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第三章 入れ替わり/第一節 反社

入れ替わり1


第三章 入れ替わり


第一節 反社


 久世宗一郎は、食肉加工会社だと言った。


 その言葉だけなら、何も間違っていない。


 榊原はホテルへ戻ってからも、何度もその場面を思い返した。


 人魚。


 角のある肉。


 青白い人間の足。


 そして、それらを見せられた後で、


「食肉加工会社ですよ」


 と笑った男。


 冗談ではなかった。


 誤魔化しているようにも見えなかった。


 本当に、そう思っている。


 それが一番気味が悪かった。


「寝てないでしょ」


 翌朝、ロビーで美咲に言われた。


「寝たよ」


「目、真っ赤ですよ」


「三時間くらい」


「それを寝てないって言うんです」


 榊原は紙コップのコーヒーを飲んだ。


 向かいでは片桐が新聞を読んでいる。


 藤原はまだ来ていない。


「藤原は?」


「部屋じゃないですか」


「集合五分前だけど」


「いつものことじゃないですか」


「昨日あんなことあったのに、よく寝られるな」


 片桐が新聞を折った。


「寝られる奴の方が長生きするら」


「片桐さんは?」


「寝たよ」


「普通に?」


「普通に」


「人魚見たのに?」


「人魚かどうか決まっとらん」


「社長、否定しなかったですよ」


「否定しないのと認めるのは違う」


「片桐さんまでそんなこと言う」


「カメラマンは映ったもんしか信じんよ」


「映ってるじゃないですか」


「尾っぽだけな」


 エレベーターが開いた。


 藤原が出てくる。


「おはようございます」


 時間は集合の三分前。


 榊原が腕時計を見る。


「何すか」


「いや」


「間に合ってます」


「何も言ってないだろ」


「言う顔してる」


 藤原はまだ昨日の冷蔵庫を引きずっているらしく、いつもの軽さが少し薄かった。


「今日どうするんです?」


 美咲が聞いた。


 榊原は紙コップをゴミ箱へ捨てた。


「特殊営業課」


「え?」


「共和食産の営業に、特殊営業課ってある」


 藤原の顔が露骨に嫌そうになる。


「まだ行くんすか」


「昨日の帳簿までは見てない」


「見なくていいでしょ」


「俺は見たい」


「榊原さん一人で行ってくださいよ」


「仕事」


「それ便利な言葉っすね」


 昨日、冷蔵庫の前で言われたことを思い出した。


 榊原は少しだけ黙った。


 片桐が立ち上がる。


「まあ、行くだけ行くか」


「片桐さんまで」


「撮らんでいいなら楽だら」


 藤原はため息をついた。


 共和食産に着くと、久世は不在だった。


 午前中は商工会の会合へ出ているらしい。


 代わりに案内されたのが、営業棟の二階。


 そこに、


『一般営業課』


『特殊営業課』


 と並んで表札が出ていた。


「隠す気ないんですね」


 美咲が小声で言う。


「特殊って普通に使う言葉だろ」


 榊原が返す。


「でも今見ると嫌ですよね」


「それは分かる」


 藤原が後ろから、


「帰りたい」


 と言った。


「まだ何も見てない」


「昨日見すぎたんですよ」


 特殊営業課は、拍子抜けするほど普通のオフィスだった。


 机が六つ。


 パソコン。


 電話。


 書類棚。


 ホワイトボードには、


『午前 A社打合せ』

『午後 海側便確認』


 と書かれている。


「海側便?」


 藤原が読む。


「声出すな」


「書いてあるじゃないですか」


「だからって読むな」


 奥の席から男が立ち上がった。


「お待ちしておりました」


 黒瀬隆文。


 特殊営業課長。


 見た目は五十歳前後。


 濃紺のスーツ。

 細身。

 髪はきっちり撫でつけられている。


 昨日まで出会った社員の中で、最も「普通の会社員」に見えた。


「共和食産の黒瀬です」


 榊原と名刺を交換する。


 名刺には、


『営業部 特殊営業課長』


 と普通に印刷されている。


「こちら、何を担当してる部署なんですか」


 榊原が聞いた。


「一般営業で扱わない取引先全般です」


「一般営業で扱わない?」


「特殊な商流ですね」


「具体的には」


「守秘義務がございますので、申し上げられる範囲で」


 黒瀬はそう言って笑った。


 語尾も声量も完璧だった。


 榊原は、その笑い方に逆に身構えた。


「反社会的勢力との取引があるという噂があります」


 美咲が榊原を見る。


 いきなり行くんだ、という顔だった。


 黒瀬は驚かなかった。


「ございます」


 榊原の方が一瞬止まった。


「あるんですか」


「ええ」


「それ、まずくないですか」


「内容によります」


「内容?」


「食品の納品です」


「暴力団に?」


「食事はなさるでしょう」


「そういう問題ですか?」


「そういう問題です」


 黒瀬の表情は変わらない。


「もちろん、法令上問題のある取引は行っておりません。警察や顧問弁護士とも確認しております」


「反社と取引してること自体は?」


「禁じられている商取引には該当しません」


「随分あっさり言いますね」


「隠しても仕方ありませんので」


 藤原が榊原の後ろから、小声で言った。


「反社が一番マトモな話に聞こえてきた」


 榊原もそう思った。


 黒瀬が椅子を勧める。


「せっかくですので、業務の流れだけでしたらご説明できます」


 机の上に、取引区分の資料を広げる。


 一般卸。

 飲食。

 給食。

 加工委託。


 ここまでは普通。


 その下に、


『特殊種別』

『指定部位』

『個体契約』


 という欄。


「個体契約?」


 榊原が聞く。


「特定の条件を指定される取引です」


「年齢とか?」


「場合によっては」


「人間ですか」


 黒瀬は一拍置いた。


「場合によっては」


 藤原が顔をしかめる。


 その時、黒瀬の電話が鳴った。


「失礼」


 受話器を取る。


「はい、共和食産特殊営業課、黒瀬です」


 声が切り替わる。


 完全な営業電話。


「いつもお世話になっております。はい。先日の件ですね」


 黒瀬はパソコン画面を確認する。


「人魚のモモでしたら、次回入荷は来月になります」


 誰も動かなかった。


「はい。そうですね。今季は少なめですので、価格は上がる見込みです」


 黒瀬はメモを取る。


「代替でしたら鬼種の肩がございます」


 美咲の顔が固まる。


 藤原が榊原を見る。


 片桐だけが、いつもの無表情で黒瀬を見ている。


「人間ですか?」


 黒瀬の声。


 榊原の背筋が冷たくなる。


「人間でしたら条件を確認させてください。年齢、性別、既往歴、それから前歴の有無」


 少し間。


「はい。三十代まで。男性。健康状態良好。暴力歴あり」


 黒瀬はごく普通に、


「承知いたしました」


 と言った。


「在庫確認後、折り返します」


 電話を切る。


 事務所の空調音だけが聞こえる。


 黒瀬が顔を上げた。


「失礼しました」


 榊原が聞く。


「今の、普通の電話ですよね」


「はい」


「誰と?」


「取引先です」


「人魚って言いましたよね」


「言いました」


「鬼も」


「はい」


「人間も」


「はい」


 藤原が椅子から立ちかける。


「普通に言うんすね」


 黒瀬が藤原を見る。


「昨日、ご覧になったそうですね」


「何で知ってるんです?」


「社内連絡がありますから」


「この会社どうなってるんすか」


「業務上必要な情報を共有しています」


「そういう意味じゃなくて」


 黒瀬は少し困ったように笑った。


「どの意味でしょう」


 藤原は言葉に詰まった。


 榊原が聞く。


「取引先って、人間ですか?」


「人間の方もいらっしゃいます」


「人間じゃない取引先も?」


「もちろん」


「もちろん?」


 黒瀬は首を傾げる。


「商品が多様ですから」


「相手も多様ってことですか」


「そういうことです」


 黒瀬は事もなげに答える。


「帳簿、見せてもらえます?」


「一般公開部分でしたら」


「特殊営業の取引先を」


「名称だけなら、一部可能です」


 榊原は少し驚いた。


 また止めない。


 黒瀬が書類棚からファイルを取り出す。


「撮影はご遠慮ください」


「見るだけ」


「どうぞ」


 榊原が開く。


 最初は普通だった。


 株式会社。

 有限会社。

 飲食店。

 卸。


 その中に、聞いたことのある暴力団系企業の名前が一つあった。


「これですね」


 榊原が指す。


「噂の反社」


「はい」


「堂々としてるなあ」


 藤原が覗き込む。


 榊原はページをめくる。


 その下。


『駿河湾深部第二区』

『鷺森北山第三洞』

『海溝側共同取引所』

『所在非開示・夜間受渡』

『地球外第六窓口』


 榊原の手が止まる。


「……これ、住所ですか?」


「一部は」


「地球外?」


「取引上の便宜的な名称です」


「便宜的」


「正式名称ではありません」


「海溝側共同取引所って何です?」


「海溝側にある共同取引所です」


「そのままじゃないですか」


「はい」


 藤原が帳簿を覗いたまま呟く。


「ヤクザの方がマシじゃん」


 黒瀬が微笑む。


「お客様に優劣はありません」


「そういう平等いらないっすよ」


 榊原はページを戻した。


 反社。


 確かにいた。


 噂は間違っていなかった。


 ただ、完全にどうでもよくなった。


 反社会的勢力より、海溝。

 洞窟。

 地球外。


 地方の居酒屋で囁かれていた噂の方が、現実よりずっと可愛かった。


「黒瀬さん」


「はい」


「あなたは、人間ですか」


 美咲が榊原を見る。


 さすがに聞くのか、という顔。


 黒瀬は少し考えた。


「その質問は、業務上必要でしょうか」


「取材です」


「取材なら何でも必要になりますか?」


「ならない」


「では、なぜ?」


「気になったから」


 黒瀬は一度だけ笑った。


「榊原さんは正直ですね」


「答えは?」


「答えなくても構わない質問でしょう」


「答えたくない?」


「そういうわけでは」


 黒瀬は腕時計を見る。


 銀色の細い時計。


「人間として働いております」


「人間として?」


「はい」


「人間です、じゃなく?」


「意味は同じでしょう」


「本当に?」


 黒瀬は今度は笑わなかった。


「長く働いておりますので」


 それだけ。


 榊原は追わなかった。


 追えなかった、の方が正しい。


 事務所を出る。


 廊下を歩きながら、藤原がすぐ言った。


「あの人、人間じゃないですよ」


「何で分かる」


「絶対そうでしょ」


「昨日まで人魚なんか信じてなかっただろ」


「昨日見たんですよ」


「じゃあ今日から何でも怪物にするのか」


「榊原さんだって聞いたじゃないですか」


「気になったから」


「俺も気になってます」


 美咲が割って入る。


「でも黒瀬さん、普通でしたよね」


「だから怖いんじゃないですか」


 藤原が言う。


「普通すぎる」


 片桐が歩きながら、


「普通って何だら」


 と呟いた。


「え?」


 美咲が聞き返す。


「いや」


 片桐は前を向いたまま続ける。


「昨日の田所も、今日の黒瀬も、見た目だけなら普通だら。三枝さんも普通。ミンも普通。俺らが勝手にどっかで線引いとるだけじゃないの」


「人魚は普通じゃないですよ」


 藤原が言う。


「だから、お前にとってはな」


「片桐さん、急に哲学やめてくださいよ」


「年取るとそうなるだよ」


 片桐は笑った。


 榊原は黙って歩いた。


 片桐の言葉より、黒瀬の言葉が残っていた。


 人間として働いております。


 どういう意味なのか。


 考えながら廊下を曲がる。


 そこで田所とすれ違った。


「お疲れさまです」


 丁寧な挨拶。


 榊原も反射的に、


「お疲れさまです」


 と返した。


 田所はそのまま去っていく。


 藤原が背中を見ながら言う。


「今の田所さん、やっぱいい人ですよね」


「前が悪すぎた」


「でも、今の方がよくないですか?」


 榊原は答えなかった。


「もしですよ」


 藤原が続ける。


「本当に別の何かに替わってたとしても」


「藤原」


「いや、もしですよ。前の田所さんより、今の田所さんの方が周りに迷惑かけなくて、仕事もできて、人にも優しいなら」


 少し間。


「戻した方がいいんすかね」


 榊原が藤原を見る。


「本人じゃないなら、戻すだろ」


「なんで?」


「なんでって」


「今の方がいい人なのに?」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ何の問題なんすか」


 榊原は答えようとして、言葉が出なかった。


 本人であること。


 それ自体に価値がある。


 当然だと思っていた。


 でも、


「どうして?」


 と聞かれると、説明が難しかった。


 藤原は榊原の顔を見て、


「ほら」


 と言った。


「何が」


「榊原さんも分かんないじゃないですか」


「お前、昨日まで帰りたいって泣きそうだっただろ」


「泣いてないっす」


「顔真っ白だったぞ」


「人魚は無理ですよ」


「田所はいいのか」


「今の田所さん、感じいいし」


 藤原は笑った。


 榊原は笑わなかった。


 その日の午後。


 品質管理の撮影中、戸崎が廊下を通りかかった。


 若い社員が何か相談している。


 戸崎は足を止め、真剣に話を聞く。


「それなら総務行ってこい。俺からも話しとくで」


「すみません」


「気にすんな」


 優しい。


 その足元。


 例の茶トラ猫が現れた。


 戸崎は顔をしかめる。


「またおる」


 猫が足元へ寄る。


 戸崎が軽く蹴ろうとした。


「源さん」


 三枝の声。


 戸崎の足が止まる。


「蹴ってませんよ」


「今から蹴るところでした」


「まだ蹴っとらんじゃん」


 三枝が猫を抱き上げる。


「進歩ですね」


「なんだそれ」


 二人が笑う。


 榊原は少し離れたところから見ていた。


 人間には優しい戸崎。


 猫には優しくない。


 人間ではないかもしれない三枝。


 猫にも人間にも優しい。


 そして田所。


 人間だったはずなのに、今は前より人間らしい。


 何が何なのか、少しずつ分からなくなる。


「榊原さん」


 ミンに呼ばれた。


「はい」


「昨日の続き、聞きます?」


 榊原は振り返る。


「田所さんの?」


「はい」


「聞きたい」


 ミンは周囲を見る。


「ここではちょっと」


「どこなら?」


「休憩室」


 二人で移動する。


 小さな休憩室。


 誰もいない。


 ミンが自動販売機で水を買う。


「田所さん」


「はい」


「“替わった”って言いましたよね」


「言いました」


「どういう意味?」


 ミンはペットボトルの蓋を開ける。


「そのままです」


「人が変わった、って比喩じゃなく?」


「違います」


「じゃあ何に?」


 ミンは榊原を見る。


「別の人に」


 榊原はしばらく黙った。


「顔、同じですよ」


「同じ顔で替われる人もいます」


「……人?」


「人じゃないのも」


「会社は知ってる?」


「もちろん」


「もちろん?」


「会社がやりますから」


 榊原の手が止まる。


「会社が?」


 ミンは水を一口飲んだ。


「評価、悪かったでしょう」


 昨日の封筒。


 人事評価通知。


 社内標語。


 人は、もっと良くなれる。


「評価が悪いと……替える?」


 ミンは頷いた。


「そうです」


「誰が決めるんです」


「人事」


「人事?」


 あまりにも普通の言葉だった。


「田所さん、クビじゃなくて?」


「クビよりいいですよ」


「何が?」


「会社に残れます」


 榊原は理解できなかった。


「残ってないだろ」


「名前は」


 ミンが言った。


「社員番号も」


 榊原の背中に、冷たいものが走った。


 ミンは特に怖がっていない。


「詳しくは、人事に聞いた方がいいです」


「あなた、怖くないんですか」


「最初は」


「今は?」


「評価悪くならないように働いてます」


 少し笑う。


「だから品質管理は真面目ですよ」


 冗談なのか分からなかった。


 榊原は眼鏡を押し上げた。


「田所さんの前の人は?」


 ミンは答えなかった。


「どこに行ったんです?」


「それも人事に」


「ミンさんは知らない?」


「知りません」


 少し間。


「知りたくもないです」


 そう言って休憩室を出ていった。


 榊原だけが残る。


 壁に、社員向けの掲示物があった。


『今期評価項目』


 勤務態度。

 生産性。

 衛生管理。

 協調性。

 改善意欲。


 その一番下。


 小さな文字。


『一定基準を下回る場合、配置その他の改善措置を実施することがあります』


 普通の会社なら、


 配置転換。


 再教育。


 降格。


 場合によっては退職勧奨。


 そう読む。


 共和食産では。


 榊原は、


 改善措置、


 という四文字を見つめた。


 廊下の向こうから、田所の声が聞こえる。


「そこ危ないですよ。私が持ちます」


 丁寧な声。


 誰かが、


「ありがとう、田所さん」


 と答える。


 榊原は目を閉じた。


 前の田所より。


 今の田所の方が。


 確かに、


 良くなっていた。

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