表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/8

第7話 名前が届く場所

 名護の朝は、海から吹き付ける湿った風が校舎の隅々にまで入り込み、古い木造の床や壁に重たい湿気を吸わせる。

 比嘉湊ひが・みなとは、一校時が始まる前の静まり返った図書室にいた。

 窓から差し込む光は、埃を黄金色に浮かび上がらせ、古い紙と糊、そして微かなカビの匂いが混じった独特の空気を照らしている。湊はカウンターの奥にある古いデスクトップパソコンの前に座り、マウスを動かしていた。


 指先が、わずかに震える。


 画面に表示されたのは、昨夜思い出した、あのデジタルアーカイブのフォルダだ。

 湊は、その中の二年前とラベルが貼られた写真を、迷うことなく選択した。

 画面が明るくなり、そこに二年前の仲村美咲なかむら・みさきが、まばゆいほどの鮮明さで現れた。

 図書室の窓際。西日に照らされ、上原紗奈うえはら・さなと並んで座っている。美咲は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐにカメラを向き、ピースサインを作っていた。


 鼻は少し低く、肌の質感も年相応だ。

 今のSNSに溢れている完璧な美少女ではない。

 けれど、その瞳には確かに光が宿っていた。

 自分の名前で呼ばれ、自分の顔でそこにいてもいいのだという、当たり前の安心感。

 湊は、その笑顔を見て胸が締め付けられるような感覚に陥った。


 カバンの中で、ノートが冷たく震えた。

 開かなくても分かる。

 刻印の黒いひびが、また広がっている。

 それは今も美咲のマブイ(魂)を刻み、彼女が自分自身を消し去るのを待っている。


「ここが、あんたの帰る場所なんだな……」


 湊は低く呟いた。

 だが、ただ写真を見せるだけでは足りない。

 マブイロストを止めるには、その名前を呼び、帰るべき場所を指し示す声が必要だ。

 湊はパソコンの電源を落とし、図書室を出た。


 ◇


「……え、美咲が?」


 校舎裏のガジュマルの木。湿った海風が葉を揺らす音が、遠い波鳴りのように低く響く。

 上原紗奈は、戸惑ったように湊を見つめた。

 湊の隣には、神妙な面持ちの宮城ひかりと、落ち着かない様子で周囲を窺う新里風太しんざと・ふうたがいる。


「ああ。仲村さんの様子がでーじ(大変)変なんだ。紗奈なら知ってるだろ。彼女が最近、ずっとスマホを離さないこと」


 ひかりの掌が、微かに熱を帯びた。空気がかすかに焦げるような、鉄の匂いがする。

 紗奈はうつむき、制服のスカートをぎゅっと握りしめた。


「知ってる。……知ってるよ。でも、なんて声かければいいか分からなくて。美咲のSNSの投稿、いつもいいねはしてた。でも、本当は分かってたんだ。あれ、美咲が無理して笑ってる顔だって」


 紗奈の声が、風にかき消されそうになる。


「可愛いってコメントすればするほど、美咲が遠くなる気がしてた。……本当はね、スクショが回って笑われてるのも知ってたの。なのに、私、何も言えなかった。関わって、私も一緒に笑われるのが怖かったから」


「紗奈、自分を責めないでよ」


 ひかりが紗奈の肩に手を置く。

 その掌から伝わる異様な熱に紗奈は一瞬身をすくませたが、ひかりの真剣な眼差しに気圧されて動けなかった。


「でも、今の美咲さんはもっと怖いことになってるの。名前を呼んでも、届かないの。……美咲さんが、自分の名前を、自分自身を嫌いになっちゃってるから」


「……マブイって何? スマホの中に閉じ込められるって、どういうこと?」


 紗奈は顔を上げ、湊たちを疑わしげに見つめた。

 当然の反応だった。湊は、昨夜の比嘉トヨから聞いた話を反芻はんすうした。


『名前は道さ。でも、道だけあっても帰れん時がある。帰る場所を、その人が怖がっていたらね。その名前で呼ばれても、ここにいていいと思える声が必要さ』


 湊は、紗奈の瞳を真っ直ぐに見た。


「信じなくていい。でも、仲村さんが苦しんでるのは本当だろ。俺たちはあいつを助けたい。そのためには、紗奈、あんたの声が必要なんだ。あいつが、自分の顔を隠さずに笑えてた頃を知ってる、あんたの声が」


 湿った空気が、四人の間を重たく通り過ぎる。

 紗奈はしばらく沈黙した後、震える声で答えた。


「……謝りたいの。美咲に、嘘ついてたこと。私にできることがあるなら、やるよ」


 ◇


 放課後。

 不気味な静寂が校内を包んでいた。

 保健室で保護者の迎えを待っていたはずの美咲の姿が、忽然こつぜんと消えていた。


「湊! これ、見て!」


 風太が、自分のスマートフォンの画面を突き出す。

 異常な速さで通知が重なり、スピーカーからはハウリングのような高い音が漏れている。美咲のアカウントから、支離滅裂な投稿が一斉に行われていた。


「ノートが冷たい。……たぶん、あっちだ」


 湊のカバンの中で、ノートが冷たく震えた。

 開かなくても分かる。刻印の黒いひびが、また広がっている。


 湊は廊下の奥を見た。図書室の方から、電子的なノイズが漏れている。

 湊たちは廊下を走った。四月の湿った空気が、肌にべったりとまとわりつく。


 図書室の扉の前に立った瞬間、電子的なノイズが耳の奥を掻きむしった。

 扉の隙間からは、粘り気を帯びた黒い霧のようなものが、生き物のように這い出している。

 湊が扉を押し開けた。


 室内は、昼間だというのに夜のように暗かった。

 窓の外の夕日が、不自然に白い月と重なり、赤黒い光が本棚の影を鋭く引き伸ばしている。

 図書室の中央。美咲はあの窓際の机で、うずくまるように座っていた。


 十数台の古いデスクトップパソコンが、不規則なリズムで青白く明滅を始める。

 そのすべての画面に、同一の投稿用の美咲が映し出されていた。歪んだ笑顔。焦点の合わない瞳。


『その顔は、もういらない』

『私がいればいい』


 画面の中から発せられる声は、電子的で、感情を剥ぎ取った冷酷な音声だった。

 美咲は耳を塞いで、床に崩れ落ちた。彼女が握りしめるスマートフォンの裏にある月のつきのあとが、不気味に白く発光している。


「紗奈、今だ! 名前を呼んで!」


 湊が叫ぶ。

 その瞬間、本棚から無数の文字が黒いインクの奔流となって溢れ出した。


『別人』『詐欺』『実物見せろ』


 罵倒の言葉が、黒い火花を散らしながら、湊たちへ向かって降り注ぐ。


 ◆


「湊、危ない!」


 ひかりが前に飛び出した。


 掌が、内側から熱を帯びる。

 今度は、握り込まなかった。


「怖いよ。……怖いけど。これは、燃やすための火じゃない」


 震える指先に、赤橙色の小さな火が灯った。


 それは図書室を焼き払う炎ではない。

 黒い影を消し飛ばす力でもない。


 紗奈の声へ伸びる黒い文字を、ほんの少しだけ弾くともしびだった。


 黒い火花が、ひかりの指先で弾ける。

 熱い。

 けれど、痛みよりも恐怖の方が大きい。


「何、これ……ひかりさん、今の……」


 紗奈が床にへたり込む。

 彼女の目には、降り注ぐ文字よりも、ひかりの指先に灯った火の方が信じられないものに映っていた。


 ひかり自身も、泣きそうな顔で自分の手を見ていた。

 それでも、手を下ろさなかった。


「紗奈さん、呼んで。美咲さんの名前を」


 湊が紗奈の肩を支える。

 風太は本棚の影で、頭を抱えてうずくまっていた。


「うるせえ! 黙れよこの機械! ひかりが頑張ってんだろ、邪魔すんじゃねえ!」


 風太は泣き言を言いながらも、床を這う影を避けて走り、次々とパソコンの電源コードを引き抜いて回る。


「紗奈! ひかりを信じろ、そしてあいつを呼べ! 仲村美咲の友達は、あんただろ!」


 湊の言葉に、紗奈は激しく息を乱しながらも、ひかりの背中を見つめた。

 ひかりの指先で揺れる火は、恐ろしいはずなのに、自分たちを必死に守ろうと震えていた。


 紗奈は震える手で、自分の顔を覆った。指の隙間から、涙が溢れる。


「……っ、美咲……!」


 ◇


「美咲!」


 紗奈が叫ぶ。

 ひかりの火が激しく明滅し、指先から散る火花が、押し寄せる黒い泥の先端を僅かに弾いた。


 黒い泥と光が触れた場所から、ジュウジュウと、脂を焼くような不快な音が響く。

 泥はひかりの指先の灯を消そうと執拗しつように迫り、ひかりはその圧力に押し潰されそうになりながら、必死に腕を伸ばしていた。


「私、あんたに嘘ついてた! 可愛いって言えばいいと思ってた! でも、私が好きだったのは、そんな完璧な顔じゃない!」


 紗奈は湊に支えられながら、美咲に駆け寄り、その肩を掴んだ。


「あの時、ここで一緒に笑ってた美咲に会いたい! 顔を隠しててもいい、泣いててもいい! でも、画面の中の笑顔だけを、あんたの代わりにしないで!」


「紗奈……ちゃん……」


 美咲の瞳に、わずかな焦点が戻る。

 湊は、その隙間から覗く美咲の瞳を射抜くように言った。


「守るっていうのは、本人を消すことじゃない。そこは帰る場所じゃないんだ。……ただの、隠れる場所だろ」


「美咲! 帰ってきて!」


 紗奈が絶叫した。その名前が、黒いノイズの奥へまっすぐ届いていく。


 ◆


 図書室に、ガラスの砕けるような鋭い音が響き渡った。

 数台のパソコン画面に、一斉にひびが走る。


 だが、ガラスは割れていない。

 砕けたのは、画面の中に貼り付いていた投稿用の美咲の顔だった。

 影の殻が剥がれ落ち、泣き腫らし、疲れ果てた現実の美咲の顔が露わになった。


 完璧ではない。誰かに見せるために整えられた顔でもない。

 けれど、それは確かに、そこに生きている少女の顔だった。


「あ……」


 美咲が、ゆっくりと顔を上げた。


「……紗奈……」


 美咲は紗奈の制服を掴み、その胸に顔を埋めた。

 図書室を埋め尽くしていた黒い泥が、行き場を失ったように霧散していく。


 ひかりの指先に灯っていた火が、ふっと消えた。

 ひかりはその場に座り込み、真っ白に感覚を失った右手を見つめて震えている。


 湊は、美咲のスマートフォンを拾い上げた。

 ケースの裏側。月の痕は、確かに薄くなっていた。


 ◇


 事件の後、美咲は保護者と共に帰宅した。

 紗奈は、養護教諭が駆けつけるまで、美咲の手を握ったまま床に座り込んでいた。


 けれど、湊たちの顔を見ることはできなかった。

 美咲が助かったことには安堵している。それでも、ひかりの火や湊たちの知る非日常への恐怖は、簡単には消えないだろう。彼女は、何かから逃げるように、一言も交わさず保健室を後にした。


「……湊、大丈夫?」


 校門の近く。ひかりが湊の顔を覗き込んだ。


「ああ。ひかりこそ、手は?」

「……少し、熱いけど。でも、昨日よりはマシかな。紗奈さんには、でーじ怖い思いさせちゃったけど」


 ひかりは悲しげに笑った。

 湊は空を見上げた。夕暮れの名護の街に、夜のとばりが下りようとしている。


 ふと、塀の上にナギサが座っているのが見えた。

 ナギサの青と金の瞳は、空の一点を見つめていた。

 まだ夜ではないはずの空に、白く、冷たく浮かぶ月を。


 美咲のマブイは一時的に帰った。

 けれど、あの月の痕が美咲自身の傷だけでできたものではないとしたら。


 良一。そして、美咲。

 刻印のひびは薄くなった。けれど、消えたわけではない。

 湊は、カバンの中のノートを強く握りしめた。


 次は、何が起きる。

 名護の街を包む湿った風が、何かの予兆を孕んで、湊の頬を冷たく撫でていった。


 ◆


 静まり返った、放課後の図書室。

 主を失い、電源の落ちたパソコンの画面。


 真っ暗な液晶の表面に、一瞬だけ、誰かの顔が映り込んだ気がした。


 笑っていない。

 泣いてもいない。


 それが美咲だったのか、投稿用の顔だったのかは分からない。

 映像はすぐに消え、後には窓から差し込む白い月の光だけが、静かに机を照らし続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ