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第25話 人生で一度は言ってみたいセリフ

 気づけば、茶を三杯おかわりしていた。


 話題はいつのまにか、こちらの世界から離れていた。


「国語の山センさ、『いいか、よく聞け』って言ってから黙るじゃん。あれ何?」


「間を取ってるんだと思う」


「長いんだよ、間が」


「長いね」


「学食、何が一番はずれだと思う?」


「……日替わり」


「久世さん分かってるー!」


「陽向さんもそう思う? 量は多めで、出てくるのも速いから、男子には人気みたいだけど」


「そう! 味だけが博打なんだよ」


 去年の体育祭の朝に寝坊した話にもなった。


「起きたら十時でさ。全速力で行ったら、私の出る競技、全部終わってたの」


「全部?」


「全部。……あ、マラソンは出たかも。全力の通学マラソン」


 遥は、思わず笑ってしまった。


 自分がこんなに続けて喋ったのを、思い出せなかった。


「ねえ、人生で一度は言ってみたいセリフってあるじゃん?」


「あるのが当たり前みたいに言うね」


「あるでしょ! ランキングもあるよ」


 陽向さんが指を二本立てた。


「第二位。『これってもしかして……異世界召喚ってやつ〜!?』」


「……ピンと来ないけど。あ、もしかして、それを言ったって話?」


「言った。着いた日に。返事してくれたの、犬だけだったけど」


 悔しそうで、少し誇らしそうだった。


「で、第一位は」


「言わない」


「え」


 陽向さんが、真剣な顔になった。


「まだ言えないの。使う場面が来てないから」


「場面」


「うん。一番かっこいい場面」


「……そんな場面、一生来ないから」


「第二位は来たもん」


 言い返せなかった。


「そのときが来たら、絶対言う。……だから、止めないでね」


「……危ないやつじゃないよね」


「危なくないよ」


「本当に?」


「……たぶん」


「たぶん」


 陽向さんは笑って、それ以上は言わなかった。


「久世さんってさ」


 陽向さんが頬杖をついた。


「話す前と全然イメージ違う」


「……そう?」


「もっとこう、近寄るなオーラ出てる人かと思ってた」


「出てたと思う」


「自覚あるんだ」


「あるよ」


 遥は湯呑みの縁を見た。


「陽向さんも」


「え、何?」


「気を悪くしたら、ごめんなさい」


「うん?」


「……もっと、怖い人かと思ってた」


 陽向さんが噴き出した。


「怖い!?」


「明るくて、友達が多くて、輪の真ん中にいる人。ああいう人ほど、私みたいなのを外から見て、値踏みしてるんだと思ってた」


「してないよ!?」


「うん。今は分かる」


 陽向さんは少し黙って、それから笑った。


「じゃあ、お互い誤解じゃん」


「そうみたい。……オーラは、出てたけどね」


「それは出てた。……よし。じゃあさ」


 身を乗り出してくる。


「その『陽向さん』ってやめない?」


「え」


「夏帆でいいよ」


「……夏帆さん」


「夏帆!」


「……夏帆」


 遥は、視線を落とした。


 たった二文字。


 ただ同級生を名前で呼んだだけなのに、顔が少し熱い。


 名字で呼ぶのは、距離を測らなくていいから楽だった。名前を呼ぶというのは、その距離を自分から詰めるということだ。


「よし!」


 陽向さん――いや、夏帆が満足そうに頷いた。


 遥は顔を上げた。


「じゃ、じゃあ、私も……その……」


 そこから先が出てこない。


 自分だけ名前で呼ぶのは変だ。同じように呼んでもらいたい。


 ただ、それだけ。


 ――私のことも、遥って呼んで。


 その一言が、喉の手前で止まっている。


 あの夜、燃える橋の前で、私は知らない将軍に向かって「橋……全部、壊さなくてもいいんじゃないでしょうか」と言えた。七百八十一人の命がかかっていたから、言えた。


 なのに、こんな窓際の席で、たった一言が出てこない。


 命がかかっていない言葉の方が、どうしてこんなに重いんだろう。


 夏帆は数秒、遥の顔を見て、それから、気づいたように口を開いた。


「……遥?」


 喉の手前で止まっていた言葉が、向こうから届いた。


 頷くこともできずにいると、夏帆が笑った。


「私も、遥って呼ぶね!」


「……うん」


 小皿に残った最後の一つへ、二人とも手を伸ばした。


 ほぼ同時だった。指がぶつかりそうになって、両方が少し引っ込めた。


「遥、顔赤くない?」


「夏帆のせいでしょ……」


「え、私!?」


 名前で呼び返したことに気づいて、遥はさらに赤くなった。



     *



「そうだ」


 夏帆が卓を叩いた。


「名前つけよう。オルネに」


「いらない」


「いる。かっこいいから!」


 夏帆は湯呑みの縁で指を濡らし、卓に字を書いた。


 観測。


「遥のは、観るの観を、完璧の完にして――」


 一文字目を書き直すと、夏帆はすっと背筋を伸ばし、濡れた指先をこちらへ突きつけた。


 顔つきまで、急に凛々しい。


 決め顔、というものを、初めて間近で見た。


「完測《ラプラス》」


 言い終えても、ポーズは崩れなかった。こちらの反応を、当然のように待っている。


「……かんそく」


「それじゃ観測と同じ音じゃん!」


「同じでいい」


「ラプラスの悪魔だよ? 全部見えてる系の代名詞!」


「あれは未来まで計算できる方。私のは、今そこにあるものだけ」


「細かいなあ、軍師のくせに」


「軍師じゃない」


「で、私のは聴く系……」


 濡れた指が、卓に二文字を書く。


「盗聴」


「犯罪」


「だよね」


 夏帆は笑って、その字を手のひらで拭った。拭い方が、少し強かった。


「盗み聞きは、やだな。……聴診」


「お医者さん」


「傾聴!」


 今度の二文字は、丁寧に書いた。


「話を最後まで聴くこと。言いにくそうな人がいたら、待つの」


 ――知っている。


 今日、私がこんなに喋っているのは、夏帆が、ずっとそうしてくれていたからだ。


 夏帆が、親指でそっと「傾」を消した。同じ場所へ、別の字を書く。


「景色の景。――景聴《クオリア》!」


「……けいちょう」


「また元の音に戻した!」


「なんで景色なの」


「聴こえるとき、声っていうより景色なんだもん。怖いとか、帰りたいとかが、いっぺんに広がってて」


「クオリアの意味、分かってる?」


「そこは雰囲気!」


 赤を見たときの、赤さ。痛いときの、痛さ。本人にしか分からない、感じ方そのもの。


 七百八十一人。数は、視えた。一人ずつがどれほど怖かったかは、視えなかった。


 夏帆が聴いているのは、たぶん、そっちだ。


「ちなみに覚醒したら、森羅完測《ラプラス・パーフェクト》と森羅景聴《クオリア・フルバースト》ね」


「覚醒しないから」


「するって」


 覚醒するかしないかを、真顔で言い合っている。


 そんな自分が、少し可笑しかった。


 卓の字が、端から乾いて薄れていく。


 窓の外で、日が傾き始めていた。


 東部へ向かう乗合馬車を探さなければならない。


 もう一度、来てしまった。


 今度は、一人ではない。

ラプラスの悪魔は、世界の今の状態を全部知っていれば未来まで計算できる、という仮想の知性です。遥のものは、今そこにあるものしか視えません。

クオリアは、赤を見たときの赤さのような、本人にしか分からない感じ方のことです。夏帆は雰囲気で付けていますが、意外と合っています。

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