くうくう
阪口くんは「良かったね」と喜んでくれた。
私のお願いが効いて、あの悪魔のお兄さんは渋々(より近い表現なら「嫌々」)夜のデートを了承したのだった。
「阪口くんのおかげよ」と礼を述べると、色素の薄い青年は、それゆえ近所の人が「天使のようだ」と頬を染める笑顔で、「数ちゃんの脅迫がよほど迫力あったんだろうね」と失礼なことも言ってくれた。
「阪口は悪魔だ」
お前も悪魔だ。
おれが言うのだから間違いない、とメフィストはさして面白くもなさそうに呟いた。
この場合の悪魔は、生き物としてでなく比喩である。アンブローズ=ビアス著『悪魔の辞典』の「悪魔」と同じなのだろう。
「メフィスト兄さんにそう言われたら、阪口くんもきっと鼻が高いわね」
私はメフィストの横、昨夜と同じように石段の上に腰を下ろしている。だから、彼の「皮肉の通じない女だ」と言う表情を、間近で眺めることができるわけだ。
「お前は昨日からおれをそう呼ぶがな、おれは人間の親族など持った覚えはない」
「『ちょっとそこのお兄さん』、と同じ意味の兄さんよ。やめてほしいならそう言ったらいいじゃない」
「言えばやめるか」
「ううん、やめない」
「だったら無駄なことを口にするな」
秋の8時過ぎとなると外は真っ暗で、住宅街から離れた神社の灯り取りといえば月華しかない。
しかし僅かな光源でも、白皙の(というより青白い)メフィストの貌ははっきり見える。彼が人外だからか、それとも恋の力かしら。
隣でじっと見つめていると気味悪がった様子で睨んでくる。
「可憐な乙女に見つめられて悪魔がその態度は職務怠慢じゃない?」
鼻で笑われた。
「悪魔が交渉を仕掛けたくなるような女になってから言いたまえ」
年齢や体型よりは東洋人であることが私の弱点だと思うのだけど、この場合は誰が理想像だろうか。
夢魔ではないが、でも色欲に素直なひとだったかしら。スミレ好きな作家の本を読む限り。
「どんな女なら悪魔の眼鏡にかなうの?」
率直に尋ねてみた。返事は何だか予想がついたが、
「お前のようではない女だろうさ」
そうあしらわれると、私は必死になってしまう。
「じゃあ、何処が駄目なのか言ってみて。全部なおすから」
「無理なことを」
「無理でも全部なおすから。なおすから――」
好きになって。
言葉を飲み込んだのは怖かったからではない。
お腹がすいてきたのだ。
さっきおにぎり食べただけだし、きっとそう、空腹によるものなのだ。
何だか身体中が、切なくてやりきれないのは。
「ブリオッシュが食べたい」
特に何も出してくれなかった。
くうくう:何もないさま、空しいさま
スミレ好きな作家=ゲーテのことです。




