第3話 花火の父親
心臓が、まだ熱い。
朝の光が容赦なく差し込む教室で、比嘉湊は自分の胸元を無意識に押さえていた。
制服の白いシャツ越しに触れる肌には、傷一つない。生臭い血の匂いもしない。
だが。
あの防波堤で影に貫かれた瞬間の、灼き切られるような熱い痛み。
直後に訪れた、全身の体温が急速に奪われていく凍えるような感覚。
それが細胞の隅々にまでこびりついている。
あれは、本当に夢だったのだろうか。
今日、4月15日。
ひかりが死ぬはずだった、あの4月17日まで、あと二日しかない。
時間は確かに戻った。
けれど、その二日間で何ができるのか。
迫りくる「死の記憶」と、変わらない日常の歪みに、湊の指先が小さく震えた。
湊は、机の上に置いたノートを、おそるおそる開いた。
昨日の放課後、自分が書いた覚えのないページ。
そこには、細く鋭い線が幾重にも重なり、夜空に弾ける直前の花火のような模様が刻まれていた。
ペンの芯が、意思を持ってのたうち回ったかのような、激しい火花の軌跡。
開ききる前に崩れ落ちた、打ち上げ花火の無惨な姿。
その中心に、火種のような小さな黒い点が、不気味に居座っている。
インクで描かれているはずなのに。
湊にはそれが、黒く焦げる直前の火花の跡――剥き出しの刻印のように見えた。
ノートの紙が、見えない熱でじりじりと焼かれているような錯覚。
湊は吐き気をこらえ、慌ててページをめくってそれを隠した。
「湊? あんた、さっきから顔色でーじ悪いよ。大丈夫ね?」
隣の席から、宮城ひかりが心配そうに覗き込んできた。
彼女は生きている。
湊の目の前で光を失い、崩れ落ちたはずの少女が、今は瑞々しい瞳を真っ直ぐに湊に向けている。
その事実があまりにも眩しくて、湊は一瞬、眩暈を覚えた。
「……ああ、悪い。ちょっと、昨夜あんまり眠れなくてさ」
「嘘。あんた、さっきからずっと胸のところ押さえてる。心臓でも痛むわけ?」
ひかりの観察眼は鋭い。
湊は慌てて手を離し、机の下で拳を握りしめた。
言えるはずがなかった。
君が死ぬ悪夢を見たなんて。
その死の直前、時間が三日前に巻き戻ったみたいなんだ、なんて。
あと二日。
それを過ぎれば、またあの光景が繰り返されるのだろうか。
教室の入り口が騒がしくなり、新里風太が飛び込んできた。
いつも通りの軽い足取りだが、その表情には隠しきれない困惑と、得体の知れないものを見た後のような落ち着かなさが混じっている。
風太は湊たちの席へ駆け寄ると、椅子を逆向きに引いて座り、声を潜めた。
「……湊、ひかり。例の東江の件、ちょっとヤバい話になってるぞ」
「東江……防波堤で倒れたっていう人のことか?」
湊の声が、自分でも驚くほど低く震えた。風太は何度も頷く。
「そう。島袋良一さん。この近くで運送業やってるおじさんなんだけどさ。昨日病院に運ばれた時は、検査してもどこも悪くないって言われて、すぐ帰宅したらしいんだ。でも、それから一言も喋らなくなったんだって。ただのショックとかじゃない、なんか『中身が抜けた』みたいになってるって、近所の人がでーじ怖がってた」
抜け殻。
中身が抜けた。
その言葉が、湊の脳裏にある光景をフラッシュバックさせた。
防波堤でうずくまっていた、あの男。
彼を取り巻いていた、あの粘りつく泥のような、意思を持つ闇。
「……その島袋さんの家、風太なら場所わかるか?」
「えっ? 行く気かよ、湊。お見舞いに行くような仲じゃないだろ。親戚でもないしさ」
「どうしても、確かめたいことがあるんだ。あれが、ただの夢じゃなかったら……俺たちが、いや、俺が何かに巻き込まれてるんだとしたら」
湊の切迫した視線に、風太は気圧されたように黙り込んだ。
ひかりは湊の横顔をじっと見つめていたが、やがて小さく溜息をついた。
「わかった。私もついていく。湊、あんた昨日からずっと変だよ。あの防波堤のことだって、なんでニュースになる前に知ってたの? 全部、ちゃんと説明してもらうからね」
ひかりの強い瞳に、湊はただ頷くしかなかった。
◇
放課後の東江。
住宅地には、潮の匂いを含んだ重く湿った風が吹き抜けていた。
観光地としての明るい喧騒からは切り離された、生活の匂いが染みついた場所だ。
コンクリート造りの古い平屋が並び、路地の隅には黒ずんだサンゴの石積みが残っている。
夕陽が傾き始め、建物の影が地面に長く、病的に伸びている。
その黒い影が、自分の足元をかすめるたびに、湊は心臓を掴まれるような感覚に陥った。
「ここだよ」
風太が立ち止まったのは、手入れの行き届かない植木鉢が並ぶ、静かな家だった。
島袋家。
対応に出た良一の妻は、最初は不審げな表情を浮かべていたが、高校生たちが「防波堤で倒れていたところを目撃して、心配で……」と告げると、表情を崩して力なく肩を落とした。
「……わざわざ、ありがとうね。でも、主人は今、誰が来ても分からんはずよ」
家に上がると、古い畳の匂いと、微かな線香の香りが混ざり合った独特の空気が鼻をついた。
廊下を進む湊の足元で、古い床板が小さく鳴る。
突き当たりの和室。
薄暗い部屋の真ん中で、島袋良一は座っていた。
◆
良一は、じっと床を見つめたまま動かなかった。
呼びかけに応じる気配は微塵もない。
瞬きすら忘れたかのような、焦点の定まらない瞳。
その肉体は確かにそこにあるのに、存在感だけが希薄で、まるで透けて消えてしまいそうな危うさがあった。
「主人は、元々は本当に明るい人だったのよ」
良一の妻が、絞り出すような声で言った。
彼女は仏壇の横に置かれた小さな写真を愛おしそうに見つめる。
そこには、小学校低学年ほどの少年が、夜空に咲く大きな花火を背景に、満面の笑みを浮かべている姿があった。
「あの子……一人息子の陽太が、名護の花火がでーじ大好きでね。主人は毎年、車を飛ばしてあの子を連れて行くのが自慢だった。……でも、五年前。あの子が病気で急に逝ってしまってから、主人の心はあの日から帰ってこれなくなってしまったみたいで」
彼女は、祈るような手つきで、傍らにあった古ぼけたテレビのリモコンを手に取った。
「もうすぐ、名護の花火の時期でしょう? 本当なら、陽太が一年で一番楽しみにしていた頃でね。最近はこうして昔の映像を流すと、少しだけ反応がある気がして」
ビデオレコーダーが低い唸りを上げ、古い映像が再生された。
画面の中で、夜空に大輪の光が弾ける。
ドォォォォン、という、古いマイクが拾いきれなかったような割れた重低音が、静かな和室に響き渡った。
その瞬間だった。
「……っ!?」
風太が、短く息を呑む音が聞こえた。
良一の身体は、相変わらず石のように動かない。
だが、彼の足元――畳に落ちた影が、小さく震えた。
震えたのは、身体ではなかった。影の方だった。
黒い輪郭が、花火の光に合わせて、一拍遅れて脈を打つ。
照明の位置は変わっていない。良一自身も動いていない。
それなのに、足元の黒い影だけが、意志を持った生き物のようにぐにゃりと歪み、畳の上で波打っている。
パチッ、と。
テレビのスピーカーからではない。
良一の足元、畳のすぐ上で、何かが爆ぜるような乾いた音がした。
影の縁から、黒い火花が一つだけ飛び散った。
それは光を吸い込むような暗闇の欠片だ。
一瞬だけ畳の上でバチバチと跳ね、煤のような黒い跡を残して消えた。
「なっ、何……今の……? 影から火花、出たぞ!」
風太が叫び、腰を浮かす。
同時に、それまで静止していた良一の肩が、小さく震え始めた。
「良一さん! ちょっと、どうしたの!? しっかりして!」
良一の妻が悲鳴を上げて駆け寄り、夫の肩を抱きしめた。
良一は喉の奥から「カ、カッ……」と、空気が漏れるような掠れた音を出し、わずかに顔を歪める。
「陽太……ごめんね、陽太……」
うわ言のように息子の名前を呼びながら、良一は苦しげに息を吐く。
その首筋に、一瞬だけ、血管とは違う薄い線が浮き出たのを湊は見逃さなかった。
「これ、ただの発作じゃないよ。風太、一応、救急車……」
湊の言葉に、風太が震える手でスマホを取り出し、通報画面を開いた。
だが、それを見た良一の妻が、悲鳴のような声で叫んだ。
「呼ばないで……お願い! 昨日も病院に行ったばかりなの! あそこは何も分からないって、ただ帰されただけだったのよ!」
彼女の声は怒りではなく、ほとんど泣き叫ぶような祈りだった。
もう一度どこかへ連れ去られたら、今度こそ夫が二度と戻ってこない。
追い詰められた家族の、歪な、けれど切実な拒絶だった。
良一の震えは影に呼応するように続き、和室の空気が不自然に冷え切っていく。
「でも、これ、火花が……畳が焦げてますよ!」
ひかりが畳を指さすが、良一の妻は聞く耳を持たない。
「帰って! もういいから、みんな帰ってちょうだい! 陽太と三人で静かにさせて!」
彼女は半狂乱で高校生たちの背中を押し、部屋から追い出そうとする。
◇
玄関へと押し出される間際。
湊は最後にもう一度だけ、和室を振り返った。
その時だ。
良一の首が、ゆっくりと動いた。
焦点の合わない、死人のような瞳が、なぜか湊だけを真っ直ぐに捉えた。
「……お前、も」
乾いた声が、喉の奥から漏れた。
「……落としたの、か」
湊の思考が、一瞬で凍りついた。
背筋を、氷のような冷たい汗が伝い落ちる。
落とした?
何を?
だが、湊の胸の奥にある、あの「何か大切なものを忘れている」という感覚――常に冷たい風が吹き抜けているような、あの広大な空白が、その言葉に激しく共鳴していた。
「湊! 早く!」
ひかりに腕を強く引かれ、湊は弾かれたように島袋家を飛び出した。
バタン、と勢いよく扉が閉まり、内側から鍵をかける重い音が響く。
直後、家の中から「良一さん! お願い、起きて!」という、しがみつくような泣き声が漏れてきた。
◇
外に出た湊たちは、あまりの恐怖と混乱に、しばらく言葉を失って門扉の前に立ち尽くした。
夕暮れの冷たい風が、汗ばんだ首筋を撫でる。
「……何だよ、これ。どうすればいいんだよ」
風太が、震える指でスマホを握ったまま呟いた。
「通報はした。けど……湊。やっぱり、これ病気とかじゃないよな」
「……ああ。たぶん、医者にはあの影が見えていないんだ」
湊は、自分の震える指先を見つめた。
あの影の正体をどうにかしないと、島袋さんは助からないんだ。
「湊、あんた……あの影、やっぱり見えてるんだね」
ひかりが湊の肩を掴み、真っ直ぐに湊の目を見た。その瞳は潤み、恐怖に揺れている。
「昨日からずっとそう。あんた、何か知ってるんでしょ。……あの火花も、ただの静電気なんかじゃないってこと」
「……俺が見た夢の中で、あんたは……ひかりは、あの影に貫かれたんだ」
湊は、絞り出すように言った。
「だから俺は、あの影がひかりに近づくのだけは、絶対に嫌なんだ」
ひかりは息を呑んだ。
湊の言葉に含まれた、重すぎる罪悪感と切迫した響きに、彼女は言葉を失った。
あと二日。
俺は本当に、あの運命を変えられるのか。
その時。
湊は、島袋家の塀の上に、一匹の猫が座っているのに気づいた。
夕闇の中で、左右で色が違うオッドアイを不気味に光らせる猫――ナギサだ。
ナギサは、湊を見ていなかった。
その視線は、島袋家の屋根の向こう。
夕闇の中で、普通なら何も見えないはずの、空の一点に鋭く注がれていた。
そこに、何かがある。
けれど、今の湊たちには、それを見る力も、対抗する術もなかった。
猫は鳴かなかった。
ただ、湊たちを一瞥することもなく塀から飛び降りると、夕闇の路地の奥へと消えていった。
湊は、鞄の中でノートがかすかに「鳴った」ような気がした。
紙が擦れる音ではない。震えているのだ。
湊は震える手で、ノートを取り出し、ページを開いた。
花火の刻印の先に、昨日まではなかった、小さな黒い点が滲んでいた。
まるで、打ち上げられる前の花火のような。あるいは、何かの穴のような、不吉な黒い点。
「……明日、トヨおばあに聞く」
そう言うのが、今の湊にできる精一杯だった。
名護の伝説や、古い伝承に詳しいあの老婆なら、この「影」の正体について、何か知っているかもしれない。
名護の街に、夜が訪れる。
それは、ただの静寂ではない。
形を変え、意志を持った「黒」が、音もなく街を、そして人々の心の隙間を侵食し始める夜の始まりだった。
島袋家の奥から、かすかな破裂音が聞こえた。
パチッ。
まるで、消え残った火花が、畳の上でまだ息をしているような不気味な音だった。
湊の中にある空白と、島袋良一が残した「落としたのか」という言葉。
そして、あと二日で訪れる「死」の予感。
湊は、島袋家に背を向けた。
逃げるためではない。
二日後の防波堤。そこで繰り返されるはずの結末を、今度こそ引き裂くために。
ふと、近くにある民家の窓ガラスが目に入った。
夜の闇を映すガラスの中で、湊たち三人の背後に、もう一人分の影が立っていた。
制服の裾だけが、夜風もないのに、ゆらりと揺れている。
湊が驚いて振り返った時、そこにはただ、街灯に照らされた無人の夜道が広がっているだけだった。




