第二章 もっと良く/第三節 特殊原料
もっと良く3
第二章 もっと良く
第三節 特殊原料
銀色の尾は、三秒も映っていなかった。
片桐が映像を巻き戻す。
再生。
白い冷蔵室。
吊られた枝肉。
カメラが右へ振れる。
その奥。
銀色。
止める。
「これ」
片桐が指した。
藤原がモニターへ顔を寄せた。
「魚じゃないですか」
「でかすぎるだろ」
「マグロとか」
「食肉工場に?」
「知らないっすよ。特殊なやつとか」
榊原は画面を見た。
確かに魚の尾に見える。
ただ、形がおかしい。
マグロやブリのように尾だけが分かれているのではない。
銀色のものは、画面の上方へ太く伸びている。
鱗のような光沢。
そして、その先がどこへ続いているのか分からない。
「明日、撮らせてもらおう」
榊原が言った。
藤原がすぐ顔を上げる。
「いや、別にいいでしょ」
「なんで」
「魚でしょ」
「じゃあ撮っても問題ない」
「そういう言い方するから嫌なんすよ」
「何が?」
「なんでも突っ込めば正義みたいなとこ」
榊原は藤原を見る。
「取材だぞ」
「会社紹介でしょ」
「会社紹介だから会社にあるもの撮るんだよ」
「向こうが見せたくないなら?」
「その時考える」
「絶対考えないじゃないですか」
片桐がノートパソコンを閉じた。
「喧嘩は明日にしろ」
「してないっす」
「しとる」
美咲が時計を見る。
「もう十一時ですよ」
「寝るか」
榊原は立ち上がった。
ただ、部屋へ戻っても銀色の尾が頭から離れなかった。
魚なら魚でいい。
何かの搬入物かもしれない。
画像の圧縮で奇妙に見えただけかもしれない。
それでも確認したかった。
それが仕事だ、と榊原は自分に言い聞かせた。
翌朝、共和食産へ着くと、藤原は昨日よりさらに口数が少なかった。
集合には三分前。
榊原が時計を見ると、
「間に合ってます」
と先に言われた。
「何も言ってない」
「顔で言ってる」
「五分前」
「はいはい」
「一回」
「はい」
片桐が車の後ろで笑った。
「もう漫才だな」
「全然おもしろくないです」
藤原は機材を持ち上げた。
その日の最初の撮影は社員食堂だった。
昼食の準備風景。
食材の搬入。
厨房。
何の変哲もない。
藤原が音声を調整している横で、調理補助の男が鼻歌を歌っていた。
「いいな、いいな、人間っていいな……」
榊原が振り向く。
三枝ではない。
五十歳くらいの痩せた男だった。
「その歌、この会社で流行ってるんですか?」
男が振り返る。
「え?」
「昨日も三枝さんが歌ってたんですよ」
「ああ」
男は笑った。
「いい歌じゃないですか」
「『日本昔ばなし』好きなんです?」
「好きですよ」
「世代ですよね」
「まあね」
榊原は何気なく聞いた。
「何が好きなんです? 昔話」
「話そのものより、あの歌かな」
「どうして?」
男は包丁を置き、少し考えた。
「人間、楽しそうでしょう?」
榊原は笑った。
「人間っていいな、だから?」
「そうそう」
「自分も人間じゃないですか」
男は榊原を見た。
一拍。
それから笑った。
「そうでしたね」
包丁を持ち直す。
榊原も笑った。
ただ、なぜか美咲は笑わなかった。
食堂を出てから、榊原が聞く。
「どうした?」
「何がです?」
「さっき」
「別に」
「気になった?」
「ちょっとだけ」
「何が」
「“そうでしたね”って」
「言い間違えただけだろ」
「榊原さんが言うんだ」
「何が」
「田所さんにはあんなに食いついてたのに」
「田所さんは実際おかしいだろ」
「じゃあ今の人も追いかけます?」
「そこまではいい」
美咲が小さく笑う。
「結局、自分が気になることだけなんですよね」
「取材なんてそんなもんだよ」
「はいはい」
今度は榊原が言われる側だった。
午前十時。
冷蔵施設の追加撮影について申請すると、意外なほど簡単に許可が出た。
ただし条件が一つ。
「奥の第三保管区画は、取引先との契約がありますので撮影しないでください」
案内役の社員が言った。
「昨日、そこ少し映ってるんですけど」
榊原が答える。
「昨日?」
「奥に魚みたいなものが」
社員の表情は変わらなかった。
「ああ」
それだけ。
「何です?」
「特殊原料です」
「特殊原料?」
「はい」
「魚ですか?」
「契約上、お答えできません」
榊原は少し笑った。
「魚の種類も守秘義務なんですか?」
「種類によります」
妙な答えだった。
「撮らなければ見ても?」
「通路からでしたら」
藤原が榊原の袖を引いた。
「もういいじゃないですか」
「見るだけ」
「その“見るだけ”で終わったことないでしょ」
榊原は無視した。
冷蔵施設へ入る。
昨日より冷え込みが強く感じる。
白い息。
冷却装置の低い唸り。
床には黄色い線。
一般区域と、搬入区域。
片桐は指示通り撮影する。
肉の塊。
棚。
温度計。
作業員。
見慣れてしまえば、ただの工場だった。
「第三はあそこです」
案内役が言った。
奥に半透明のビニールカーテン。
その向こう。
昨日の映像にあった銀色が見える。
榊原は足を止めた。
魚ではなかった。
少なくとも、榊原が知っている魚ではない。
太い尾。
銀色の鱗。
長さは一メートル以上。
その上。
腰。
榊原は息を止めた。
人間の腰に見えた。
白い皮膚。
肋骨の辺りまで、透明なシートがかかっている。
その上は見えない。
藤原が、
「……何すか、あれ」
と言った。
「特殊原料です」
案内役は同じ言葉を繰り返した。
美咲が一歩前へ出る。
「これ、人形とかじゃないですよね?」
「違います」
「じゃあ何なんです?」
「特殊原料です」
「だから――」
その時、片桐がカメラを少し下げた。
「美咲」
「はい?」
「横」
隣のレール。
巨大な肉塊が吊られている。
赤黒い。
牛より大きい。
肩の辺りから、何か硬いものが突き出していた。
角。
一本ではない。
二本。
切断面の近くに、黒い髪のようなものが残っている。
美咲が黙った。
藤原が後ずさる。
「いやいやいや」
誰も答えない。
「いや、これダメでしょ」
藤原の声が少し高くなる。
「何が?」
案内役が聞いた。
藤原はその顔を見る。
「何がって、これ」
「どれでしょう」
「これですよ!」
指差した先。
今度は別のものが目に入る。
棚の下段。
白い袋。
その隙間から、
足が出ていた。
人間の足だった。
五本の指。
爪。
踵。
ただし皮膚の色が、妙に青い。
藤原の顔から血の気が引いた。
「帰りましょう」
「藤原」
「帰りましょうよ」
「落ち着け」
「榊原さん、見えてます?」
「見えてる」
「じゃあなんで平気なんすか」
「平気じゃない」
「めちゃくちゃ平気そうじゃないですか」
「今騒いでもしょうがないだろ」
「しょうがなくないでしょ!」
声が冷蔵庫の壁に反響した。
案内役が落ち着いた声で言う。
「撮影は禁止です」
片桐はすでにカメラを下げている。
「撮っとらん」
「ありがとうございます」
藤原が言った。
「警察とか」
榊原を見る。
「警察ですよね、これ」
案内役が首を傾げた。
「なぜですか?」
藤原が固まった。
「なぜって」
「違法なものは扱っておりません」
「人の足ありましたよね」
「そう見えましたか?」
「見えたよ!」
「藤原」
榊原が腕を掴む。
「離してください」
「落ち着け」
「だから何で榊原さんは――」
そこで音がした。
奥の方。
金属が一度だけ鳴る。
カン。
全員が見る。
半透明のカーテンの向こう。
何かが揺れた。
銀色の尾。
ゆっくり。
一度。
生きているのか。
空調で動いただけなのか。
分からない。
藤原は完全に黙った。
「出よう」
片桐が言った。
榊原も頷いた。
誰も反対しなかった。
外へ出た瞬間、藤原は深く息を吸った。
「何なんすか、あれ」
誰も答えない。
美咲も青ざめている。
「片桐さん」
榊原が聞く。
「撮れてます?」
「禁止って言われてからは撮っとらん」
「その前は?」
「入口までは」
「見せてもらえます?」
藤原が榊原を睨んだ。
「まだやるんすか」
「確認するだけ」
「もう十分見たでしょ!」
榊原も少し声を荒らげた。
「だから何を見たか確認するんだよ!」
「人魚ですよ!」
廊下が静かになった。
藤原自身も、言った後で固まった。
人魚。
その単語だけが、異様に子供っぽかった。
現実味がない。
美咲が笑おうとして失敗した。
「それはないでしょ」
「じゃああれ何なんすか」
「知らないけど」
「上半身人間で下半身魚でしたよね」
「全部見てない」
「十分でしょ!」
「加工用の模型かもしれないし」
「なんで食肉工場に人魚の模型があるんすか!」
誰も答えられなかった。
榊原は案内役を見る。
「本当に説明できない?」
「特殊原料です」
「それしか言わないんですね」
「契約がありますので」
「久世社長なら?」
「社長がお答えになるかは分かりません」
「じゃあ聞きます」
藤原が頭を抱えた。
「聞くんだ……」
榊原は眼鏡を押し上げた。
手が少し震えていることに、その時初めて気づいた。
自分も怖い。
ただ、それ以上に知りたかった。
人魚。
そんなものがいるはずがない。
鬼のような肉塊。
人間の足。
どれも、いるはずがない。
なのに、冷蔵庫にはあった。
午後の撮影まで一時間空いた。
社員食堂の隅で、四人は何も頼まず座っていた。
普段なら一番騒がしい藤原が黙っている。
美咲もスマートフォンを触るだけ。
片桐はカメラのデータを確認している。
榊原が言った。
「片桐さん」
「ん」
「あります?」
「これ」
モニターを回す。
冷蔵室。
入口。
銀色。
昨日よりはっきり映っている。
ただし腰から上は遮蔽物に隠れている。
証拠としては弱い。
藤原が画面を見て、
「十分でしょ」
と言った。
「ネットに出したら人魚って言われますよ」
「ネットに出す番組じゃない」
榊原が答える。
「ニュースにする?」
美咲が聞く。
「まだ分からない」
「人魚かもしれないもの見たのに?」
「“かもしれない”だろ」
藤原が机を叩いた。
「さっきまで俺より食いついてたじゃないですか」
「だから確認してる」
「確認、確認って」
「じゃあ何て放送するんだよ。“共和食産に人魚がいました”って?」
「事実なら」
「事実かどうか分からないから調べるんだろ」
藤原は黙った。
その時だった。
近くのテーブルで、二人の社員が昼食を食べながら話している。
「今日、第三入ったらしいね」
「水の?」
「うん」
「久しぶりじゃん」
「今季少ないらしいよ」
榊原たちは一斉にそちらを見る。
社員たちは気づいていない。
「値上がりするかな」
「営業次第じゃない?」
「俺らには関係ないら」
普通の会話。
魚の話かもしれない。
特殊な海産物の話かもしれない。
そう考えれば、何もおかしくない。
片方の社員が食事を終え、トレーを持って立ち上がる。
もう一人が言った。
「そういや今度、鬼も入るって」
「マジ?」
「でかいらしいよ」
「めんどくさ」
二人は笑った。
藤原が榊原を見る。
榊原も藤原を見る。
今度は誰も、
聞き間違いだとは言わなかった。
午後。
久世社長との予定にはなかった面談が組まれた。
会議室に入る前。
藤原が榊原の腕を掴んだ。
「俺、入らなくていいですか」
「仕事」
「でも」
「何もされないよ」
「なんで分かるんすか」
榊原は答えられなかった。
久世はいつもと同じ笑顔で待っていた。
「冷蔵庫をご覧になったそうですね」
「はい」
「驚かれましたか?」
榊原は椅子に座る。
「そりゃ」
「申し訳ありません。撮影区画をもう少し厳密に分けるべきでした」
「謝るところ、そこなんですか?」
久世が少し首を傾げる。
「ほかに何か?」
榊原はしばらく社長の顔を見た。
「第三保管区画にあったもの、何ですか」
「特殊原料です」
榊原は思わず笑った。
「それ、社内マニュアルか何かですか」
「便利な言葉でしょう」
「人魚ですか?」
美咲が榊原を見る。
藤原が息を止める。
片桐は黙っている。
久世は、
「その呼び方をする方もいます」
と答えた。
会議室から音が消えた。
「……いるんですか」
榊原が聞いた。
「何がでしょう」
「人魚」
「先ほどご覧になったのでは?」
久世は穏やかだった。
榊原は眼鏡を押し上げた。
「じゃあ、あの角のあるやつは」
「その件については、営業上の守秘義務があります」
「鬼?」
久世は答えない。
否定もしない。
藤原が椅子から立ち上がった。
「俺、ちょっと外行っていいですか」
「どうぞ」
久世は止めなかった。
藤原はすぐ部屋を出た。
扉が閉まる。
久世が申し訳なさそうに言う。
「刺激が強かったでしょうか」
榊原は久世を見る。
「刺激ってレベルじゃないですよ」
「慣れていない方には、そうですね」
「慣れるんですか?」
「皆さん、最初は驚かれます」
「皆さん?」
「社員です」
榊原は黙った。
あの冷蔵庫を。
あの銀色の尾を。
あの角を。
社員たちは見ている。
毎日ではなくても。
日常の中で。
そして昼休みに、
値段が上がるだの、
大きいと面倒だの、
普通に話している。
「この会社……何なんですか」
榊原が聞いた。
久世は少し考えた。
それから、笑った。
「食肉加工会社ですよ」
その答えが、
ここへ来て初めて、
榊原には怖かった。




