第4話 黒い花火
朝、目が覚めても、昨夜の生々しい感触が指先に残っていた。
島袋家の薄暗い和室、畳の上で意志を持って蠢いた黒。光を吸い込むような火花が散り、煤のような跡を残した、あの異様な光景。
あれは、病気なんかじゃない。
比嘉湊は枕元に置いていたスマートフォンを手に取り、日付を確認した。
4月16日。
胃の奥を冷たい指でなぞられたような、鋭い悪寒が走る。
明日、4月17日は、あの防波堤でひかりが死に、俺も死んだはずの日だ。
島袋さんの異変を止めれば、未来は変わる。けれど、目の前の一日を必死に繋ぎ止めているだけで、予定された終着点へ向かう流れを本当に変えらるのか。
焦燥が、湿った朝の空気に混じって肺に沈み込む。
鞄の中から一冊のノートを取り出した。
花火のような模様が描かれた刻印。その火花を模した線の先に、昨日まではなかった黒い点がひとつ、染みのように滲んでいる。まるで、爆ぜる前の不吉な種火のように。
窓の外を見れば、四月の名護の空は不気味なほどに澄み渡っていた。
けれど湊には、その青さの裏側に、粘りつくような闇が透けて見えるような気がしてならなかった。
◇
「湊、昨日の話、まだ終わってないからね」
登校中のバス停、宮城ひかりが湊の前に立ちはだかった。
彼女の瞳には、寝不足の隈と、それ以上に強い決意が宿っている。
「夢の中で私が死んだって言ったやつ。あれ、冗談で済ませるつもりないから」
湊は視線を逸らすことができなかった。ひかりの背後には、キラキラと輝く穏やかな海が広がっている。けれど湊の脳裏には、その砂浜で彼女が光を失っていく光景が、呪いのように焼き付いている。
「冗談じゃないよ。……でも、説明ができないんだ。あの日、防波堤でひかりが影に貫かれて、俺も死んで……それで気づいたら、三日前の教室にいた」
「死に戻りってこと? ……信じられるわけないでしょ、そんなの」
「俺だって、まだ悪夢であってくれって思ってる。でも、島袋さんのことだって……夢で見たあの人と、まったく同じなんだ」
ひかりはしばらく黙って湊を見つめていた。彼女の指が、制服のスカートの端をきつく握りしめている。
「……今日は学校、休もう」
「えっ? ……無断で?」
「あとで怒られればいい。今はそれどころじゃないでしょ。あんたのおばあに会いに行くよ」
湊は小さく頷いた。遅れて現れた新里風太も、二人の重い空気を感じ取って、それ以上軽口を叩くのをやめた。
◇
比嘉家の奥座敷は、古い木の匂いと線香の香りが混ざり合い、ひんやりとした静寂に包まれていた。
湊の出したノートを、比嘉トヨは老眼鏡越しにじっと見つめていた。
最初は、いつもの落ち着いた顔だった。
けれど、花火の刻印の先に滲んだ黒い点を見た瞬間、トヨの指がぴたりと止まった。
黒い点に触れようとして、直前で手を引く。
その仕草を見て、湊の背筋に冷たいものが走った。
トヨおばあが、怖がっている。
「おばあ……知ってるのか?」
トヨはすぐには答えなかった。
老眼鏡を外し、畳の上に置かれたノートを見つめたまま、長く息を吐く。
「知っている、とは言えんね。けれど、似た話は聞いたことがある。あたしが子どもの頃、もっと年寄りたちが、外で軽々しく話すなと言っていた話さ」
トヨは居住まいを正し、静かに語り始めた。
「マブイ(魂)というのはね、人が人としてあるための芯のようなものさ。強い驚きや喪失に遭うと、人はマブイを落とすことがある。昔はね、そういう状態をマブイ落ちと呼ぶこともあったんだよ」
「それなら、名前を呼んで戻せばいいんだよね?」
風太が尋ねる。トヨは、ノートの黒い点から目を離さなかった。
「普通のマブイ落ちならね。でも、良一さんのそれは、もっと深い。……昨日、あんたたちが見たものは、ただの足元の影じゃないさ」
「ただの影じゃないって……どういうことだよ」
風太が眉をひそめる。その声には、恐怖よりも先に、理解できないものへの苛立ちが混じっていた。
「マブイにもね、自分で傷を塞ごうとする力があるさ。人の傷が、放っておいても薄い皮を張るように」
トヨは、黒い点に触れようとして、直前で指を止めた。
「けれど、帰る場所を見失ったマブイは、どこを治せばいいのか分からなくなる。守るために作った殻が、逆に本人を閉じ込めることがあるんだよ。あんたたちは、それを影と呼ぶしかなかったんだろうね。でも、あれは本当の影じゃない。壊れかけたマブイが、外側にまとった殻みたいなものだよ」
「殻……?」
ひかりの声が震えた。
「良一さんはね、亡くした息子さんと見た花火の記憶へ帰りたいんだろうね。でも、息子さんはもういない。そこには、もう帰れない」
座敷の空気が、さらに冷えた。
「帰りたいのに、帰れない。その矛盾と苦しみが、良一さんのマブイを傷つけている。傷を塞ごうとしているのに、帰る場所が分からない。そのせいで、マブイが壊れながら外側にまとった殻が、黒く厚くなっているんだよ」
「あんなに真っ黒でもね、良一さん自身のマブイから生まれたものには変わりないさ。無闇に傷つけたら、あの人はもう戻ってこられんはずよ」
トヨは、低い声で続けた。
「あんたたちが相手にするのは、ただの化け物じゃない。壊れかけた人の心そのものなんだよ。この島に大きな喪失があった時代、似た話があったと聞いたことがある。でも、こんなふうに現れるものを、今の時代に見るとは思わんかった」
「じゃあ、あれを攻撃したら……」
風太の顔から血の気が引いた。
「良一さんの傷を、もっと深くする」
トヨは静かに言った。
「だから、力任せに消せばいいものじゃない。名前を呼ぶのは、その奥に残っている本人へ、帰る場所や記憶を教えるためさ。それがマブイグミ(魂込め)だよ。ただし、誰の声でもいいわけじゃない。その人が、本当に帰っていいと思える場所から呼ばれなければ、声は届かんよ。」
トヨは視線を上げ、ひかりを見つめた。
「マブイにもね、人によって、受けやすい加護があると言われているさ。
火の加護を受ける子、潮の音に守られる子、風の気配に助けられる子……みんな同じじゃない。
でも、それは誰にでも表に出るものじゃないよ。
普段は、マブイの奥に静かに眠っているだけさ。
命が危ない時や、大切なものを失いそうになった時に、心より先にマブイが震えて、その子に近い加護がふっと応えることがある」
「火の加護……って、私に?」
ひかりが困惑して聞き返す。
「そういえば、うちのおばあも変なこと言ってた。
法事で線香をあげるとき、あんたの前では火が消えにくいから不思議だねって。
あとは……ひかりは火ぬ神に好かれた子だって、よく言われてた」
「それは、ただの偶然とは言い切れんね。
あんたは、ヒヌカンの守りを受けやすいマブイなのかもしれん。
……でも、勘違いしちゃいけないよ。
加護は、好きな時に使える力じゃない。
守らなきゃいけない時、帰らなきゃいけない時、マブイが先に気づいて応えるものさ。
あたしが知っているのは、昔の人が残した言葉だけ。
これで本当に届くかは分からん。
でも、名前を呼ぶことだけは、間違っていないよ」
トヨの話は、湊たちが思っていたより長く続いた。
気づけば、障子越しの光は昼の白さを失い、夕方の赤みを帯び始めていた。
ドォン……。
窓の向こう、東江の方角から、腹に響くような低い振動が届いた。
それは空気が震えるような不気味な音だった。
「おばあ、これ……!」
「行きなさい。良一さんのマブイが、帰る道を見失って暴れている。……いいかい、奥さんに、良一さんの名前を呼ばせなさい」
◆
東江の住宅地に着いた頃、辺りはすでに黄昏に沈んでいた。
島袋家の屋根の向こう、夕暮れの空の一部が、墨をぶちまけたように黒く弾けていた。
本物の花火ではない。
音もなく、ただ黒が空に広がり、火花のような闇の破片がパラパラと家々の上に降っている。
「なんだよ、あれ……空が腐ってるみたいだ」
風太が声を震わせる。島袋家からは、良一の妻の悲鳴が聞こえてきた。
半開きの玄関の奥で、和室から廊下へ向かって黒い火花がパチパチと飛び出した。湊は考えるより先に、玄関を越えていた。
「島袋さん!」
和室の中は異様な光景だった。
畳の上で、黒い影が剥がれ落ちるように部屋全体へと広がっている。
良一は座ったまま、焦点の合わない目で空を仰ぎ、うわ言を繰り返している。
「陽太……今、行くからね……。一緒に……花火、見ようね……」
パチッ、パチパチッ!
黒い殻の表面から、火花が次々と弾け飛ぶ。それは良一を抱きしめて泣き崩れている妻をも飲み込もうとしていた。
「危ない!」
ひかりが反射的に前に出た。
黒い火花が、彼女の顔を掠めようとした瞬間――。
「……ッ!」
ひかりの掌が、内側から熱を帯びた。
熱い。けれど、痛くない。
本人の意思とは無関係に、赤橙色の小さな火が指先で揺れた。
その小さな灯火は、飛来した黒い火花をパチンと弾き飛ばし、霧散させた。
「私じゃない……。今の、何……!」
ひかりが混乱に陥った隙に、天井から巨大な影の塊が滴り落ち、良一の妻を押し潰そうとする。
「させない!」
叫んだものの、ひかり自身にも何が起きるのか分からなかった。
それでも、身体は危機に反応して勝手に前へ出ていた。
指先に灯った赤橙色の火が、黒い火花をかすかに弾き返した。
「名前を呼んでください!」
湊が叫んだ。
「名前を呼んで! 良一さんが、自分の場所に戻ってこられるように! 帰る場所を教えるために呼ぶんです!」
妻は最初、恐怖で震えるばかりだった。けれど、黒い影の奥で良一が陽太とうわ言を漏らした瞬間、妻の表情が崩れた。
彼女は夫の肩を抱き寄せ、震える声で名前を呼んだ。
「……良一……良一さん! 帰ってきて!」
マブイの殻が、怒ったように激しく波打った。
ひかりの指先に灯る火が再び一瞬だけ弾け、影の侵食を辛うじて押し止める。
「良一! 陽太だけじゃないの、私もここにいるのよ! 良一!」
妻の叫びが和室に響き渡った瞬間、良一の指がわずかに動いた。
影が、目に見えて縮んでいった。
「……う、あ……」
良一の口から、弱々しい溜息が漏れた。
彼はそのまま、崩れるように妻の胸の中へと倒れ込んだ。
◇
嵐が去った後のような静寂が、島袋家に訪れた。
良一は再び深い眠りについていた。
ひかりは、縁側に座り込み、自分の右手を見つめていた。
「……私、どうかしちゃったのかな」
その弱々しい言葉に、湊は胸を締め付けられた。
「化け物なんかじゃない。俺にも、何が起きたのか全部は分からない。でも、あの火は島袋さんたちを守った。少なくとも、それだけは本当だ」
湊は鞄の中のノートに手を触れた。
開くと、そこには新しい模様が刻まれていた。
花火の刻印の上に、小さな、弾けたばかりの黒い花火のような点。
その周囲を囲うように、赤橙色の火花が散ったような、細い、けれど力強い線が走っている。
ふと視線を落とすと、良一が座っていた畳の上に、小さな跡が残っているのに気づいた。
それは、ひかりがつけた焦げ跡ではない。
丸く見えたが、よく見ると端が欠けている。
輪郭のぼやけた、冷たい三日月のような痕。
湊が触れようと指を近づけると、胸の奥にある空白が、ひどく冷たく凍りついたような感覚に襲われた。
これは、良一さんの喪失だけでは説明できない。
湊の中に、底知れない不安が芽生えた。
◇
島袋家を出た時、塀の上にナギサがいた。
ナギサは、湊を見ようとはしなかった。
猫の視線は、島袋家の奥座敷の方へ、正確に向けられていた。
帰り道、三人は無言だった。
名護の夜風は、先ほどまでの熱気が嘘のように冷たい。
湊は、島袋家に背を向けた。
逃げるためではない。
まだ終わっていないものを、見過ごさないために。
ふと、近くにある民家の窓ガラスが目に入った。
夜の闇を映すガラスの中で、湊たち三人の背後に、もう一人分の影が立っていた。
制服の裾だけが、夜風もないのに、ゆらりと揺れている。
湊が驚いて振り返った時、そこにはただ、街灯に照らされた無人の夜道が広がっているだけだった。
視線を戻せば、ガラスには細いひびの痕だけが残っている。
映るものの向こう側。
ひび割れた顔。
今日を越えても、明日は来る。
4月17日。
あの防波堤へ続く時間は、もう、止められない。
次の異変は、すぐそこまで、音もなく近づいていた。




