第6話 投稿用の顔
三年前の、湿り気を帯びた放課後だった。
仲村美咲は、名護の古い住宅街にある自室で、扇風機の首振りが刻む頼りないリズムを聞きながら、スマートフォンの画面と睨めっこをしていた。
窓の外からは、近くの海岸から流れてくる潮の匂いと、どこかの家で焚かれた線香の香りが混ざり合い、重たい空気となって部屋に満ちていた。
中学二年生。一番、多感で、残酷な季節。
美咲は自分の顔が嫌いだった。
鏡を見るたびに、野暮ったい前髪や、少し低い鼻、そして湿気に負けて膨らんだ髪が目につき、溜息が出る。クラスの華やかなグループにいる、太陽の光をそのまま反射したような子たちが、眩しくて、同時に怖かった。
彼女たちの視線に晒されるたび、美咲は自分の「実物」が、価値のないゴミのように思えてならなかった。
ふと思い立ち、広告で見かけた加工アプリをダウンロードした。
自撮りした自分の顔を、指先で丁寧になぞる。
肌が真珠のように白くなり、目は宝石のように大きく、潤いを帯びる。コンプレックスだったパーツが、画面の中で魔法のように整えられていく。
「……可愛い」
思わず、独り言が漏れた。
そこに映っているのは、自分であって自分ではない、完璧な「理想」だった。
美咲は何度も何度も撮り直し、一番良い角度の一枚を、震える指でSNSに投稿した。
五分もしないうちに、スマートフォンが震えた。
通知の赤い数字。そして、見知らぬ誰かや、クラスメイトからのコメント。
『美咲、めっちゃ可愛い!』
『この写真、でーじ(とっても)最高。別人みたい』
『いつもより大人っぽいね。どこのフィルター?』
胸が、痛いほど熱くなった。
初めて、世界に認められたような気がした。
けれど同時に、心の深層で、小さな、けれど鋭い亀裂の走る音がした。
別人。
そう、これは別人なのだ。
実物の私は、ここにはいない。
褒め言葉は、甘い毒のように美咲の奥底へ沈んでいった。
画面の中の自分が輝けば輝くほど、現実の自分は、光を吸い込まれた泥のように重く、醜く感じられた。
◇
翌朝。
名護の空は、厚い雲に覆われていた。
比嘉湊は、登校したばかりの静かな教室の窓際で、自分のノートを広げていた。
教室には、まだ誰もいない。
海風が窓の隙間から吹き込み、掲示物のプリントをパタパタと揺らしている。
ノートのページには、ガラスにヒビが入ったような刻印が浮かんでいた。
昨夜よりも、その模様は複雑に、そして歪に変容していた。
鋭い、液晶画面のひび割れに似た線が幾本も走っている。その線の端には、黒いインクを零したような、あるいは焦げたような不気味な滲みが広がっていた。
湊はその模様を、指先でそっとなぞる。
冷たかった。
紙の質感ではない。
氷の張った水面に触れているような、あるいは電流の残滓のような、心臓を直接掴まれるような冷え。
(刻印は、マブイ(魂)が帰ろうとする道筋のはずだ……)
トヨおばあは言った。
マブイは治ろうとして殻を作る。
だが、その殻が壊れて歪むと、本人を閉じ込める影になる。
だとしたら、この黒いひび割れは、仲村さんのマブイが帰るべき道を見失い、自分を切り裂いている証拠なのか。
湊の胸の奥にある、あの「空白」が疼いた。
あの日、黒い影に貫かれた場所。
死の記憶が、ノートの冷たさに呼応して、鈍い痛みを生む。
「湊、おはよ。……また、それ、見てるの?」
背後からかけられた声に、湊は反射的にノートを閉じた。
振り返ると、宮城ひかりが立っていた。
彼女の表情は、どこか疲れの色が混じっている。右手を、不自然に制服のカバンで隠すように持っていた。
「……ああ。ひかり、おはよう」
「昨日、私……止めたんだよね」
ひかりは湊の横の席に座り、隠していた右手を見下ろした。
その白く細い指先が、わずかに震えている。
「出そうになったのに、怖くて、自分で握り潰した。あの熱いのが出てたら、仲村さんをもっと助けられたかもしれないのに。私、逃げたんだ。自分がどうにかなっちゃうのが、怖くて」
ひかりの瞳に、自責の念が浮かぶ。
湊は、開いた窓から入ってくる重たい潮の匂いを肺いっぱいに吸い込み、彼女の目を見た。
「俺も同じだよ。名前を呼べなかった」
「湊……」
「仲村さんのことを、何も知らなかったからさ。ただ名前を呼べばいいわけじゃないんだと思う。帰る場所を知らないまま名前を呼んでも、マブイには届かないんだ。ただ、その人をこの場所に縛り付けるだけになる」
名前は、道になる。
けれど、道がつながる先――本人が「ここに帰っていいんだ」と思える温かい場所がなければ、声は空を切るだけだ。
島袋良一の時は、奥さんの声があった。陽太君との思い出があった。
けれど、美咲には、何があるのだろうか。
「だから、調べなきゃいけない。仲村さんが、どこでマブイを落として、何から自分を隠そうとしているのかを」
ひかりは、不安そうに右手をぎゅっと握りしめた。
彼女の指先からは、微かな熱が滲み出しているように見えた。
◇
昼休みの屋上。
名護湾から吹き上げる風は、午後の湿気を孕んで重たかった。
新里風太が、学校の裏サイトやSNSのログをまとめたメモを湊たちに見せた。
彼はいつも通り、お調子者の仮面を被ろうとしていたが、その声は上擦り、瞳には怯えの色が混じっていた。
「俺さ、こういうの調べる係になった覚えはないんだけどな……でもよ、放っとけないだろ」
そう言いながらも、風太は美咲について掴んできた情報を、絞り出すように語った。
「仲村美咲。中学の頃までは、目立たないけど絵が得意な大人しい子だったらしい。高校に入ってからSNSを始めたんだけど、加工自撮りが一回バズってさ。それからだよ、加工がどんどんエスカレートしていったのは。最近は、学校でも『加工しすぎ』『別人』って陰口を叩かれてて……」
「陰口……」
ひかりが痛ましそうに声を漏らす。
「それだけじゃないんだ。誰かが、美咲の加工前の写真を隠し撮りして、わざと加工後と並べて晒したらしい。グループチャットで回されて、一気に拡散して……」
風太がスマートフォンの画面を湊に見せた。
そこには、美咲のSNSアカウントが表示されていた。
最新の投稿は、真っ黒に塗りつぶされた画像。
だが、その下のコメント欄には、無機質で尖った悪意が、今もなお増殖し続けていた。
『実物マジで別人じゃん。詐欺だろこれw』
『この顔、誰だよ。本当の顔隠して恥ずかしくないの?』
『怖い怖い。加工なしで街歩けるの?』
◆
廊下の端で、誰かが笑った。
――あ、いたよ。仲村さん。
――え、これ? 写真と全然違うじゃん。マジか。
――加工しすぎて、もう元の顔忘れてるんじゃない?
美咲は、振り返ることができなかった。
自分の名前が、知らない笑い声の中で軽く転がされ、汚されていく。
スマートフォンの画面の中には、加工された、完璧な笑顔の自分。
その横に、誰かが勝手に撮った、うつむいて顔を歪めた、惨めな自分の横顔。
並べられた、二つの顔。
どちらも、自分のはずなのに。
どちらも、私の居場所ではなかった。
本当の自分は、その二つの顔の間に空いた、暗い淵の中に落ちてしまった。
◇
「……だからよ。怖いけど、やるしかないわけさ」
風太の声で、湊は現実に引き戻された。
「知らないと、名前も届かないんだろ? だったら、俺らだけでも、あいつがどこにいたか、あいつが何を大事にしてたか、知ってやらないといけんさ。だからよ……怖くて足震えるけど、これは、俺らの問題だろ」
風太は自分の膝を叩き、震えを無理やり止めた。
湊は、その勇気に小さく頷いた。
◆
放課後。
下校時刻を知らせるチャイムが校舎に響き渡り、生徒たちが部活動や帰路へと散り始めた。
校内が、静まり返った独特の空気に包まれていく。
名護の空は、燃え尽きるような赤黒い夕暮れに染まっていた。
湊たちは、いまだ下校していない美咲を案じて保健室を訪ねた。
彼女は昼前から「体調が悪い」と訴えて保健室のベッドに閉じこもっているという。迎えに来るはずの保護者は、仕事の都合でまだ到着していない。
扉を引くと、鼻を突く消毒液の匂いと、換気扇が回る重たい低音が立ち込めていた。
養護教諭の姿はない。隣の教官室で、遅れている保護者への電話連絡でもしているのだろうか。
一番奥のベッド。
仲村美咲は、そこに座っていた。
カーテンは半分閉められ、窓から差し込む夕日の、不自然に濃い赤色が彼女の横顔を刺すように照らしている。
窓際の高い棚の上には、一匹の猫が座っていた。
オッドアイのナギサだ。
いつからそこにいたのか、ナギサは物音一つ立てず、ただじっと美咲の丸まった背中を見つめていた。
美咲は、やはりスマートフォンを死守するように握りしめていた。
コンセントから伸びた充電器のコードが、まるで彼女に給餌している血管のように、あるいは彼女を縛り付ける鎖のように見えた。
「仲村さん」
湊が声をかけたが、美咲は顔を上げなかった。
彼女の指は、壊れた機械のように画面を執拗になぞっている。
「見ないで……」
美咲の声は、掠れて、震えていた。
「この顔じゃないと、だめなの。笑ってないと、また、みんなに……笑われる」
彼女の視線は、液晶の青白い光に吸い込まれていた。
現実の彼女は、外へ出ることを、他人の目に触れることを、病的なまでに恐れていた。
この保健室の、カーテンの陰に隠れたまま、画面の中の「完璧な顔」という仮面に守られていなければ、彼女のマブイはバラバラに壊れてしまうのだ。
◆
湊の脳裏に、図書委員の頃に整理したアーカイブの一枚が、鮮明な映像として蘇った。
図書室の窓際。埃が黄金色に舞い、古い紙の匂いが漂う静かな場所。
そこには、湊の家の近くに住む上原紗奈と並び、加工なんて知らない顔で、心からの笑顔を浮かべてピースサインをしている下級生の美咲がいた。
あの時の彼女の目は、今のように液晶の光を映す鏡ではなく、世界を捉えるレンズだった。
◆
「……なあ、これ、スマホ壊せば終わるやつじゃないのか」
風太が、耐えきれないというように震える声で言った。
その言葉が、引き金になった。
スマートフォンの画面が、激しく明滅を始める。
SNSアプリが、美咲の意志を無視して勝手に立ち上がり、いくつもの下書きが高速でスクロールされる。
そして、画面の縁から、泥のような、あるいは黒い煤のような影が溢れ出してきた。
それは蛇のように鎌首をもたげ、美咲の細い指先を、手首を、執拗に縛り上げる。
「ひかり!」
湊の叫びに、ひかりが動いた。
彼女の掌が熱を帯び、指先に赤橙色の小さな火が灯りかける。
ひかりは一瞬、自分の手の中に生まれた異質な存在に恐怖し、指を握り込みそうになったが、美咲の悲鳴を聞いて、強く目を見開いた。
「……っ、美咲さんを、一人にはしない!」
火は放たれなかった。
けれど、彼女が逃げずに踏みとどまったその意志が、空間の湿度を一瞬で変えた。
美咲の腕を締め上げていた黒い影が、怯んだように動きを止める。
湊のカバンの中で、ノートが異常なほど冷えた。
ノートの刻印のどこかで、また新たな黒い滲みが広がっているのが、見なくてもわかった。
「仲村さん、思い出して……図書室の、あの……」
湊が手を伸ばそうとした、その時。
校内のあちこちで、一斉に電子音が鳴り響いた。
夕暮れの静まり返った廊下、無人の教室、教官室、そして風太のポケットの中。
幾重にも重なる、冷たい金属的な通知音。
表示されたのは、美咲のSNSの最新投稿だった。
しかし、そこに写真はなかった。
あるのは、美咲の顔の部分だけが白く抜け落ち、その空白を埋め尽くすように、彼女が浴びてきた無数の罵詈雑言が書き込まれた、異様な画像。
「あ、あああ……っ!」
美咲が頭を抱え、絶叫した。
保健室の窓ガラスが、彼女の悲鳴に共鳴してビリビリと振動する。
画面の中で完璧な笑顔を貼り付けた「もう一人の美咲」が、指先で、過去の自分――紗奈と笑っていたあの写真を、黒い泥で塗り潰していく。
『その顔は、もういらない』
スピーカーから、美咲の声ではない、感情を剥ぎ取った電子の声が響いた。
美咲は、自分自身で、自分の「帰るべき場所」を、記憶の底から焼き捨てようとしていた。
美咲を閉じ込めているのは、画面の向こう側の悪意だけではない。
美咲自身のマブイが、あまりの痛みに耐えかねて、自分自身を殻の中に閉じ込め、本当の自分を外へ追い出そうとしているのだ。
◆
窓の外、名護の空には、太陽が沈み切る前に、不気味なほど白い月が浮かび上がっていた。
その月の光は冷たく、校舎の影を異常に濃く、鋭く地面に刻んでいた。
湊は、自分の胸の奥の空白が、再び激しく痛むのを感じた。心臓が、警告を鳴らすように脈打つ。
「……仲村さん、まだだ」
湊の声は、吹き荒れる電子音にかき消されそうなほど小さかったが、確かな意志を孕んでいた。
「まだ、消させない。君が帰る場所は、そこじゃないはずだ」
美咲のスマートフォンから、バリバリと激しい黒い火花が散った。
その瞬間、ふっと、保健室の明かりがすべて消えた。
一瞬で、視界が奪われる。
完全な暗闇の中で、充電器に繋がれたままの液晶画面だけが、青白い光を怪物のように放っていた。その光に照らし出された美咲の顔は、血の気のない仮面のようで、彼女が生きているのか、それとももう画面の中に取り込まれてしまったのかさえ分からなかった。
「比嘉君、宮城さん! 今の音、何? 仲村さんは?」
隣の教官室から、懐中電灯の光を手にした養護教諭が飛び込んできた。
その白い光が室内を乱反射した瞬間、美咲の体から溢れていた黒い泥のような影は、潮が引くように画面の中へと吸い込まれ、霧散していった。
美咲は、糸が切れた人形のようにベッドへ倒れ込んだ。
意識は失っているようだが、その右手だけは、電源の落ちたスマートフォンを、骨が浮き出るほどの力で握りしめたままだ。
「……先生、彼女、急に倒れて。俺たち、呼ぼうとしたんですけど」
湊はとっさに嘘をついた。
本当のことを言っても、誰も信じない。そして、今の美咲を無理に揺り動かしても、マブイを救うことはできない。
彼女の魂は今、あの液晶の奥にある、出口のない笑顔の森に迷い込んでいるのだ。
「……いいわ、あとは私が診るから、あなたたちは帰りなさい。もう完全に下校時刻を過ぎているわ。保護者の方も、もうすぐ校門に着くそうよ」
先生の言葉に、湊は拳を握りしめたまま、小さく頷いた。
保健室を出る間際、湊は一度だけ振り返った。
暗いベッドの傍ら。窓際の棚の上で、ナギサの青と金の瞳が、窓から差し込む白い月の光を静かに反射していた。
ナギサは鳴かず、ただ、これから起こる嵐を予見しているかのように、じっと棚の上に座っていた。
校舎を出ると、夜の名護の街には、重たく湿った風が吹き荒れていた。
潮の匂いに混じって、どこかで誰かが線香を焚いているような、古くて懐かしい、けれど悲しい匂いが鼻をくすぐる。
街灯の白い光が、アスファルトの上に自分たちの影を長く引き伸ばしていた。
「……明日、必ず。名前が届く場所を見つける」
湊は、夜の闇に沈みゆく校舎を見上げ、自分自身に、そしてカバンの中のノートに言い聞かせた。
その時。
足元のカバンの中で、ノートの刻印が、一瞬だけ、脈打った。
それはまるで、凍てついたマブイの鼓動が、微かに響いたかのような、静かな揺れだった。




