第二章 もっと良く/第一節 社員寮
もっと良く1
第二章 もっと良く
第一節 社員寮
共和食産の社員寮は、工場から歩いて十分ほどの場所にあった。
県道から一本入った住宅地の外れ。三階建ての古い鉄筋コンクリート造で、外壁は数年前に塗り直されたらしく、建物そのものの年季のわりには小ぎれいに見えた。
正面玄関の横には自転車が十数台並び、その半分ほどにはカゴに雨合羽が突っ込まれている。
入口の植え込みには、共和食産の名前が入った小さな看板。
『共和ハイツ』
藤原が見上げた。
「もうちょい名前どうにかならなかったんすかね」
「何が?」
「共和ハイツって。昭和じゃないですか」
榊原が言った。
「建ったの昭和じゃないの」
「じゃあ合ってんのか」
片桐がカメラを肩に載せる。
「お前、音取れよ」
「取ってますよ」
「今マイク下向いとるら」
「あ」
「何しに来たんだ、お前」
「社会勉強っす」
「帰れ」
藤原がマイクを直す。
昨日から、少しだけ静かだった。
田所のことを気にしているらしい。
榊原自身も気になっていた。
ただ、気になるというだけだ。
利き手が違った。
方言が消えた。
態度が変わった。
それだけなら、いくらでも説明はつく。
人間は変わる。
一晩で変わることだって、ないとは言い切れない。
社員寮の玄関で待っていたのは、総務の女性と三枝だった。
「本日はよろしくお願いします」
三枝が頭を下げる。
昨日と同じ穏やかな笑顔。
薄いベージュのシャツに紺のスラックス。工場内とは違って帽子も白衣もない。
「三枝さんも寮なんですね」
美咲が聞く。
「はい。私も住んでいます」
「管理人さんみたいな感じですか?」
「いえ。入居者です。ただ、困り事の相談を受けることが多いので、半分そういう役割もしています」
「じゃあ寮の中で何かあったら三枝さんに?」
「だいたいは」
藤原が言った。
「大変っすね」
「好きでやっていますから」
三枝はそう言って、玄関の鍵を開けた。
中は、ごく普通だった。
狭いロビー。
郵便受け。
掲示板。
少し古いエレベーター。
廊下には、柔軟剤と料理の匂いが混ざっている。
外国語の話し声が、どこかの部屋から聞こえた。
掲示板には、
『資源ゴミの日を守りましょう』
『夜十時以降はお静かに』
『今期評価面談について』
という紙が貼られている。
その横に、
『健康診断対象外者は別日対応』
と書かれた紙があった。
榊原は一瞬目を止めた。
「対象外者?」
三枝が振り返る。
「ええ」
「健康診断に対象外ってあるんですか?」
「事情のある者がいますから」
「持病とか?」
「それもあります」
「それも?」
三枝は笑った。
「詳しくは個人情報です」
「なるほど」
榊原はそれ以上聞かなかった。
取材はまず二階から始まった。
最初に見せてもらったのは、ベトナム人社員の部屋。
六畳ほどのワンルーム。
ベッド。
小さな冷蔵庫。
炊飯器。
壁には家族写真と、ベトナムの風景写真。
テーブルの上に、開きっぱなしの日本語教材がある。
部屋の主は二十代の男性で、緊張しながら美咲の質問に答えた。
「日本に来て何年ですか?」
「四年です」
「共和食産に入って?」
「三年半」
「住みやすいですか?」
「はい。会社、親切です」
「困ったことは?」
「最初、市役所難しかったです」
「誰か助けてくれました?」
「戸崎さん」
美咲が驚く。
「戸崎さん?」
「はい。怖い顔ですけど、優しいです」
榊原は昨日の野良猫を思い出した。
「そうなんですね」
「あと三枝さん」
男性社員は笑った。
「三枝さん、何でも知ってます」
廊下に出たあと、藤原が小声で言った。
「戸崎さん、猫にはあれなのに人にはガチで優しいんすね」
「人にはな」
榊原が答える。
「変な線引き」
「誰でもあるだろ」
「榊原さんは?」
「何が」
「何には優しいんすか」
「仕事できる人」
「最低だ」
藤原が笑った。
次の部屋は、日本人社員の部屋だった。
四十代の男。
元受刑者。
部屋には釣り道具とゲーム機、缶ビールの空き箱。
生活感が強い。
「掃除してくださいね」
美咲が笑う。
「テレビ来るって昨日聞いたんだよ」
「昨日掃除しなかったんですか?」
「これでもした」
「じゃあ普段どうなってるんです?」
「見せられん」
そう言って男も笑った。
撮影は順調だった。
寮生活。
生活支援。
外国人雇用。
前科者の再出発。
画としても使いやすい。
ただ、三階へ上がったあたりから、少しだけ雰囲気が変わった。
一つ目の部屋は、ドアを開けた瞬間に湿気が押し寄せた。
「うわ」
藤原が顔をしかめる。
室内は異常に湿っていた。
窓には薄く水滴がついている。
加湿器が二台。
浴室の扉は開け放たれ、床が濡れている。
「カビません?」
藤原が聞く。
部屋の主である女性社員は、にこやかに答えた。
「除湿してますよ」
「加湿しながら?」
「はい」
「意味あるんすか、それ」
榊原が藤原を肘でつついた。
「失礼だろ」
「いや、だって」
女性は笑った。
「乾燥が苦手なんです」
「肌とか?」
美咲が聞く。
「それもあります」
榊原は、さっき三枝が使ったのと同じ言い回しだと思った。
それもあります。
次の部屋は逆だった。
昼なのに真っ暗。
遮光カーテンが二重に閉じられている。
照明も弱い。
部屋の主の男性は、
「明るいのが苦手で」
とだけ言った。
その次の部屋は、やけに寒かった。
藤原が入った瞬間に肩をすくめる。
「冷房何度っすか」
「十五度です」
「十五?」
「暑いと眠れないので」
「凍えません?」
「慣れますよ」
どれも変わった人の部屋としては成立している。
それだけに、余計に引っかかった。
榊原は廊下へ出てから三枝に聞いた。
「この寮、変わった人多いですね」
三枝は笑う。
「いろんな人がいますから」
「共和食産だから?」
「共和食産じゃなくても、いろんな人はいるでしょう」
「まあ、それはそうですけど」
「会社というのは、違う人間が同じ時間に同じ場所へ来るための仕組みですから」
「なんか難しいですね」
「そうですか?」
三枝は首を傾げた。
そのまま廊下の一番奥まで歩く。
そこで足を止めた。
「ここが私の部屋です」
鍵を開ける。
扉が開く。
榊原は、一瞬、まだ入居前の部屋だと思った。
何もない。
ベッドがない。
テレビがない。
冷蔵庫がない。
棚もない。
壁に写真もない。
床には薄い敷物が一枚。
窓際に大きな水差し。
鉢植えが三つ。
それだけだった。
「……引っ越したばかり?」
美咲が聞いた。
三枝が笑う。
「三年住んでいます」
藤原が部屋の奥まで覗く。
「三年?」
「はい」
「荷物どこなんすか?」
「ここにあるもので全部です」
「服は?」
三枝が壁際の小さな収納を開ける。
シャツとスラックスが数着。
それだけ。
「マジで?」
「物をあまり必要としないので」
藤原は本気で感心している。
「ミニマリストってやつっすか」
「そういう言葉もあるんですね」
「いや、知らないでやってたんすか」
「昔からです」
榊原は窓の方へ近づいた。
南向き。
日当たりがいい。
窓際の鉢植えだけは、やけに元気だった。
「テレビ見ないんですか?」
美咲が聞く。
「たまに食堂で」
「『日本昔ばなし』も?」
三枝は少し笑った。
「昔はよく見ました」
「昔?」
「ええ」
「再放送ですか?」
三枝は答えず、水差しを持ち上げた。
鉢植えの土へ水を落とす。
その仕草が、やけに丁寧だった。
「趣味とかないんですか?」
藤原が聞く。
「ありますよ」
「何すか?」
三枝は考えた。
「皆さんが生活しているのを見ることです」
一瞬、部屋が静かになった。
藤原の顔から笑いが消える。
三枝がこちらを見る。
「ああ、変な意味ではありません」
美咲が笑った。
「ちょっと怖かったです」
「すみません」
三枝も笑う。
「人が暮らしているのを見るのが好きなんです。料理したり、喧嘩したり、テレビを見たり、忘れ物をしたり」
「観察?」
「そうですね」
「なんで?」
三枝は少しだけ窓の外を見る。
「面白いからです」
藤原が榊原の横へ寄る。
「やっぱ変な人っすね」
「お前ほどじゃない」
「俺は普通っすよ」
「それはない」
廊下へ戻る。
そこで藤原が掲示板の前で立ち止まった。
「あれ」
「何?」
榊原も見る。
掲示板には、入居者向けの連絡事項が貼られている。
清掃当番。
ゴミの日。
面談予定。
藤原が一枚の紙を指した。
「田所さん、いなくないっすか」
「何が」
「これ」
今期評価面談の予定表。
榊原は近づいた。
確かに何人もの名前が並んでいる。
昨日、食堂の入口で見たものと同じ形式だ。
田所の名字を探す。
ない。
「もう面談終わったんじゃない?」
美咲が言う。
「昨日、評価通知もらってましたよね」
「なら終わった後じゃないの?」
「通知が終わった後なんじゃ?」
「知らないよ」
榊原が紙へ顔を近づけた。
そのとき、
「あ、それ古いものですね」
背後から総務の女性が言った。
すぐ紙を外す。
「すみません。差し替え忘れてました」
「古い?」
「はい」
「いつのです?」
「先月です」
「田所さん、先月は?」
女性の手が一瞬止まる。
「田所さん?」
「名前がないので」
「ああ」
すぐ笑った。
「対象者だけですから」
「対象?」
「全員面談ではないんです」
「じゃあ田所さんは先月対象外?」
「そうですね」
女性は紙を畳んだ。
藤原が首を傾げる。
「昨日、評価悪いって言ってましたけどね」
女性は藤原を見た。
「評価は毎月変わりますから」
笑顔。
それで会話は終わった。
榊原は何か引っかかったが、何が変なのか説明できなかった。
寮の撮影を終え、玄関へ戻る。
三枝が最後まで見送った。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
美咲が頭を下げる。
「三枝さんの部屋、使わせてもらっても大丈夫ですか?」
「もちろん」
「でも本当に何もないですね」
「困りませんよ」
「私は無理だなあ」
「人によりますね」
三枝は笑った。
玄関を出る。
外は朝より暑くなっていた。
藤原が大きく伸びをする。
「なんか寮ってもっと悲惨な感じ想像してたんすけど、普通でしたね」
「何を期待してたんだ」
「前科者と外国人のタコ部屋」
「それをテレビで言うなよ」
「言わないっすよ」
「思うな」
「思想まで管理しないでくださいよ」
片桐が車の後部を開ける。
「藤原、三脚」
「はいはい」
「一回」
「はい」
三脚を持ち上げようとした藤原が、ふと寮の三階を見た。
「三枝さん、いますよ」
榊原も見上げた。
三階の窓。
三枝が立っている。
カーテンもない窓辺。
こちらを見ているわけではない。
顔を上げ、差し込む陽の光を浴びている。
目を閉じていた。
「日向ぼっこ好きなんすね」
藤原が言う。
「そうだな」
榊原は車へ乗ろうとした。
そのとき、ポケットのスマートフォンが鳴った。
局からではない。
共和食産の広報担当からだった。
『午後の追加インタビューですが、田所浩二さん対応可能です』
榊原はメッセージを読み返した。
昨日の田所。
今朝の田所。
同じ名前。
同じ顔。
「ちょうどいい」
「何がです?」
美咲が聞いた。
「田所さん、午後もう一回撮れるって」
藤原が露骨に嫌な顔をする。
「またあの人?」
「今の田所さんなら感じいいだろ」
「今の、って言い方やめてくださいよ」
藤原は笑いながら言った。
榊原も笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
自分がいつから、
今の田所
と思うようになったのか。
それが少しだけ気になった。




