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第22話 だいじなもの

 二人同時に振り向いた。


 紳士がいた。


 銀縁の眼鏡。灰色がかった髪。濃紺のベスト。


 どこから現れたのか、遥には分からなかった。足音は、確かに聞こえなかった。


「いた!」


「……本当にいた」


「おや。お二人で」


 まるで、そうなることを知っていたかのような口調だった。


「あの地図帳は」


「こちらですかな」


 机の上。


 そこには、さっきまでなかったはずの地図帳があった。


 遥は自分の記憶を疑わない。あの机は、ついさっき二人で見た。何も載っていなかった。


「行こう」


「待って」


 遥は紳士を見る。


「これは何なんですか」


「地図帳でしょう」


「そういう意味じゃなくて」


「では、どういう意味でしょう」


「どうして私たちが触ると――」


 紳士は答えなかった。


 代わりに、ページを開く。


 乾いた紙の音が、静かな部屋によく通った。


 セルディア王国。


 東側の国境線が、以前より内側へ入り込んでいる。


「……動いてる」


「え?」


「国境」


 陽向さんも覗き込む。


「あ……」


 初めて気づいたらしかった。


 負けた結果が、そのまま紙の上に残っている。


 ずれは、指の幅ほどしかない。その幅の中に、誰かの暮らしていた村がある。


「これ……私がいたときの?」


「たぶん」


 陽向さんが地図を見つめる。


「……戻したい」


「陽向さん?」


「これ、戻したい」


 紳士が、二人を眺めていた。


 急かしもしないし、勧めもしない。ただ、そこにいる。


「先生」


 陽向さんが呼ぶ。本人の前では、先生らしい。


「これ、触っていいんですよね?」


「もちろん」


「また行ける?」


「私には、分かりかねます」


「じゃあ、なんで出したの?」


 紳士が、少し笑った。


 指先が地図帳へ触れる。


「あなたがたが必要な本だと、そう思いましたので」


 その言い回しに、遥は一瞬、引っかかった。


 あなたがたが必要としている本。そう聞こえる。


 けれど、そう言われた気がしなかった。


 考える前に、陽向さんが振り向いた。


「行こう、久世さん」


「……うん」


 二人が同時に、地図へ触れた。



     *



 白い光が消えたとき、遥の足元には石畳があった。


 見覚えのある町ではない。それでも、家々の造りも、道を行き交う人の服装も、知っている。煤と、香辛料と、乾いた石の匂い。


 鼻が先に、ここがどこかを思い出した。


 戦場ではない。


 まず、そこに安心した。


 東から国境を越えられたはずの国で、ここはどのあたりの町なのだろう。


 地図帳のページを思い出しながら、通りの先へ、意識を向けてみる。


 家並みの切れ目。その向こうの、低い丘。


 ――稜線まで、四・一キロ。


 視えたのは、そこまでだった。あの地図が正しければ、王都からはずいぶん東で、国境までは、たぶんまだ遠い。


 こめかみが、軽く軋む。


 その軋みが、少し懐かしかった。


 数字が出て、頭が痛くなる。この面倒な感じごと、あの半月は自分のものだった。


 本当に、戻ってきたのだ。


「戻ってきた……!」


 隣で陽向さんが両手を広げた。その声が思ったより大きく、通行人が何人か振り返る。


「陽向さん。目立つ」


 遥は、声を抑えて叫んだ。


「だって二回目だよ? 二周目だよ?」


「それ、ゲームか何かの表現?」


 言いながら、遥は自分の身体を確かめた。


 さきほどまで着ていたはずの制服ではなくなっている。


 白いブラウスに濃紺の胴衣。焦茶の革帯。足首まである濃紺のスカート。肩には黒の長外套。


 あの日、王城の窓辺で着ていたものが、そのまま戻っている。裾の擦れた跡も、袖口の鈍い金の意匠も、記憶と寸分違わない。


 腰の袋を探る。王都で、軍師の手当だと渡された硬貨。数も、たぶん同じ。


 そして、腕に抱えた布の束。


 畳んだままの、レオンの外套。


 返せていない。


 あの日、突然帰ってしまったから。


 それが、当たり前のようにここにある。


「鞄もある」


 陽向さんが、こちらの手元を覗いた。


 通学鞄。中を開ければ、教科書と筆箱と、スマートフォン。


 画面を点ける。圏外。電池は七十二パーセント。


 昨日の夜に充電してから、今日一日で減った分の数字だ。


「私のも圏外。知ってた」


 陽向さんが自分のスマートフォンを掲げた。


 遥は、別の数字を思い出していた。


 こちらで最後に見た数字は、四十一だった。道を歩いていた頃に電源を切って、それきり点けなかった。


 帰った日、図書室で時間を確かめたときも、画面は四十一のままだった。


「……前に帰ったとき、泥だらけだった制服は、きれいに元どおりだったの。なのに電池は、こっちで減った分が、そのままだった」


「私のは、八割のままだったけどな。……あ、向こうで電源切ってたんだった」


「ってことは」


 陽向さんの目が、ゆっくり見開かれた。


「写真、撮れる?」


「あ」


「異世界の写真が、現実に残るってこと!?」


「……たぶん?」


 陽向さんはスマートフォンを構え、石畳の通りを一枚撮った。空を見上げて、もう一枚。


 遥も横から画面を覗いた。


 石造りの家並み。軒先に揺れる看板。薄く雲のかかった空。


「……海外旅行の写真じゃん」


「そうだね」


「これ見せて『異世界です』って言っても、誰も信じないよね」


「たぶん」


 陽向さんは少し考えてから、電源ごと落とした。


「写真はいいや。電池減るの怖いし」


「ていうかさ」


 陽向さんが自分の髪に触れる。


「これも、ちゃんと来てる」


 ポニーテールを留めている、細い紐だった。


「身につけてるものは、来るのかも」


「眼鏡とかコンタクトも?」


「たぶんね。そうじゃないと、転移した瞬間に困る人がいるよね」


「世界、意外と親切設計」


「設計者がいるみたいに言うね」


 言ってから、遥は少し引っかかった。


 あの紳士。あの地図帳。二人が同時に触れた瞬間の、あの光。


 ただの自然現象だと思う方が、むしろ不自然なのかもしれない。


「でも変」


 陽向さんが外套を指した。


「それ、久世さんの?」


「……借り物。返せないまま、帰っちゃったから」


「なんで来てるの? 私の髪留めは分かるよ。毎日つけてるもん。でもそれ、人のでしょ?」


 遥は畳まれた布を見た。


 王都に着くまでの数日、腰に巻いていた。裂けたスカートを隠すために。


 返さなければいけない、とずっと思っていた。帰り際も、それが心残りだった。


「……返さなきゃ、って思ってたから、かな」


「『だいじなもの』も持ち越せるってことかも」


「それもゲームか何かの表現?」


 言いながら、少し落ち着かなくなった。


 毎日身につけているもの。


 どうしても手放せないと思っているもの。


 この世界へ持ち込めるのは、たぶん、そういうものだ。


 だとすれば、私はこの外套を、そういうものとして扱っていることになる。


 ……返すためだから。


 自分にそう言い聞かせて、遥は外套を畳み直し、鞄へ押し込んだ。

RPGの持ち物には、売ることも捨てることもできない分類があります。「だいじなもの」です。

この回で持ち込めたのは、毎日つけている髪留めと、返せないままの外套でした。

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