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第二章 もっと良く/第二節 今の田所

もっと良く2


第二章 もっと良く


第二節 今の田所


 田所浩二は、昨日と同じ食堂の、昨日と同じ椅子に座った。


 それなのに、榊原には別の場所にいるように見えた。


「では、よろしくお願いいたします」


 田所が頭を下げる。


 片桐がカメラを回し始めた。


 藤原は音声を取っているが、昨日ほど露骨に田所を見ない。むしろ視線を合わせないようにしている。


 美咲が最初の質問をする。


「昨日も少し伺いましたけど、改めて、共和食産に入って何年になりますか?」


「六年になります」


 昨日は、


「六年」


 だった。


 美咲は続ける。


「入ったきっかけは?」


「出所後、仕事がなかなか見つかりませんでした。そのとき、こちらで採用していただきました」


 昨日は、


「仕事なかったから」


 だった。


 榊原は手元のメモを見た。


 質問も同じ。


 答えている内容も、ほぼ同じ。


 ただ、言葉が違う。


 美咲も気づいているはずだった。


 それでも顔には出さない。


「前科については?」


「傷害です」


「現在はどう受け止めていますか?」


 田所は少し考えた。


「してはいけないことをしました。被害を受けた方に対して、今さら何を言っても足りないと思います」


 藤原がほんの少し顔を上げた。


 昨日の田所なら、絶対に言わない。


 榊原もそう思った。


「以前は、すぐ手が出る方だったんですか?」


「そうですね」


「今は?」


「出しません」


「どうして?」


 田所は笑った。


「人間、学ばなければいけませんから」


 榊原の指が止まる。


 昨日、社内の壁に貼られていた標語が頭に浮かんだ。


 人は、もっと良くなれる。


 美咲が質問を続ける。


「昨日は更生という言葉について、あまり好きではないとおっしゃっていましたよね」


 田所の表情が一瞬だけ止まった。


「そうでしたか?」


「覚えてません?」


「申し訳ありません。昨日は少し苛立っていましたので」


「かなり、でしたけどね」


 美咲が笑う。


 田所も笑った。


「お恥ずかしいです」


 榊原は昨日の映像を思い出す。


 舌打ち。


 方言。


 藤原との言い争い。


 そして人事評価通知。


「田所さん」


 榊原が口を挟んだ。


「昨日、人事評価の通知を受け取ってましたよね」


 田所は榊原を見る。


「はい」


「内容、聞いてもいいですか?」


「評価については社内情報ですので」


「昨日は“またかよ”って言ってましたけど」


「そうでしたか」


「覚えてない?」


「昨日は少し感情的になっていたようですね」


 言葉が全部きれいだった。


 きれいすぎる。


「評価、悪かったんですか?」


 榊原が聞く。


 田所は微笑んだ。


「改善すべき点があるということです」


「それで、一晩で改善した?」


 食堂が少し静かになった。


 美咲が榊原を見る。


 藤原も。


 田所は怒らなかった。


「努力しています」


「方言も?」


「方言?」


「昨日はかなり静岡っぽい話し方でしたよ」


 田所が少し考える。


「意識して標準語を話しています」


「どうして?」


「テレビですから」


 理屈は通る。


 全部通る。


 だからこそ気持ちが悪い。


 片桐が無言でカメラを回している。


 榊原は横目で彼を見る。


 片桐はいつもと変わらない。


 だが、レンズの向こうで何を見ているのかは分からなかった。


「じゃあ最後に」


 美咲が言った。


「今の田所さんにとって、共和食産ってどういう会社ですか?」


 田所は少しだけ考えた。


「機会をくれる会社だと思います」


「機会?」


「やり直す機会です」


「昨日と言ってること、全然違いますね」


 美咲が冗談っぽく言う。


 田所は笑った。


「人は変わりますから」


 撮影終了。


 片桐がカメラを下ろす。


「ありがとうございました」


 田所が立ち上がる。


「こちらこそ」


 藤原がマイクを外すため近づく。


 昨日なら田所が舌打ちしていた距離。


 今日は自分から少し身をかがめた。


「すみません、お願いします」


「……はい」


 藤原が胸元のピンマイクを外す。


 田所はその手元を見る。


「昨日は失礼しました」


「え?」


「嫌な態度を取りましたよね」


「まあ」


「申し訳ありません」


 頭を下げる。


 藤原が困った顔をする。


「いや、まあ、俺も言い方悪かったんで」


「ありがとうございます」


 田所は笑って食堂を出ていった。


 扉が閉まる。


 藤原がすぐ言った。


「怖っ」


「本人の前で言わなくてよかったな」


 榊原が答える。


「いや、絶対おかしいでしょ」


 美咲が椅子を戻しながら言った。


「別に。人が反省することくらいあるでしょ」


「一晩で?」


「何かあったんじゃない?」


「何かって?」


「人事評価がよっぽど悪かったとか」


 藤原が榊原を見る。


「やっぱ評価ですよ」


「何が」


「昨日、封筒もらってたじゃないですか。それでクビ寸前とか言われて、ビビって急に真面目になった」


「利き手まで?」


 片桐が初めて口を開いた。


 藤原が黙る。


 美咲も片桐を見る。


「片桐さん、まだそれ気にしてるんですか」


「気にしてるってほどじゃない」


「両利きなんじゃないですか?」


「かもな」


「じゃあいいじゃないですか」


「いいよ」


 片桐はそれ以上言わなかった。


 榊原は片桐のところへ行く。


「昨日の素材、見せてもらえます?」


「今?」


「少しだけ」


「車で見るか」


 昼休み。


 四人は機材車へ戻った。


 片桐がノートパソコンを開き、昨日の田所の映像を呼び出す。


 画面の中の田所。


「更生だなんだ、そんなん会社が勝手に言っとるだけだら」


 榊原が腕を組む。


「次」


 今日の映像。


「機会をくれる会社だと思います」


 同じ顔。


 同じ声。


 でも違う。


「声の高さも少し違わないです?」


 藤原が言う。


「喋り方だら」


 片桐が波形を見ながら答える。


「昨日は語尾を潰す。今日は最後まではっきり言っとる」


「演技とか?」


「そこまでならできる」


「歩いてるとこあります?」


 片桐が昨日の工場内映像を探す。


 田所が廊下を歩いている場面。


 猫背。


 左肩が少し前へ出る。


 右足を擦るように歩く。


「今日の」


 今朝の田所。


 背筋が伸びている。


 歩幅が均等。


 足を擦らない。


 美咲がため息をついた。


「だから、それ全部“ちゃんとしよう”って思えば直せるじゃないですか」


「一晩で?」


 藤原が言う。


「人によるでしょ」


「じゃあ、これ」


 片桐が昨日の喫煙所の映像を出す。


 田所が右手で煙草を持っている。


 灰を落とす。


 右手。


 今日。


 社員証を左で出す。


 藤原が言った。


「いや、これだけじゃ弱いっすね」


「弱いって何だよ」


「別人説」


「誰がそんな説立てた」


「榊原さん」


「立ててない」


「顔が立ててます」


 榊原は眼鏡を押し上げた。


「片桐さんは?」


「俺?」


「どう思います」


 片桐はしばらく画面を見た。


「撮ってると分かることがある」


「何が?」


「人って、自分で思ってるより癖が多い」


 藤原が黙る。


 片桐は昨日の田所を一時停止した。


「瞬きの間隔。立ち方。人に喋りかけられた時、どっち向くか。カメラ見た時に目をそらす方向。そういうのは、意識して直そうとしても一気には変わらん」


「つまり?」


「昨日と今日で、癖が違う」


 美咲が言った。


「でも顔は同じ」


「そうだな」


「声も」


「そうだな」


「じゃあ同じ人でしょ」


 片桐は肩をすくめた。


「普通はな」


 車内に、少しだけ沈黙が落ちた。


 藤原がスマートフォンを触りながら言う。


「整形でもない。双子でもない。ドッペルゲンガー?」


「お前、楽しんでるだろ」


 榊原が言う。


「ちょっと」


「帰りたいって言ってたくせに」


「怖いのと面白いの別じゃないですか」


「昨日は人魚見てないだろ」


「人魚?」


 美咲が笑う。


「まだ何も見てないでしょ」


「今のは例えです」


「なんで人魚?」


「なんとなく」


 藤原が笑った。


 その場では誰も気に留めなかった。


 午後。


 品質管理部の撮影。


 そこでミンに会った。


 グエン・ミン・トゥ。


 二十九歳。


 ベトナム出身。


 白衣の上から青いエプロン。髪は帽子の中にきれいに収めている。


 日本語はかなり流暢だった。


「ここの品質管理って厳しいですか?」


 美咲が聞く。


「厳しいです。とても」


「どれくらい?」


「人より肉の方が大事なくらい」


「それ言っていいんですか?」


「冗談です」


 ミンが笑う。


 榊原は作業台の向こうを見る。


 肉の温度。

 色。

 細菌検査。

 記録。


 社員は皆、かなり真剣だ。


「食品事故って多い業界ですよね」


「そうですね。でも共和は少ないです」


「どうして?」


「みんな注意します」


「外国人スタッフも多いのに、教育大変じゃないですか?」


 ミンは少しだけ眉を上げた。


「外国人だから危ないですか?」


「あ、いや、そういう意味では」


 美咲が慌てる。


 ミンは笑った。


「分かってます」


「びっくりした」


「むしろ、ルール守る人は外国人多いですよ」


「そうなんですか」


「失敗したら、帰らされると思ってますから」


 その言葉に榊原が引っかかった。


「帰らされる?」


「国に、という意味です」


「なるほど」


「日本人は、会社辞めても日本にいられるでしょう」


「まあ」


「だから少し気楽」


 ミンは検査器具を片付けながら言う。


「ここも同じです」


「何が?」


「気をつけてる人の方が、長くいます」


 榊原は田所を思い出した。


「田所さんも?」


 ミンの手が止まる。


「田所さん?」


「昨日、かなり荒れてたんですけど、今日すごく変わってて」


「ああ」


 ミンは納得したように頷いた。


「評価、悪かったですから」


「やっぱり評価?」


「はい」


「それで急に性格まで変わるもんですか?」


 ミンは少し考えた。


「替わったんじゃないですか?」


 榊原は笑った。


「何が?」


「田所さんが」


「だから、その田所さんが何に?」


「榊原さん」


 別の社員が呼んだ。


「次の撮影、準備できました」


「あ、はい」


 榊原が返事をする。


 そしてミンへ向き直る。


「今の話、あとで聞いてもいいですか?」


「何の話です?」


「田所さん」


「いいですよ」


 ミンは何でもない顔で作業へ戻った。


 榊原はその後ろ姿を見た。


 藤原が隣から小声で言う。


「今、なんて言いました?」


「替わったって」


「誰が」


「田所さんが」


「何と?」


「それ聞こうとしたら呼ばれた」


「肝心なとこじゃないですか」


「俺に言うなよ」


 美咲が近づいてくる。


「何話してるんです?」


「田所さん」


「まだ言ってる」


「ミンさんも“替わった”って」


「人が変わったって意味でしょ」


「たぶん」


「絶対そう」


 美咲は取り合わない。


 それが普通だった。


 榊原も、普通ならそう思う。


 人が替わった。


 人が変わった。


 言葉としては大差ない。


 午後四時過ぎ。


 撮影を終えて、工場の裏手を通った。


 田所が若いネパール人社員と二人で、重いコンテナを運んでいた。


「そっち持ちますよ」


 田所が言う。


「大丈夫です」


「腰痛めますから」


「田所さん優しくなりましたね」


 若い社員が笑う。


 田所も笑った。


「前は優しくなかったですか?」


「前は怖かったです」


「そうですか」


「今の田所さん、いいです」


 田所は少しだけ首を傾げた。


「ありがとうございます」


 榊原は立ち止まった。


 若い社員は気づいていない。


 田所も気づいていない。


 その会話の中にあった言葉。


今の田所さん。


 榊原だけが、そこに引っかかった。


 ふと視線を上げる。


 事務棟の壁。


 窓の横に、昨日見た標語がある。


『人は、もっと良くなれる。』


 今日はその下に、小さな文字があることに気づいた。


『評価・改善・成長』


 榊原はしばらく見ていた。


「榊原さん」


 藤原が呼ぶ。


「置いてきますよ」


「ああ」


 榊原は歩き出した。


 田所はまだ若い社員を手伝っている。


 前より親切で。


 前より仕事ができて。


 前より周囲から好かれている。


 もし本当に何かが変わったとして。


 それを悪いことだと言えるのだろうか。


 榊原は自分でも変なことを考えていると思った。


 ただの一晩だ。


 人間は変わる。


 そういうこともある。


 そう思いながら、眼鏡を押し上げた。


 その日の夜。


 編集用の仮データをコピーしていた片桐が、不意に言った。


「榊原」


「はい」


「明日、冷蔵庫もう一回撮れるか聞いといて」


「なんで?」


「昨日、奥まで撮れてない」


「画が足りない?」


「いや」


 片桐はモニターを見たまま答えた。


「なんか映っとる」


「何が?」


「分からん」


 藤原が椅子ごと寄ってくる。


「心霊?」


「だったら楽なんだけどな」


 片桐は再生ボタンを押した。


 画面の中。


 白い冷蔵室。


 吊られた肉。


 そのさらに奥。


 ほんの一瞬だけ。


 何か大きなものが揺れた。


 榊原は画面へ顔を近づけた。


「これ……」


 藤原も黙る。


 片桐が映像を止めた。


 画面の端から、


 銀色の、


 大きな尾のようなものが覗いていた。

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