第四章 人は変われる/第一節 108番目の席
人は変われる1
第四章 人は変われる
第一節 108番目の席
取材を始めて六日目。
ホテルの会議室を一時間だけ借りた。
テーブルの上には、ノートパソコンが二台。
メモ。
録音データ。
社員向けハンドブック。
そして、共和食産からもらった会社案内。
表紙では、作業服を着た社員たちが笑っている。
『食を通じて、人と地域をつなぐ』
六日前なら、何とも思わなかった言葉だった。
今は少し違って見える。
「で」
藤原が椅子の背にもたれた。
「どうするんすか」
誰もすぐには答えなかった。
榊原がパソコンの画面を見る。
昨日までに撮った素材。
久世のインタビュー。
三浦。
戸崎。
三枝。
田所。
社員寮。
冷蔵庫。
特殊営業。
人事制度。
全部ある。
全部つなげれば、とんでもない番組になる。
いや。
番組で済むのかも分からない。
「まず局に報告」
美咲が言った。
「したところで信じます?」
藤原が返す。
「映像あるじゃん」
「尾っぽだけ」
「社長の音声も」
「人魚がいるって、はっきり言ったわけじゃないですよ」
榊原が言う。
「“その呼び方をする方もいます”」
「十分でしょ」
「ネットだったら十分。報道だと弱い」
「じゃあ人事制度は?」
「もっと弱い」
「本人たち認めてるじゃないですか」
「入れ替わりって言葉を、局の人間がどう受け取ると思う?」
藤原が口を閉じる。
榊原は続けた。
「配置転換か何かだと思われる。顔が同じ田所を見せて、“別人なんです”って言っても、誰が信じる」
「じゃあ何も出せない?」
美咲が聞く。
「そうは言ってない」
「またそれ」
「何が」
「まだ決めてない」
「決めるために話してるんだろ」
片桐がコーヒーを飲む。
「俺は、出すなら全部出した方がいいと思う」
三人が片桐を見る。
榊原も意外だった。
「片桐さん、出す派?」
「中途半端が一番危ないら」
「でも証拠が」
「証拠じゃない」
片桐はテーブルの上の会社案内を指で叩いた。
「出した後の話」
「後?」
「人魚だけ出したら、見世物になる。人肉だけ出したら、殺人会社になる。入れ替わりだけ出したら、怪談だ」
「じゃあ全部?」
「全部出しても、たぶん誰も理解せん」
「意味ないじゃないですか」
「そういうことだ」
藤原が眉を寄せる。
「じゃあ片桐さんは、出すなってこと?」
「俺はカメラだで。決めるのは榊原」
榊原が顔をしかめる。
「ずるいな」
「四十九まで生きとると、ずるくもなる」
美咲が資料を閉じた。
「私は、普通の会社紹介でいいと思う」
藤原が顔を上げる。
「マジで?」
「だって、嘘じゃないじゃん」
「人魚隠すのに?」
「全部放送する義務なんてないでしょ」
「でも」
「三浦さんが仕事もらったのも本当。外国人の人が生活支援受けてるのも本当。戸崎さんが面倒見いいのも本当。子ども食堂に肉出してるのも本当」
「その肉が何か分かんないでしょ」
「そこは普通の肉だって確認したじゃん」
「……まあ」
「共和食産が地域でいいことしてるのは、全部本当なんだよ」
美咲は少し間を置く。
「怖いことも本当だけど」
榊原は黙って聞いていた。
「私、あの会社を悪い会社って撮れない」
美咲が言う。
「良い会社とも言い切れないけど」
「それが一番面倒なんですよ」
藤原が言った。
「悪者なら楽なのに」
「そうだね」
美咲は頷く。
榊原は久世を思い出した。
人も虫も、一つの命。
牛だって食べられたくない。
嫌であることと、許されないことは別。
狂っている。
そう思う。
でも。
自分たちは牛を食べる。
豚も。
魚も。
その線の向こうに人間を置いているだけだ。
久世はそこへ線を引いていない。
理解はできない。
否定し切れる自信も、榊原にはなくなっていた。
「榊原さんはどうなんすか」
藤原が聞いた。
「出したいでしょ」
「……出したい」
「ほら」
「でも、出したい理由が正しいか分からない」
藤原が少し驚いた顔をする。
「珍しいっすね」
「何が」
「榊原さんがそういうこと言うの」
「お前、俺を何だと思ってんの」
「自分が正しいと思ってる人」
「お前な」
「ほら」
藤原は笑わなかった。
「そこですよ」
会議室が少し静かになる。
榊原も言い返さなかった。
昨日、久世と何を話した。
藤原は教えない。
ただ、そこから少しだけ態度が変わった気がした。
気のせいかもしれない。
「一回、会社に確認したい」
榊原が言った。
「何を?」
「放送範囲」
藤原が呆れる。
「許可取るんすか」
「違う。反応を見る」
「また行くんだ」
「今日が最終取材日だろ」
「俺、もう冷蔵庫行かないっすよ」
「行かない」
「人事も」
「行かない」
「特殊営業も」
「行かない」
「じゃあ何するんすか」
榊原は資料を閉じた。
「最後に、普通の会社を撮る」
共和食産へ着くと、ちょうど昼前だった。
工場前では社員たちが地域清掃をしていた。
黄色いベスト。
火ばさみ。
ゴミ袋。
道端の空き缶や煙草の吸い殻を拾っている。
カメラを向けても、大げさにポーズを取る者はいない。
いつものことらしい。
戸崎が側溝からペットボトルを拾い上げる。
「こんなとこ捨てんなよなあ」
隣の若い社員が笑う。
「戸崎さん、昔もっと悪いことしてたでしょ」
「だから今ゴミ拾っとるだら」
「帳消し?」
「なるわけねえじゃん」
戸崎は笑った。
「なるなら毎日拾うわ」
片桐のカメラがその横顔を撮る。
少し離れた場所で、三枝が植え込みに絡んだビニールを外している。
茶トラ猫がついて歩いている。
「三枝さん」
美咲が声をかける。
「その猫、完全に懐きましたね」
「そうですね」
「飼わないんですか?」
「本人がここがいいようなので」
「本人?」
三枝が猫を見る。
「この方が」
美咲が笑う。
「猫にも“方”なんですね」
「猫ですから」
「理由になってないですよ」
三枝も笑った。
何でもない風景だった。
この男が植物に近い生き物で。
人を食べたことがある。
そう知っていても。
画面の中では、ただ優しい社員にしか見えない。
榊原は少し離れてそれを見ていた。
「榊原さん」
声をかけられる。
三浦だった。
作業着姿。
髪を一つに束ねている。
「今日で終わり?」
「一応」
「やっと静かになる」
「そんな邪魔でした?」
「カメラあると面倒」
「三浦さん、変わらないですね」
「何が」
「愛想」
「悪いですか」
「悪い」
「知ってます」
三浦は笑った。
少しだけ。
「でも、最初より仕事してますよ」
「カメラ?」
「仕事」
「ああ」
三浦が顔をしかめる。
「最近うるさいんですよ」
「何が?」
「評価」
榊原は表情を変えなかった。
「評価悪い?」
「遅刻」
「何回?」
「何回か」
「協調性は?」
「それも」
「改善意欲」
三浦が榊原を見る。
「なんで知ってるんです?」
「取材したから」
「人事まで?」
「はい」
「暇ですね」
「仕事です」
「そればっか」
どこかで聞いた。
藤原にも。
久世にも。
何度も言われた。
「改善指導、受けてるんですか」
「受けてますよ」
三浦は面倒そうに答えた。
「朝ちゃんと来い。返事しろ。新人に怖い顔するな。報告書ちゃんと書け」
「普通の注意ですね」
「だから面倒なんですよ」
「直せばいいのに」
三浦が笑う。
「榊原さん、人に直せって言うの好きですね」
榊原は黙った。
「藤原君にも言ってるでしょ」
「聞いたんですか」
「見てれば分かる」
「じゃあ三浦さんも五分早く来たら?」
「嫌です」
「なんで」
「五分寝たいから」
即答。
榊原は少し笑った。
「入れ替わりのこと、知ってますよね」
三浦の表情は変わらない。
「知ってますよ」
「怖くない?」
「別に」
「対象になるかもしれないのに?」
「なるかもしれないですね」
「平気なの?」
三浦はゴミ袋を持ち直した。
「替えたきゃ替えればいいじゃん」
「……本気?」
「会社が決めることでしょ」
「自分がいなくなるんですよ」
「だから?」
「だからって」
三浦はしばらく榊原を見た。
それから、少し面倒そうに息を吐く。
「榊原さん」
「はい」
「ここじゃみんな、自分がずっと自分だと思いすぎなんですよ」
榊原は眉を寄せた。
「どういう意味」
「昨日の自分と今日の自分、同じですか?」
「同じでしょ」
「何が?」
榊原は答えられなかった。
「身体? 記憶? 名前?」
三浦が笑う。
「人事の人みたいですね、私」
「そういう研修あるんですか」
「ないですよ」
「じゃあなんで平気なんだ」
「平気じゃないかもしれない」
「どっち」
「その時にならないと分からない」
三浦はゴミ袋へ空き缶を放り込んだ。
カラン、と音がする。
「でも」
「はい」
「前の田所さんより、今の田所さんの方が好きです」
榊原は田所の方を見る。
少し離れたところで、ごみ袋が破れた外国人社員を手伝っている。
笑顔。
丁寧な話し方。
「だから?」
「だから別に」
三浦は歩き出す。
「いいじゃないですか。みんな困ってないなら」
「前の田所さんは?」
三浦が振り返る。
「困ってたんじゃないですか」
「何に」
「自分に」
それだけ言って、清掃へ戻っていった。
榊原はその場に残った。
藤原が遠くから呼ぶ。
「榊原さーん!」
「何!」
「社長、今いいって!」
「分かった!」
久世とは、事務棟の外にあるベンチで話した。
今日は撮影しない。
ただの確認。
「放送内容についてですが」
榊原が言う。
「はい」
「どこまで出していいんですか」
「御社の判断で」
「本当に?」
「違法な撮影をされたわけではありませんので」
「冷蔵庫は撮影禁止でしたよね」
「禁止後の映像はないと伺っています」
「はい」
「なら問題ありません」
「人魚の話も?」
「構いません」
「入れ替わりも?」
「構いません」
「人肉も?」
「事実関係が正確であれば」
榊原は笑った。
「止めないんですね」
「なぜ止める必要がありますか」
「会社潰れますよ」
「そうでしょうか」
「全国から人が来る。マスコミ。警察。変な連中も」
「そうかもしれません」
「怖くない?」
「面倒ではあります」
「じゃあ止めればいい」
「榊原さん」
久世は穏やかに言った。
「私たちは、存在してはいけないことをしているつもりはありません」
「法律じゃなくて」
「法律もです」
「世間ですよ」
「世間は変わります」
「簡単に言いますね」
「簡単ではありません」
「ならなんで」
「長くやっていますから」
久世は工場を見る。
「祖父の頃も。その前も。世間の方が何度も変わりました」
榊原はその横顔を見た。
「会社は変わらない?」
「変わっていますよ」
「108人は変わらない」
久世が少し笑う。
「よく気づかれましたね」
「理由、教えてください」
「分かりません」
「本当に?」
「本当です」
「契約とかじゃない?」
「さあ」
「人事課長、反応してましたけど」
「村瀬さんは怖がりですから」
「何を?」
「数字を」
久世は笑った。
榊原は追及しようとしたが、やめた。
もういい。
108の理由まで説明されたら、逆にこの会社を理解した気になってしまいそうだった。
「現在も108人?」
「はい」
「昨日も?」
「はい」
「今日も?」
「はい」
「誰か辞めても?」
「補充します」
「入れ替わっても?」
「108名です」
席。
片桐が言っていた。
会社が守っているのは、本人ではなく席。
榊原は工場の方を見る。
三浦がいる。
田所がいる。
三枝。
戸崎。
ミン。
百八。
「社長」
「はい」
「もし、百九人になったら?」
久世は少し考えた。
「なりません」
「じゃあ107人」
「なりません」
「一時的にも?」
「採用手続き上の誤差はありますよ」
「そういうことじゃない」
「榊原さん」
久世が笑う。
「数字に意味を持たせすぎです」
「あなたが言う?」
「私は定員だと思っています」
「本当に?」
「はい」
久世は腕時計を見る。
「そろそろ午後の作業が始まります」
立ち上がる。
「取材、お疲れさまでした」
「まだ放送決めてません」
「楽しみにしています」
「怖くないんですか」
「何がです?」
「俺たちが全部出すこと」
久世は少しだけ首を傾げた。
「良い番組になればいいですね」
その言い方が、榊原には最後まで分からなかった。
午後。
最後のインタビューとして、三浦をもう一度撮ることになった。
最初の取材と同じ社員食堂。
同じ椅子。
「また私?」
「最後に一言だけ」
「一言で終わったことないでしょ」
「今日は本当に」
片桐がカメラを回す。
美咲が質問する。
「共和食産で働いて、何か変わりましたか?」
三浦は少し考えた。
「別に」
全員が笑った。
「最初と同じじゃないですか」
「だから変わってないんですよ」
「でも、前より生活は安定した?」
「まあ」
「盗みは?」
「してません」
「刑務所には?」
「行ってません」
「それ、変わったって言いません?」
三浦が少し考える。
「そうかもしれないですね」
「会社のおかげ?」
「半分」
「残り半分は?」
「私」
「いいですね、それ」
「使うんですか?」
「使います」
「勝手にどうぞ」
美咲が最後に聞いた。
「これからどうなりたいですか?」
三浦はしばらく黙った。
「普通でいいです」
「普通?」
「働いて」
一拍。
「金もらって」
少し笑う。
「帰る。それだけ」
片桐がカメラを止めなかった。
榊原も何も言わなかった。
最初の取材とほとんど同じ言葉だった。
なのに。
今日は少し違って聞こえた。
「ありがとうございました」
撮影終了。
三浦が立ち上がる。
「これで終わり?」
「はい」
「じゃあ、もう来ない?」
「放送後に挨拶くらいは」
「いいですよ、来なくて」
「冷たいな」
「仕事増えるんで」
「俺らが?」
「カメラあると掃除増えるから」
藤原が笑った。
「それは分かる」
三浦が藤原を見る。
「藤原君、最初よりちゃんとするようになったね」
「マジすか」
「最初ケーブル踏んでたじゃん」
「見られてた」
「みんな見てるよ」
「評価上がりました?」
冗談。
三浦が笑う。
「どうだろ」
「俺、替えられたくないなあ」
「共和の社員じゃないでしょ」
「あ、そっか」
皆が笑った。
榊原だけ、少し遅れて笑った。
取材機材を片付け、工場を出た。
三浦は仕事へ戻った。
その背中を見たのが、
四人にとって、
最初の三浦亜紀を見た最後になった。
三日後。
局へ戻った榊原のもとに、共和食産から一通のメールが届いた。
『取材対象者の人事異動について』
短い本文。
『三浦亜紀は本人都合により退職いたしました。放送済み・収録済み映像の使用については、本人の事前同意の範囲内で問題ございません。』
榊原は画面を見つめた。
退職。
本人都合。
それだけ。
すぐ共和食産のホームページを開く。
採用情報。
会社概要。
従業員数。
百八名。
変わっていない。
榊原は電話を取った。
人事課。
村瀬につながる。
「三浦さん、辞めたんですか」
『はい』
「本当に?」
『どういう意味でしょう』
「入れ替わりじゃなく?」
一瞬。
『個人情報です』
「じゃあ、今も108人?」
『はい』
「三浦さんが抜けたのに?」
『補充しております』
「誰が?」
『社員情報になりますので』
「三浦さんの席に?」
沈黙。
「村瀬さん」
『榊原さん』
「はい」
『席、という言い方を覚えてしまいましたね』
榊原は何も言えなかった。
『それでは』
「待って」
『はい』
「三浦さん、今どこにいるんです?」
『どちらの三浦さんでしょう』
電話が切れた。
榊原は受話器を耳に当てたまま動かなかった。
しばらくして、
ゆっくり机へ置く。
パソコンの画面。
共和食産株式会社。
従業員数。
108名。
一人辞めた。
それでも。
席は、
一つも空いていなかった。




