」
「うん」
「今までありがとう。お幸せに」
「あなたも。仕事、無理しすぎないんだよ」
「……さようなら」
「……さようなら」
電話はそこで、ぷつりと途絶えます。
プー、プー、プー。
電話の音が、あまりにも機械的で事務的なものですから、男はそのことに反射的に腹を立てます。
男はぐんにゃりとして、空を見上げます。するとさっきの月は、ぶ厚い雨雲に覆われてしまっています。
男は会社に戻って、残りの仕事を片付けます。
といっても、頭の中は、女のことでいっぱいです。仕事になんて、なりやしません。男はパソコンをシャットダウンし、画面がきちんと真っ暗になったことを確認すると、フロアの電気を消します。
「はああ……」
なんて長いため息をつきながら、ビルのエレベーターで降りていきます。とても長いエレベーターです。
エレベーターの数字が、一つずつ減っていきまして、ついには1になります。エレベーターの扉が開きます。
なんてことはありません。一つの季節が終わったのです。