第7話 名前が届く場所
名護の朝は、海から吹き付ける湿った風が校舎の隅々にまで入り込み、古い木造の床や壁に重たい湿気を吸わせる。
比嘉湊は、一校時が始まる前の静まり返った図書室にいた。
窓から差し込む光は、埃を黄金色に浮かび上がらせ、古い紙と糊、そして微かなカビの匂いが混じった独特の空気を照らしている。湊はカウンターの奥にある古いデスクトップパソコンの前に座り、マウスを動かしていた。
指先が、わずかに震える。
画面に表示されたのは、昨夜思い出した、あのデジタルアーカイブのフォルダだ。
湊は、その中の二年前とラベルが貼られた写真を、迷うことなく選択した。
画面が明るくなり、そこに二年前の仲村美咲が、まばゆいほどの鮮明さで現れた。
図書室の窓際。西日に照らされ、上原紗奈と並んで座っている。美咲は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐにカメラを向き、ピースサインを作っていた。
鼻は少し低く、肌の質感も年相応だ。
今のSNSに溢れている完璧な美少女ではない。
けれど、その瞳には確かに光が宿っていた。
自分の名前で呼ばれ、自分の顔でそこにいてもいいのだという、当たり前の安心感。
湊は、その笑顔を見て胸が締め付けられるような感覚に陥った。
カバンの中で、ノートが冷たく震えた。
開かなくても分かる。
刻印の黒いひびが、また広がっている。
それは今も美咲のマブイ(魂)を刻み、彼女が自分自身を消し去るのを待っている。
「ここが、あんたの帰る場所なんだな……」
湊は低く呟いた。
だが、ただ写真を見せるだけでは足りない。
マブイロストを止めるには、その名前を呼び、帰るべき場所を指し示す声が必要だ。
湊はパソコンの電源を落とし、図書室を出た。
◇
「……え、美咲が?」
校舎裏のガジュマルの木。湿った海風が葉を揺らす音が、遠い波鳴りのように低く響く。
上原紗奈は、戸惑ったように湊を見つめた。
湊の隣には、神妙な面持ちの宮城ひかりと、落ち着かない様子で周囲を窺う新里風太がいる。
「ああ。仲村さんの様子がでーじ(大変)変なんだ。紗奈なら知ってるだろ。彼女が最近、ずっとスマホを離さないこと」
ひかりの掌が、微かに熱を帯びた。空気がかすかに焦げるような、鉄の匂いがする。
紗奈はうつむき、制服のスカートをぎゅっと握りしめた。
「知ってる。……知ってるよ。でも、なんて声かければいいか分からなくて。美咲のSNSの投稿、いつもいいねはしてた。でも、本当は分かってたんだ。あれ、美咲が無理して笑ってる顔だって」
紗奈の声が、風にかき消されそうになる。
「可愛いってコメントすればするほど、美咲が遠くなる気がしてた。……本当はね、スクショが回って笑われてるのも知ってたの。なのに、私、何も言えなかった。関わって、私も一緒に笑われるのが怖かったから」
「紗奈、自分を責めないでよ」
ひかりが紗奈の肩に手を置く。
その掌から伝わる異様な熱に紗奈は一瞬身をすくませたが、ひかりの真剣な眼差しに気圧されて動けなかった。
「でも、今の美咲さんはもっと怖いことになってるの。名前を呼んでも、届かないの。……美咲さんが、自分の名前を、自分自身を嫌いになっちゃってるから」
「……マブイって何? スマホの中に閉じ込められるって、どういうこと?」
紗奈は顔を上げ、湊たちを疑わしげに見つめた。
当然の反応だった。湊は、昨夜の比嘉トヨから聞いた話を反芻した。
『名前は道さ。でも、道だけあっても帰れん時がある。帰る場所を、その人が怖がっていたらね。その名前で呼ばれても、ここにいていいと思える声が必要さ』
湊は、紗奈の瞳を真っ直ぐに見た。
「信じなくていい。でも、仲村さんが苦しんでるのは本当だろ。俺たちはあいつを助けたい。そのためには、紗奈、あんたの声が必要なんだ。あいつが、自分の顔を隠さずに笑えてた頃を知ってる、あんたの声が」
湿った空気が、四人の間を重たく通り過ぎる。
紗奈はしばらく沈黙した後、震える声で答えた。
「……謝りたいの。美咲に、嘘ついてたこと。私にできることがあるなら、やるよ」
◇
放課後。
不気味な静寂が校内を包んでいた。
保健室で保護者の迎えを待っていたはずの美咲の姿が、忽然と消えていた。
「湊! これ、見て!」
風太が、自分のスマートフォンの画面を突き出す。
異常な速さで通知が重なり、スピーカーからはハウリングのような高い音が漏れている。美咲のアカウントから、支離滅裂な投稿が一斉に行われていた。
「ノートが冷たい。……たぶん、あっちだ」
湊のカバンの中で、ノートが冷たく震えた。
開かなくても分かる。刻印の黒いひびが、また広がっている。
湊は廊下の奥を見た。図書室の方から、電子的なノイズが漏れている。
湊たちは廊下を走った。四月の湿った空気が、肌にべったりとまとわりつく。
図書室の扉の前に立った瞬間、電子的なノイズが耳の奥を掻きむしった。
扉の隙間からは、粘り気を帯びた黒い霧のようなものが、生き物のように這い出している。
湊が扉を押し開けた。
室内は、昼間だというのに夜のように暗かった。
窓の外の夕日が、不自然に白い月と重なり、赤黒い光が本棚の影を鋭く引き伸ばしている。
図書室の中央。美咲はあの窓際の机で、うずくまるように座っていた。
十数台の古いデスクトップパソコンが、不規則なリズムで青白く明滅を始める。
そのすべての画面に、同一の投稿用の美咲が映し出されていた。歪んだ笑顔。焦点の合わない瞳。
『その顔は、もういらない』
『私がいればいい』
画面の中から発せられる声は、電子的で、感情を剥ぎ取った冷酷な音声だった。
美咲は耳を塞いで、床に崩れ落ちた。彼女が握りしめるスマートフォンの裏にある月の痕が、不気味に白く発光している。
「紗奈、今だ! 名前を呼んで!」
湊が叫ぶ。
その瞬間、本棚から無数の文字が黒いインクの奔流となって溢れ出した。
『別人』『詐欺』『実物見せろ』
罵倒の言葉が、黒い火花を散らしながら、湊たちへ向かって降り注ぐ。
◆
「湊、危ない!」
ひかりが前に飛び出した。
掌が、内側から熱を帯びる。
今度は、握り込まなかった。
「怖いよ。……怖いけど。これは、燃やすための火じゃない」
震える指先に、赤橙色の小さな火が灯った。
それは図書室を焼き払う炎ではない。
黒い影を消し飛ばす力でもない。
紗奈の声へ伸びる黒い文字を、ほんの少しだけ弾く灯だった。
黒い火花が、ひかりの指先で弾ける。
熱い。
けれど、痛みよりも恐怖の方が大きい。
「何、これ……ひかりさん、今の……」
紗奈が床にへたり込む。
彼女の目には、降り注ぐ文字よりも、ひかりの指先に灯った火の方が信じられないものに映っていた。
ひかり自身も、泣きそうな顔で自分の手を見ていた。
それでも、手を下ろさなかった。
「紗奈さん、呼んで。美咲さんの名前を」
湊が紗奈の肩を支える。
風太は本棚の影で、頭を抱えて蹲っていた。
「うるせえ! 黙れよこの機械! ひかりが頑張ってんだろ、邪魔すんじゃねえ!」
風太は泣き言を言いながらも、床を這う影を避けて走り、次々とパソコンの電源コードを引き抜いて回る。
「紗奈! ひかりを信じろ、そしてあいつを呼べ! 仲村美咲の友達は、あんただろ!」
湊の言葉に、紗奈は激しく息を乱しながらも、ひかりの背中を見つめた。
ひかりの指先で揺れる火は、恐ろしいはずなのに、自分たちを必死に守ろうと震えていた。
紗奈は震える手で、自分の顔を覆った。指の隙間から、涙が溢れる。
「……っ、美咲……!」
◇
「美咲!」
紗奈が叫ぶ。
ひかりの火が激しく明滅し、指先から散る火花が、押し寄せる黒い泥の先端を僅かに弾いた。
黒い泥と光が触れた場所から、ジュウジュウと、脂を焼くような不快な音が響く。
泥はひかりの指先の灯を消そうと執拗に迫り、ひかりはその圧力に押し潰されそうになりながら、必死に腕を伸ばしていた。
「私、あんたに嘘ついてた! 可愛いって言えばいいと思ってた! でも、私が好きだったのは、そんな完璧な顔じゃない!」
紗奈は湊に支えられながら、美咲に駆け寄り、その肩を掴んだ。
「あの時、ここで一緒に笑ってた美咲に会いたい! 顔を隠しててもいい、泣いててもいい! でも、画面の中の笑顔だけを、あんたの代わりにしないで!」
「紗奈……ちゃん……」
美咲の瞳に、わずかな焦点が戻る。
湊は、その隙間から覗く美咲の瞳を射抜くように言った。
「守るっていうのは、本人を消すことじゃない。そこは帰る場所じゃないんだ。……ただの、隠れる場所だろ」
「美咲! 帰ってきて!」
紗奈が絶叫した。その名前が、黒いノイズの奥へまっすぐ届いていく。
◆
図書室に、ガラスの砕けるような鋭い音が響き渡った。
数台のパソコン画面に、一斉にひびが走る。
だが、ガラスは割れていない。
砕けたのは、画面の中に貼り付いていた投稿用の美咲の顔だった。
影の殻が剥がれ落ち、泣き腫らし、疲れ果てた現実の美咲の顔が露わになった。
完璧ではない。誰かに見せるために整えられた顔でもない。
けれど、それは確かに、そこに生きている少女の顔だった。
「あ……」
美咲が、ゆっくりと顔を上げた。
「……紗奈……」
美咲は紗奈の制服を掴み、その胸に顔を埋めた。
図書室を埋め尽くしていた黒い泥が、行き場を失ったように霧散していく。
ひかりの指先に灯っていた火が、ふっと消えた。
ひかりはその場に座り込み、真っ白に感覚を失った右手を見つめて震えている。
湊は、美咲のスマートフォンを拾い上げた。
ケースの裏側。月の痕は、確かに薄くなっていた。
◇
事件の後、美咲は保護者と共に帰宅した。
紗奈は、養護教諭が駆けつけるまで、美咲の手を握ったまま床に座り込んでいた。
けれど、湊たちの顔を見ることはできなかった。
美咲が助かったことには安堵している。それでも、ひかりの火や湊たちの知る非日常への恐怖は、簡単には消えないだろう。彼女は、何かから逃げるように、一言も交わさず保健室を後にした。
「……湊、大丈夫?」
校門の近く。ひかりが湊の顔を覗き込んだ。
「ああ。ひかりこそ、手は?」
「……少し、熱いけど。でも、昨日よりはマシかな。紗奈さんには、でーじ怖い思いさせちゃったけど」
ひかりは悲しげに笑った。
湊は空を見上げた。夕暮れの名護の街に、夜の帳が下りようとしている。
ふと、塀の上にナギサが座っているのが見えた。
ナギサの青と金の瞳は、空の一点を見つめていた。
まだ夜ではないはずの空に、白く、冷たく浮かぶ月を。
美咲のマブイは一時的に帰った。
けれど、あの月の痕が美咲自身の傷だけでできたものではないとしたら。
良一。そして、美咲。
刻印のひびは薄くなった。けれど、消えたわけではない。
湊は、カバンの中のノートを強く握りしめた。
次は、何が起きる。
名護の街を包む湿った風が、何かの予兆を孕んで、湊の頬を冷たく撫でていった。
◆
静まり返った、放課後の図書室。
主を失い、電源の落ちたパソコンの画面。
真っ暗な液晶の表面に、一瞬だけ、誰かの顔が映り込んだ気がした。
笑っていない。
泣いてもいない。
それが美咲だったのか、投稿用の顔だったのかは分からない。
映像はすぐに消え、後には窓から差し込む白い月の光だけが、静かに机を照らし続けていた。




