第5話 フィルターの少女
四月の湿った夜、窓を閉め切った自室の暗がりに、スマートフォンの液晶だけが白く浮き上がっている。
インカメラが捉えるのは、仲村美咲の顔だ。
泣き腫らした目。
乱れた前髪。
自分でも嫌気がさすほど、湿気に負けた重たい肌の質感。
指先が画面を叩く。
使い慣れたSNSアプリの、加工フィルターを選択する。
一瞬で、世界が塗り替えられた。
赤みは消え、肌は陶器のように滑らかになり、瞳には吸い込まれるような光が宿る。
輪郭は鋭く削られ、唇には瑞々しい色が差した。
そこに映っているのは、仲村美咲だ。
同時に、仲村美咲ではない。
美咲は震える指で、シャッターアイコンをタップする。
何度も。
何度も。
納得がいくまで。
一瞬、画面が激しくノイズに歪んだ。
黒い砂嵐が走る。
美咲は眉を潜め、アプリを閉じようとした。
しかし、指が動かない。
画面の向こう側の「自分」と、目が合った。
現実の美咲は、唇を噛み締め、絶望に顔を歪めている。
けれど、画面の中の美咲だけが、完璧な角度で、柔らかく微笑んだ。
「こっちの顔なら、誰にも嫌われないよ」
声は、聞こえなかった。
けれど、確かに頭の奥に響いた。
美咲は悲鳴を上げようとして、喉が凍りつく。
液晶の表面に、細い、ひびのような線が走った。
指を触れても、ガラスの感触は滑らかなまま。
ひびは、画面の内側にある。
微笑む「自分」の顔を、無残に引き裂くように。
◇
名護の朝は、潮の匂いを孕んだ重たい風とともにやってくる。
比嘉湊は通学路を歩きながら、カバンの中にあるノートの重みを感じていた。
今日4月17日は、あの防波堤でひかりや俺が死んだはずの日だ。
けれど、未来は変わった。いや、変えたつもりでいるだけなのかもしれない。良一さんの影は消えていない。なら、ひかりが死ぬ未来も、本当に消えたとは限らない。
胸の奥にある、あの時貫かれた場所が、疼くように冷える。
昨夜、島袋良一の家で起きたことが、網膜の裏に焼き付いて離れない。
畳を這う黒い影。
ひかりの掌に一瞬だけ宿った、あの頼りなくも温かい火。
そして、去り際に窓ガラス越しに見た、ありもしない「もう一人分」の影。
湊は立ち止まり、ノートを取り出した。
表紙をめくる。
花火の刻印の隣に、新しい印が浮かんでいた。
それは、細い、ひび割れのような線だ。
まるで何かの液晶画面が、内側から弾けたような、不規則で鋭い亀裂。
その線の端に、小さな黒い点が滲んでいる。
湊の心臓の隣にある空白が、チリリと鳴った。
良一の時に見た、黒い花火の予兆とは違う。
もっと無機質で、反射を拒絶するような、底の知れない冷たさ。
「湊、おはよ。……また、それ見てるの?」
背後から声をかけられ、湊は慌ててノートを閉じた。
振り返ると、宮城ひかりが立っていた。
彼女は自分の右手を、制服の袖の中に隠すようにしている。
「……ああ。ちょっと、気になって」
「トヨおばあ、なんて言ってた? あれから、何か分かった?」
ひかりの顔は、昨夜の恐怖を完全に拭い去れていない。
湊はノートをカバンに仕舞い、歩き出した。
「マブイ(魂)が傷を治そうとして、自分を守るための殻を作る……。おばあはそう言ってた。でも、あの黒い影が殻だなんて、まだ信じられないよ」
「守ろうとしてるのに、あんなに怖いの?」
ひかりの声が微かに震える。
彼女は、袖の中に隠した右手を見つめた。
「私、あの時、自分でやったわけじゃないんだ。……熱くなって、勝手に」
「ひかり」
「人を守れたって、湊は言ってくれたけど……怖いよ。私の手、本当はもう、普通じゃないんじゃないかな」
ひかりの掌が、かすかに内側から熱を帯びる。
湊は彼女の震える肩を見て、言葉を探した。
けれど、慰めは嘘になりそうで、喉に詰まった。
「俺にも分からない。でも、あの火は良一さんの奥さんを守った。それは事実だ」
「…………」
「怖いなら、怖いままでいいと思う。俺もまだ、全部怖いから」
海沿いの道を、湿った風が吹き抜ける。
ひかりは黙ったまま、湊の少し後ろを歩き続けた。
彼女の指先が、小さく震えているのが分かった。
◇
学校に着くと、教室の空気はいつも以上に浮ついていた。
朝のホームルーム前、新里風太が真っ青な顔で湊の席に駆け寄ってきた。
「湊、聞いたか? 二年の女子の話」
「……また噂話か?」
湊がそっけなく返すと、風太は声を潜め、周囲を窺うように身を乗り出した。
いつもなら面白おかしく話す彼だが、今日は様子が違う。
「いや、マジなんだよ。ほら、良一さんのことがあった後だろ? 笑えないんだよ、こういう話」
「何があったんだ」
風太はスマートフォンを握り直し、言葉を続けた。
「二年の仲村美咲って子がいるだろ。SNSに自撮りをいっぱい上げてる子。あいつ、昨日から放課後の教室でずっとインカメラを見つめてるらしいんだ。……泣きながらさ」
「泣きながら、自撮りをしてるってことか?」
「違うんだよ。本人は泣いてるのに、スマホの画面の中の顔だけ、笑ってるんだってさ」
湊の心臓が、一拍分、強く脈打った。
昨夜見た、窓ガラスの影を思い出す。
現実と、映るものの乖離。
「取り上げようとした奴がいたんだけど、その指に黒い煤みたいな跡がついたらしい。それに、あいつの投稿、消したはずのやつが勝手に戻ってきたり、誰も押してないのに投稿ボタンが光ったりしてるんだって」
風太は怯えたように、窓の外へ視線を逃がした。
「加工しすぎって笑うレベルじゃないだろ。スマホ怖すぎるって。俺、もうガラケーに戻そうかな……」
湊は、カバンの中のノートを意識した。
あのひび割れのような線。
そして、黒い滲み。
潮の匂いが、教室の窓から忍び込んできた。
それは不自然に凝縮された、停滞した水の匂いだった。
◇
昼休み、湊とひかり、そして風太は、二年生のフロアに向かった。
風太が得た情報によれば、仲村美咲は、旧校舎に近い空き教室に一人でいることが多いという。
廊下の突き当たり、日光が届かず街灯のような白い蛍光灯が瞬いている場所。
古びた木の扉の隙間から、一筋の、青白い光が漏れていた。
湊が扉を引く。
古い木の匂いと、電子機器が発する独特の乾いた熱が混ざり合っていた。
教室の隅。机を一つだけ窓際へ運び、仲村美咲は座っていた。
彼女は、取り憑かれたようにスマートフォンの画面を覗き込んでいる。
「仲村さん……?」
ひかりが、努めて穏やかに声をかけた。
美咲は反応しない。
ただ、画面をスワイプする指だけが、機械的に動いている。
湊たちは、ゆっくりと彼女に近づいた。
美咲の顔は、酷くやつれていた。
目の下には隈が張り付き、唇は乾いている。
そして、彼女の頬を、絶え間なく涙が伝っていた。
しかし、彼女が握りしめるスマホの画面に映る「仲村美咲」は――。
◆
一点の曇りもない笑顔を浮かべていた。
加工フィルターによって引き伸ばされた大きな瞳。
現実にはあり得ないほど滑らかな肌。
画面の中の彼女は、幸せそのものといった様子で、瞬き一つせずにこちらを見つめている。
「……なあ、これ、スマホ壊せば終わるやつじゃないのか」
風太が震える声で言った。
湊は答えられなかった。
壊せばいい。
その考えが、いかに危ういかを、良一の件で知ってしまっていた。
「見ないで……」
美咲は、壊れた人形のように呟いた。
視線は画面から離れない。
「この顔じゃないと、だめなの。笑ってないと、また……」
言葉はそこで途切れた。
代わりに、スマホの中の美咲だけが、一拍遅れて口を動かす。
「投稿しないと、私はいない」
ひかりが、いたたまれなくなったように手を伸ばそうとした、その時。
美咲のスマホ画面に、あのノートと同じ「ひび」が走った。
バキ、という乾いた音が、静かな教室に響く。
だが、スマートフォンの表面に傷はない。
ひびは、映像の内部だけで増殖し、美咲の顔を格子状に分断していく。
ひびの隙間から、黒い泥のようなものが滲み出していた。
それは影となって、画面から溢れ出し、美咲の手首にまとわりつく。
「やめて……消さないで……!」
美咲が叫ぶ。
彼女がスマホを手放そうと指を離した瞬間、画面の中の「もう一人の美咲」の手が、液晶の境界線を越えて伸びてきた。
黒い指の痕が、美咲の白い手首に、くっきりと浮かび上がる。
現実に、肉を掴む圧力がそこにある。
「っ……!」
湊が駆け寄ろうとした時、視界の端で何かが動いた。
教室の窓辺。
いつの間にか、オッドアイの猫――ナギサが座っていた。
ナギサは湊を見ない。
美咲を見ない。
ただ、彼女の持つスマートフォンの、その背後の一点を見つめていた。
湊は、美咲のスマホ画面を覗き込んだ。
インカメラの映像。
美咲の背後に、誰もいないはずの場所に、黒い人影が立っていた。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、湿った風がカーテンを揺らしているだけだ。
画面の中の「影」は、美咲の肩に手を置いている。
それは守っているようにも、獲物を値踏みしているようにも見えた。
画面が激しく明滅する。
一瞬だけ、湊自身の顔が画面に映り込んだ。
湊は息を呑んだ。
画面の中の自分の胸元に、どす黒い、蠢くような刻印が刻まれていたからだ。
あの日、影に貫かれた、あの場所。
心臓の奥にある、あの消えない冷たさ。
「湊、下がって!」
ひかりが叫ぶ。
彼女の掌が、内側から熱を帯びた。
赤橙色の小さな火が、指先に灯りかける。
けれど、ひかりは反射的にその手を強く握り込んだ。
「やだ……今は、出ないで……!」
火は消えた。
それでも、美咲の手首を掴んでいた黒い影は、一瞬だけ怯んだように指を離した。
ひかりは自分の手を抱え込み、後ずさった。
彼女の顔は、自分の中から湧き出ようとする力への恐怖で引き攣っている。
美咲は崩れ落ちるように床に膝をついた。
手の中のスマートフォンは、まだ青白い光を放ち続けている。
湊は、トヨおばあの言葉を思い出した。
――マブイは、傷を治そうとして殻を作る。
――けれど、帰る場所を見失うと、殻が本人を閉じ込めてしまう。
この子を閉じ込めている殻は、あの加工された笑顔なのか。
それとも、あの笑顔に逃げ込まなければならなかった「傷」の方なのか。
「仲村さん」
湊は名前を呼ぼうとして、言葉を飲み込んだ。
まだ、届かない。
彼女が何に傷つき、どこへ帰りたがっているのか、今の自分には分からない。
ふと、美咲が落としたスマホケースの裏側に、目が留まった。
プラスチックの表面に、丸く、冷たい痕が残っている。
あの月の痕だ。
昨夜、良一の家の畳に残っていたものと同じ、不気味な白さを湛えた痕跡。
それが、スマホの熱を奪うように、そこにあった。
湊がその痕に触れようとした瞬間。
美咲のスマホが、一際強く発光した。
通知音が、不協和音となって教室に響き渡る。
誰も押していないはずの画面に、新しい投稿の確認画面が浮かび上がる。
『本当の私を見て』
キャプションには、そう記されていた。
しかし、そこに添えられた写真は――。
顔のない、真っ黒な影が、こちらに向かって手を伸ばしている姿だった。
◇
夕暮れの名護市街。
海沿いの国道を走る車の音が、遠くから湿った空気を通って聞こえてくる。
湊たちは、美咲を保健室に送り届けた後、校門の前に立っていた。
美咲は最後までスマートフォンを離そうとしなかった。
養護教諭が取り上げようとすると、彼女は異常なまでのパニックを起こし、「消さないで」と泣き叫んだのだ。
「でーじ変だよ。何なんだよ、あれ……」
風太が、自分の腕を擦りながら言った。
彼はもう、軽口を叩く余裕さえ失っている。
「あれ、良一さんの時と同じなんだよね、湊」
ひかりが、まだ熱を帯びているであろう右手を、ぎゅっと握りしめて尋ねる。
「ああ。たぶん。……でも、少し違う」
湊は、カバンの中のノートを思い出す。
ひび割れた線。
スマートフォンという、現代の鏡に現れた異常。
「あの子のマブイは、あの画面の中に、自分を閉じ込めようとしてる」
潮の匂いが強くなる。
海風が、放課後の校舎を冷たく撫でていった。
ふと見上げると、校門の塀の上にナギサが座っていた。
ナギサは鳴かなかった。
ただ、保健室の窓を見上げている。
青と金の瞳に、夕方の光だけが静かに沈んでいた。
湊は自分のスマートフォンを取り出した。
画面には、何の異常もない。
自分の、平凡で冴えない顔が映っているだけだ。
けれど。
視界の端。
暗転する直前の液晶画面に。
自分の背後に立つ、黒い影が一瞬だけ、確かに見えた気がした。
湊は息を止めて振り返る。
そこには、夕闇に染まりゆく名護の街並みがあるだけだった。
ただ、風に乗って、焦げたような、微かな煙の匂いがした。
◇
夜。湊は自室で、刻一刻と進むスマートフォンの時計を見つめていた。
23時58分。
23時59分。
鼓動が耳元でうるさく跳ねる。
あの防波堤で、背中から影に貫かれた時の冷たさが蘇る。
肺の奥まで凍りつくような、あの「死」の感触。
時計の数字が無機質に切り替わった。
00時00分。
4月18日。
湊は長く、深く、肺の中の濁った空気をすべて吐き出した。
生きて、明日を迎えた。
ひかりも、今頃は自分の家で眠っているはずだ。
死ぬはずだった「運命の日」を、自分たちは乗り越えたのだ。
けれど。
安堵のすぐ後ろ側に、ぬるりとした違和感がまとわりつく。
本当に、今日が「その日」だったのだろうか。
俺が記憶しているあの日と、今のこの現実は、同じ時間軸にあるものなのか。
湊はカバンからノートを取り出し、新しいページをめくった。
花火の隣にある、液晶のひび割れのような刻印。
その亀裂は、消えるどころか、昨日よりも深く、鮮明に刻まれているように見えた。
「……変わったのか、本当に」
もし。
もし、まだ何も始まっていないのだとしたら。
今日を越えたことで、もっと残酷な「死」の形が用意されているだけだとしたら。
湊はスマートフォンの画面を指でなぞった。
鏡のように自分を映し出す、黒いガラス。
割れていないはずの画面の向こうで、もう一人の自分が、ありもしない「完璧な笑顔」を浮かべているのではないか。
そんな疑念が、暗い部屋の隅に溜まった影のように膨らんでいく。
窓の外、夜の名護を湿った風が吹き抜ける。
遠くで、また何かが爆ぜたような乾いた音が聞こえた気がした。
異変は、終わっていない。
ただ、その姿を変えて、より深く、日常の中に根を張っただけだった。
「死に戻り」の物語は、まだ始まったばかりだった。




