第8話 インクで描かれた刻印
四月の湿った風が、名護の街を重たく包んでいた。
昨日、図書室で起きた出来事が嘘のように、学校の廊下にはいつもと変わらない退屈な日常が流れている。誰かの笑い声。上履きの擦れる音。窓の外から聞こえる部活の掛け声。
そのすべてが、湊には遠く聞こえた。
比嘉湊は、自分の机に突っ伏したまま、じっと動かずにいた。
まぶたの裏には、今も鮮明に焼き付いている光景がある。
泣き叫ぶ美咲。
彼女を守るように灯った、ひかりの赤橙色の火。
そして、闇の中に浮かび上がった、不自然に白い月。
仲村美咲は、今日、学校を休んでいた。
保健室の先生によれば、精神的なショックによる過呼吸で、しばらく静養が必要だという。美咲の友人である上原紗奈は登校していたが、湊と目が合うと、逃げるように視線を逸らした。
その瞳には、安堵よりも深い恐怖が刻まれていた。
美咲を襲った怪異への恐怖。
そして、それに対抗したひかりの力への、剥き出しの拒絶。
隣の席では、宮城ひかりが所在なげに自分の右手を見つめていた。
彼女は昨夜から、ほとんど口を利いていない。
自分の指先から出た火が、親しいはずの紗奈を怯えさせてしまった。
その事実が、彼女の心を重く縛り付けている。
「……」
大丈夫ね。
そう問いかける言葉が喉まで出かかって、湊はそれを飲み込んだ。
沖縄では何気なく交わされるその平易な言葉が、今の自分たちの間では、ひどく空虚で、嘘くさいものに思えたからだ。
何も大丈夫ではない。
自分たちが踏み込んでしまった領域は、そんな言葉で塗り潰せるほど浅いものではなかった。
湊はカバンの中から、あの一冊のノートを取り出した。
机の上に広げ、ページをめくる。
そこには、湊自身が描いた覚えのない記録が刻まれていた。
島袋良一の事件の際に現れた、黒い花火のような点。
昨日の事件で描き足された、液晶画面のひび割れを模したような鋭い線。
そのどちらも、青いゲルインクの線の上に刻まれている。
青い線は、事件のたびに形を変えていた。
良一の時には、そこに黒い花火の点が浮かんだ。
美咲の時には、そこに黒いひび割れが走った。
そして今、ページの端には、何かが一直線に駆け抜けたような短い線が描き足されている。
二つの事件に共通していたのは、現場に残った白い痕だった。
良一の家の畳。
美咲のスマホケースの裏。
そこには、どちらにも同じ痕が残っていた。
丸く見えたが、よく見ると端が欠けている。
輪郭のぼやけた、冷たい三日月のような痕。
だが、ノートの上では違う。
その痕に対応する場所だけが、青いインクを侵すように黒く滲んでいる。
湊はペンケースを開こうとして、動きを止めた。
ケースの中に入れたはずの青いペンが、なぜか最初からノートの上に置かれていた。
何の変哲もない、コンビニでも売っているような事務用のペンだ。
(いつ出したんだ、俺……)
記憶を辿るが、何も思い出せない。
思い出せないまま、湊はノートのページの端を見つめた。
そこには、覚えのない短い青い線が一本、描き足されていた。
それは、何かの始まりを告げるような、鋭い疾走線だった。
◇
放課後。
湊、ひかり、風太の三人は、比嘉家の母屋にいるトヨを訪ねた。
名護の住宅街の奥。古い石垣に囲まれた比嘉家の敷地には、いつもどこか現実離れした静謐な空気が漂っている。
仏壇の前で、トヨは三人の話を聞いていた。
線香の煙が細く立ち上り、古い木の匂いと混ざり合っている。
「良一さんも、美咲さんも、マブイは戻ろうとしていた。けれど、月の痕がそれを邪魔しているように見えるね」
トヨの声は、いつもより低く、重たかった。
彼女は、湊が差し出したノートを老眼鏡越しにじっと見つめている。
「これは普通のマブイ落ちではない。黒い点は、あたしらが知っている口伝の言葉だけでは足りんかもしれん」
「おばあ、これ、誰かが描いてるんだ」
湊はノートを指差した。
「浮かび上がったんじゃない。誰かが、ペンで描いた跡なんだよ」
トヨは、しばらく黙っていた。
線香の煙だけが、静かに揺れている。
やがて彼女は、ゆっくりと腰を上げた。
「真琴さんに、相談してみなさい」
「真琴さん?」
「平良真琴。沖縄のマブイや、古い御願の記録を調べている人さ」
トヨは、線香の煙の向こうから、静かに湊を見た。
「あの人は、あたしらが感覚で知っていることを、別の言葉で見ようとしている。月の痕のことなら、あの人の方が古い記録を当たれるかもしれんね」
◇
翌日の放課後。
湊たちは、名護市内の古い建物を利用した名護市立郷土資料館を訪れた。
潮風に晒された外壁は、ところどころペンキが剥げかけている。建物の中には、外の湿気とは違う、ひんやりとした空気が溜まっていた。
古い紙とカビの匂いが、静かに鼻の奥へ入り込んでくる。
「お待ちしていました。比嘉さんからお話は伺っています」
奥の事務室から現れたのは、眼鏡をかけた平良真琴だった。
落ち着いた物腰の女性だった。
けれど、その目だけは、妙に鋭い。
彼女は三人を奥の調査室へと招き入れた。
湊はカバンからノートを取り出し、机の上に広げた。
真琴は慎重にノートを引き寄せ、ルーペを取り出して紙面を観察し始める。
「……浮かび上がったものじゃありませんね」
しばらくして、真琴が顔を上げた。
「これは、インクです。染料が紙の繊維に浸透している。誰かが、実際にペンを握って、この紙の上に描いています」
「でも、俺は描いてないんです。この二人も、俺が描いているところなんて見てない」
真琴は、再びノートに視線を落とした。
「筆跡、線の震え方、圧のかかり方……通常の筆記とは、明らかに違います」
彼女は、青い線の端をルーペ越しに見つめる。
「人が机に向かって書いたというより、空中からペン先だけが紙に触れたような、不自然な痕跡です」
真琴はルーペを置き、湊を見つめた。
「ですが、誰かが必死に何かを記録しようとしているような、切実な意志だけは感じられます」
その言葉に、湊の背筋が冷たくなった。
◆
カタ、と音がした。
調査室の机の上に置かれていた湊の青いペンが、カタ、と音を立てた。
ひかりも風太も、息を呑んでペンを見つめた。
湊も反射的に手を伸ばしかけて、途中で止める。
誰も触れていない。
机も揺れていない。
それなのに、ペンは意思を持っているかのように数センチほど転がり、ノートのページの上で止まった。
湊の喉が、ひゅっと鳴った。
自分で描いた覚えのない線。
その正体を、初めて目の前で見せつけられた気がした。
湊には、聞こえなかった。
けれど真琴だけが、紙の表面をペン先が鋭く滑る、シュッという微かな音を耳にした。
「……今、動きましたよね?」
風太が震える声で言った。
真琴は答えない。
ただ、ペンが止まった場所をルーペで見た。
ノートの余白に、新たな青い線が一本、ほんの数ミリだけ描き足されている。
「無意識の自動筆記、という言葉で片付けるには、あまりに直接的すぎますね」
真琴は、湊を見た。
「比嘉君。あなたの側には、あなた自身も気づいていない何かがいるのかもしれません」
その場の空気が、すっと冷えた気がした。
真琴はノートに描かれた青いインクを見つめる。
その線は、ただの事務用の青いインクでありながら、時折、水面のように揺れ、淡く光る。
そして、あの不気味な黒い点。
青いインクで描かれているはずなのに、月の痕に触れた場所だけが、泥を零したようにどろりと黒く変色している。
真琴には、その仕組みは分からなかった。
ただ、この線を引かせた何者かの意志が、インクの色調の中にまで残っているような、説明のつかない生々しさを感じていた。
◇
「人の傷は、塞がろうとします。マブイも同じだと考えれば、あなたたちの話は筋が通る」
真琴は、ホワイトボードに良一と美咲の事例を書き込みながら言った。
「マブイは、人が人としてあるための芯のようなもの。けれど、その塞ぎ方を間違えれば、傷口そのものが本人を飲み込む殻になってしまう」
真琴は黒いペンで丸を描き、その周囲を太く塗り潰した。
「自己修復の暴走……とでも言うべきでしょうか」
「自己修復の、暴走」
湊が繰り返すと、真琴は頷いた。
「月の痕は、その治り方を狂わせている可能性があります」
彼女は湊の方へ向き直り、眼鏡を指で押し上げた。
「あくまで私の仮説ですが……比嘉君。あなたに見えているものは、単なる過去の映像ではありません」
「過去の映像じゃない?」
「文字通り、時に残された傷痕を視るような状態です」
真琴は、ホワイトボードに新しい文字を書いた。
時痕視。
「仮に名付けるなら、時痕視とでも呼ぶべき現象ではないでしょうか」
「時痕視……」
湊が言葉を繰り返すと、真琴は慎重に言葉を選びながら続けた。
「通常、時間は流れて消えていくものです。けれどマブイには、強すぎる後悔や喪失が、消えない傷として刻まれることがある」
真琴は、ホワイトボードの月の痕を指差した。
「本来流れるはずの時間が、その場所で止まり、淀んでしまっている。比嘉君、あなたは現在の風景の中に、その過去の痛みの痕跡を重ねて視ているのかもしれません」
「俺が、過去を見てる……?」
「あなたは過去を変えているのではない。マブイに残った傷に触れることで、誰かの止まってしまった時間を、無理やり動かそうとしている」
真琴は、机の上のノートを指先で示した。
「ノートの刻印は、その歪みの記録なのでしょうね」
時痕視。
その響きは、湊にとって特別な才能というより、他人の痛みに直接手を触れるような、重い役割のように聞こえた。
◇
「……なあ、つまりこういうことか?」
資料館からの帰り道。
海沿いの国道を歩きながら、風太が頭を抱えた。
「あの黒い影ってのは、敵じゃなくて、本人の痛みが化けたもん。俺らは、毎回その人の心の傷と戦ってるってことだよな?」
国道を走る車の音が、潮風に混じって不穏に響く。
「で、月の痕ってやつが、その傷をわざと悪化させてる……と」
「たぶん、そういうことだと思う」
湊は、カバンの中のノートを意識しながら答えた。
資料館で古い資料まで見せてもらっているうちに、外はすっかり夜になっていた。湿った風が、海の方からまとわりつくように吹いてくる。
風太は周囲を気にしながら、声を潜めた。
「それとさ、さっき陸上部の先輩のグループチャットで回ってきたんだけど」
「何が?」
「最近、この先のバイパスあたりで変な噂があるらしいんだよ。夜道を走る黒い影」
「夜道を走る、影?」
「ああ。海沿いの道路で、誰もいないのに、足音みたいな音だけが響くんだって。近づいた人が、見えない衝撃で吹き飛ばされたとか」
風太は、スマホの画面を見ながら顔をしかめた。
「道路には、風圧で抉れたような丸い穴が残ってるって話だ」
またかよ。
湊がそう呟こうとした、その時だった。
◆
キィィィィン、という、耳鳴りのような不快な音が夜の空気を切り裂いた。
「なんだ、今の音?」
ひかりが立ち止まり、周囲を警戒する。
街灯の下。
誰もいないはずの海沿いの道路を、何かが凄まじい速度で走り抜けた。
いや、走ったのかどうかさえ分からなかった。
闇の奥に、片目のような白い光が一瞬だけ浮かんだ。
エンジン音はしない。
タイヤが地面を擦る音もない。
足音さえなかった。
ただ、通り過ぎた場所の風だけが、一拍遅れて悲鳴を上げるように歪んだ。
次の瞬間、黒い線が夜を裂いた。
ドォン、という衝撃。
湊たちが駆け寄ると、アスファルトの上に、何かに撃ち抜かれたような丸い穴が残っていた。
穴の縁には、黒く焦げたような滲みがあり、そのさらに外側に、月のように冷たい白い痕跡が薄く刻まれている。
湊はカバンの中のノートを開いた。
描き足されていた青い疾走線の先に、小さな黒い点が、まるで着弾の跡のように新しく滲んでいた。
「……始まった」
湊の呟きは、夜の風にかき消された。
夜の名護を、黒い影が走り抜けた。
それは、良一や美咲の時のように留まっている痛みではない。
名前を呼ぶ暇さえ与えず、世界から弾き飛ばされようとしている、あまりに速すぎる喪失の奔流だった。




