第三章 入れ替わり/第二節 人事制度
入れ替わり2
第三章 入れ替わり
第二節 人事制度
人事課は、事務棟の二階にあった。
何度も前を通っていた。
白い扉。
『人事・総務』
その下に、
『入室時はノックをお願いします』
と貼り紙がある。
昨日までなら、どこの会社にもある部屋にしか見えなかった。
榊原はノックした。
「どうぞ」
中から女性の声。
入る。
机が四つ。
書類棚。
複合機。
壁掛け時計。
観葉植物。
あまりにも普通だった。
藤原が榊原の後ろから覗き込む。
「ここでやってんすか」
「何を」
「……入れ替え」
「声でかい」
「だって」
人事課長の女性が立ち上がった。
五十代前半。
榊原たちが社員寮で会った総務の女性とは別人だった。
「お待ちしておりました。人事課の村瀬です」
名刺を差し出す。
藤原が受け取る。
今日は両手だった。
榊原は一瞬、それを見た。
「久世から伺っています」
「田所さんの件を?」
「はい」
「話していいんですか」
「お答えできる範囲で」
またその言葉だった。
榊原たちは応接用の小さなテーブルへ通された。
片桐はカメラを持っていない。
撮影不可。
音声も録れない。
榊原はメモ帳だけを開いた。
「まず確認させてください」
「どうぞ」
「田所浩二さんは、昨日までの田所さんとは別人ですか」
村瀬は少し考えた。
「“別人”という表現ですと、正確ではない場合があります」
藤原が眉を寄せる。
「どういう意味っすか」
「入れ替わりにはいくつか方式がありますので」
「方式?」
「はい」
村瀬は普通の人事制度を説明するように話し始めた。
「肉体をそのまま引き継ぐ場合。外見だけを模倣する場合。記憶情報を引き継ぐ場合。社会的な身分のみを引き継ぐ場合。それぞれ異なります」
美咲が口を開いた。
「それ、会社で管理してるんですか?」
「はい」
「……どうして?」
「雇用管理の一環です」
藤原が笑いかけて、笑えなかった。
「雇用管理って」
「社員の適性を保つ必要がありますから」
「適性?」
榊原は壁の掲示を思い出した。
勤務態度。
生産性。
衛生管理。
協調性。
改善意欲。
「評価制度ですね」
「はい」
村瀬が頷く。
「共和食産では、採用時の経歴や属性より、採用後の勤務状況を重視しています」
「前科があっても?」
「関係ありません」
「外国人でも?」
「関係ありません」
「人間じゃなくても?」
村瀬は榊原を見る。
「関係ありません」
即答だった。
「全員、同じ?」
「基本的には」
「基本的には?」
「職種ごとの補正はあります。水棲の方に乾燥環境での勤務を求めるのは不公平ですし、夜間活動型の方を朝六時固定勤務にするのも適切ではありません」
藤原が顔をしかめる。
「水棲の方、って」
「はい」
「その言い方、普通なんすね」
「社内では普通です」
「怖いなあ」
「何がでしょう」
「いや、もういいです」
村瀬は資料を一枚取り出した。
社内評価シート。
見慣れた形式だった。
五段階評価。
勤務態度。
遅刻・欠勤。
生産性。
衛生規則。
安全行動。
協調性。
改善意欲。
どこの会社にもありそうな項目。
「田所さんは?」
榊原が聞く。
「継続的に基準値を下回っていました」
「何点?」
「個別の点数は申し上げられません」
「じゃあ、基準を下回ると?」
「まず改善指導です」
「それでも駄目なら?」
「再評価」
「それでも?」
村瀬は指先で資料の下部を示す。
『改善措置』
「入れ替わり対象になります」
美咲が息を吐いた。
「クビじゃなくて?」
「解雇する場合もあります」
「じゃあ、どうして田所さんは入れ替えなんです?」
「田所さんの社員資格自体には価値がありましたから」
「社員資格?」
「勤続年数、作業経験、社会保険、居住歴、周辺との関係性。すべて含めてです」
榊原は聞き返した。
「人間一人の人生を、会社の資産みたいに言ってません?」
村瀬は少し困った顔をした。
「社員情報はどの会社でも資産でしょう」
「そういう話じゃない」
「では、どのような話でしょう」
静かな返しだった。
榊原は言葉に詰まった。
片桐が横で腕を組んでいる。
「替わる方は、どっから来るだ?」
村瀬は片桐を見る。
「待機者です」
「待機者?」
「はい」
「何人おる」
「時期によります」
「社員じゃない?」
「社員ではありません」
「じゃあ何なんだ」
「入れ替わり待機者です」
そのままだった。
藤原が額を押さえる。
「ほんとこの会社、名前そのまま付けるな」
「分かりやすい方がいいでしょう」
村瀬は本気でそう言っていた。
榊原が聞く。
「待機者って、どんな人たちですか」
「さまざまです」
「例えば?」
「人間社会で生活するための身分を必要としている方。現在の身体や生活に不都合がある方。より適した社会環境へ移りたい方。長期滞在先を探している方」
「人外?」
「人間もいます」
「人間も?」
「もちろん」
美咲が身を乗り出す。
「人間が、別の人の人生に入りたいってこと?」
「そういう方もいます」
「なんで?」
「理由はそれぞれです」
「借金とか?」
「あります」
「犯罪歴とか?」
「あります」
「家族から逃げたいとか?」
「あります」
「……子供がいるとか」
村瀬は美咲を見る。
「それもあります」
榊原はその言葉を何となくメモした。
理由はなかった。
「待機者は、入れ替わるまで何してるんです?」
「生活しています」
「どこで?」
「複数の待機施設があります」
「会社が持ってる?」
「一部は」
「全国に?」
「共和食産だけの制度ではありませんので」
榊原のペンが止まった。
「……今、何て?」
「弊社独自の制度ではありません」
部屋が静かになった。
「他にもあるんですか」
村瀬は頷いた。
「当然でしょう」
「当然?」
「弊社だけで対応できる数ではありませんから」
藤原が小声で、
「数って言った」
と呟いた。
榊原も聞こえていた。
「どれくらいあるんです?」
「把握しておりません」
「国は知ってる?」
「どの国を指していますか?」
榊原は一瞬、質問の意味が分からなかった。
「日本ですよ」
「ああ」
村瀬は笑った。
「関係部署には、ご理解いただいています」
「関係部署?」
「それ以上は私からは」
榊原は眼鏡を押し上げた。
汗はかいていないのに、鼻当てが妙にずれた。
美咲が聞く。
「入れ替えられた元の社員は、どうなるんですか」
村瀬が初めて少し間を取った。
「その方によります」
「辞める?」
「そういう方もいます」
「別の誰かになる?」
「そういう方も」
「待機者側に回る?」
「あります」
「それ以外は?」
村瀬は答えなかった。
藤原が言う。
「……肉?」
誰も動かなかった。
「前の田所さん」
藤原の声が小さくなる。
「商品になったんですか」
「個人情報です」
「それで済ませるの?」
美咲が珍しく強い口調になった。
「人がいなくなってるんですよ」
村瀬は穏やかなままだった。
「人がいなくなったとは限りません」
「じゃあどこにいるんです?」
「お答えできません」
「昨日まで私たちと話してた人ですよ」
「はい」
「それを、成績悪いから別のものに替えて」
「成績ではありません。総合評価です」
「同じでしょ!」
美咲の声が上がる。
村瀬は少しだけ眉を下げた。
「小野寺さん」
「はい」
「一般企業でも、評価が低ければ配置転換や契約終了があるでしょう」
「ありますよ」
「弊社も同じです」
「同じじゃない!」
「どこが違いますか」
美咲は言葉に詰まった。
「人を……本人を取り替えるんですよ」
「本人とは何でしょう」
その質問に、美咲が黙った。
村瀬は責めるようには言わなかった。
ただ本当に疑問に思っている。
「顔でしょうか。記憶でしょうか。身体でしょうか。名前でしょうか。勤務実績でしょうか」
「全部でしょ」
「全部同じまま変化する方もいます」
「それは――」
「逆に、全部変わっても同じ方として生活する場合もあります」
「そんなの」
「どこからを“本人ではない”と判断するか、弊社では規定しておりません」
片桐が静かに言った。
「じゃあ会社が守っとるのは、本人じゃないってことか」
村瀬を見る。
「席だら」
村瀬は少し笑った。
「分かりやすく言えば」
榊原の頭に、百八という数字が浮かんだ。
「従業員数」
「はい」
「ずっと108人」
「はい」
「誰がいるかじゃない」
村瀬は何も言わない。
「108の席が埋まってればいい?」
「“いい”とは申しません」
「でもそういうことでしょう」
「事業運営上、必要な定員です」
百八。
祖父の代から。
退職すれば採用する。
誰かが替わっても社員番号は残る。
会社の人間が消えても、
会社は減らない。
「どうして108なんです?」
村瀬は首を振った。
「存じません」
「人事課長なのに?」
「定員を決めたのは私ではありませんから」
「社長なら知ってる?」
「どうでしょう」
「契約?」
村瀬の表情がほんのわずかに変わった。
それだけだった。
榊原は見逃さなかった。
「何かあるんですね」
「私は何も申し上げておりません」
「今、反応しましたよ」
「榊原さん」
藤原が横から言った。
「それくらいにしません?」
榊原が振り返る。
「何で」
「いや」
「何」
「別に」
「言えよ」
藤原は少し苛立った。
「そういうとこですよ」
「何が」
「相手が嫌がってんのに、答えるまで行くとこ」
「取材だって言ってるだろ」
「何でも取材って言えば許されるんすか」
「今それ関係ないだろ」
「ありますよ」
「藤原」
片桐が低い声を出した。
二人とも黙る。
村瀬はその様子を静かに見ていた。
榊原には、なぜか観察されているような気がした。
「もう一つ」
榊原が言った。
「社員自身も商品になるんですか」
村瀬は答える。
「場合によっては」
今度は誰も驚かなかった。
驚くことに疲れていた。
「どういう場合です?」
「契約によります」
「本人の同意は?」
「必要な場合と、そうでない場合があります」
藤原が顔を上げた。
「そうでない場合がある?」
「雇用契約、種別契約、その他の条件によります」
「入社した時にそんなのサインさせるんですか」
「必要な方には説明します」
「必要じゃない人には?」
「必要ありません」
榊原が聞く。
「例えば俺たちがここに入社したら?」
「通常の雇用なら通常契約です」
「普通の会社員として働ける?」
「もちろん」
「評価が下がったら?」
「改善指導です」
「それでも駄目なら?」
村瀬が少し笑った。
「榊原さんは、評価を気になさるタイプですね」
「答えてください」
「条件を満たせば、入れ替わり候補になる可能性はあります」
藤原が、
「絶対ここで働かん」
と呟いた。
村瀬は、
「現在募集しておりますが」
と返した。
藤原が本気で嫌そうな顔をした。
部屋を出る前、村瀬が一冊の薄い冊子を差し出した。
「こちらは撮影可能です」
社員向けハンドブック。
表紙。
『共和食産 働く人のための手引き』
中身は普通だった。
有給。
保険。
相談窓口。
ハラスメント防止。
外国人支援。
評価制度。
ページをめくっていく。
最後の方に、
『知己個体加工回避制度』
という見慣れない見出しがあった。
「これ」
榊原が止める。
村瀬は頷く。
「弊社の福利厚生です」
「福利厚生?」
「はい」
読む。
『社員が加工対象個体と親族・友人・同僚その他の知己関係にあった場合、申告により当該工程から外れることができます』
榊原は二度読んだ。
「……知ってる人を捌かなくていい制度?」
「簡単に言えば」
藤原が青ざめる。
「それを福利厚生って言うんすか」
「本人の心理的負担を減らす制度ですから」
「加工すること自体やめればいいじゃないですか」
「では、他の社員が担当します」
「そうじゃなくて」
「需要がありますので」
あまりにも簡単だった。
美咲が冊子を閉じた。
「もういいです」
その声は疲れていた。
人事課を出る。
廊下。
午後の作業開始を知らせるチャイムが鳴った。
社員たちが普通に歩いている。
日本人。
ベトナム人。
ネパール人。
誰が人間なのか。
誰が昨日まで別の誰かだったのか。
見ただけでは分からない。
三枝が向こうから歩いてきた。
榊原たちを見つける。
「どうでした?」
「人事?」
「はい」
「三枝さんも、あれ知ってるんですよね」
「入れ替わりですか?」
簡単に言った。
「知ってます」
「平気なんですか」
「何がでしょう」
「田所さん」
「ああ」
三枝は少し考えた。
「今の田所さん、評判いいですよ」
「そういう話じゃない」
「では、どの話でしょう」
榊原は苛立った。
「前の田所さんがいなくなったんですよ」
「そうですね」
「友達じゃなかったんですか」
「そこまで親しくはありませんでした」
「でも同僚でしょう」
「はい」
「何とも思わない?」
三枝はすぐには答えなかった。
近くの窓から午後の日が差している。
三枝は少しだけ、その光の中へ立った。
「寂しくないと言えば嘘になります」
榊原は黙る。
「前の田所さんにも、良いところはありましたから」
「じゃあ」
「でも、今の田所さんにも良いところがあります」
「そんな簡単に」
「簡単ではありませんよ」
三枝の声は穏やかだった。
「私たちは、注意して暮らしていますから」
「私たち?」
三枝は微笑んだ。
「人ではない者です」
榊原の後ろで、藤原が小さく息を呑んだ。
三枝は隠さなかった。
「……三枝さん、何なんです?」
美咲が聞いた。
三枝は少し考えた。
「皆さんの言葉なら、植物に近いと思います」
美咲が瞬きをする。
「植物?」
「完全に同じではありませんが」
藤原が三枝を見る。
「だから部屋に何もなかった?」
「物がたくさん必要ないので」
「日向ぼっこも?」
「好きですよ」
「飯は?」
「少しは食べます」
藤原は頭を抱えた。
「もう何でもありじゃん」
三枝が笑う。
「そんなことはありません」
榊原が聞いた。
「人外の社員って、どのくらいいるんです?」
「分かりません」
「三枝さんでも?」
「数えませんから」
「なんで?」
「必要がありますか?」
久世と同じだった。
「人間と人外を」
三枝が続ける。
「社員名簿で分ける理由が、私にはよく分かりません」
「でも違うでしょう」
「違いますよ」
「なら」
「榊原さんと藤原さんも、ずいぶん違いますよね」
藤原が吹き出した。
「それはそう」
「お前は黙ってろ」
三枝は続ける。
「違うことと、分けることは同じではありません」
榊原は答えなかった。
「人外の方が、なんか……」
美咲が言いにくそうに口を開く。
「いい人、多くないですか」
三枝が笑った。
「そう見えます?」
「田所さんも、今の方が優しいし。三枝さんも。黒瀬さんも、怖いけど礼儀正しい」
「注意して生きますから」
「注意?」
「人間の中で暮らすなら、問題を起こさない方がいいでしょう」
三枝は当たり前のように言った。
「怒鳴らない。殴らない。約束を守る。時間を守る。人のものを盗らない。困っている方がいたら、なるべく助ける」
藤原が、
「それ普通にいい人じゃないですか」
と言った。
「そうしていた方が、正体を疑われませんから」
一同が黙る。
三枝が笑った。
「長く続けていると、癖になりますよ」
冗談のようだった。
でも、冗談ではない。
「じゃあ、優しいのも擬態なんですか」
美咲が聞いた。
「最初はそうだったかもしれません」
「今は?」
三枝は窓の外を見た。
工場の裏。
花壇。
その向こうを、例の茶トラ猫が歩いている。
「今は、別に」
少し笑う。
「人間、嫌いじゃありませんから」
その言葉に、榊原は昨日の歌を思い出した。
いいな、いいな。
人間っていいな。
皮肉ではなかった。
本当に。
この男は、人間が好きなのだ。
「三枝さん」
「はい」
「人を食べます?」
藤原がまた、
「榊原さん!」
と言った。
三枝は怒らない。
「食べたことはあります」
藤原が黙る。
「牛も食べます。魚も。植物も食べます」
三枝は自分の手を見る。
「私が食べることと、好きであることは別です」
「それ、社長みたいですね」
「久世さんの家は、昔からああですから」
「昔から?」
「はい」
「どのくらい?」
三枝は少し考えた。
「私がこの辺りに来た頃には、もう」
「いつです?」
三枝が笑う。
「正確には覚えていません」
またそれだった。
その日の撮影が終わる頃には、四人とも疲れ切っていた。
加工棟から駐車場へ向かう。
途中。
戸崎が若い外国人社員に自転車のパンク修理を教えていた。
「そこ押さえときゃいいら」
「こう?」
「そうそう」
笑っている。
その少し向こう。
茶トラ猫。
戸崎が見る。
猫も見る。
戸崎が足を上げる。
猫が先に逃げた。
「学習したな」
戸崎が笑った。
三枝が離れたところから、
「源さん」
と呆れた声を出す。
社員たちが笑う。
何でもない夕方。
人間と。
人ではない者と。
前科者と。
外国人と。
昨日まで別人だった者と。
誰が何なのか分からないまま、
同じ会社から帰っていく。
藤原が、ぽつりと言った。
「なんか」
「何?」
美咲が聞く。
「普通に見えてきた」
榊原が藤原を見る。
「何が」
「全部」
藤原は少し困った顔で笑った。
「それが一番怖いんすけど」
榊原も、
その通りだと思った。




