屋上の独り言
昼は結局、凛の言った通りいつもの場所で食べた。卵焼きを2切れ取られて、唐揚げの話を1回された。それだけだ。
放課後のホームルームが終わると、教室から人が減っていく。桐生は「部活遅れる」と言いながら鞄も持たずに走っていった。つぐみはひなたに呼ばれて、二人で先に出ていく。廊下でひなたが何か言って、つぐみが笑う声が遠ざかっていった。
隣の席で、凛が教科書を鞄に入れている。
「今日、真っ直ぐ帰る?」
「ああ」
「......そう」
凛はそう言って、鞄の口を閉めた。閉めてから、また開ける。中を確認するみたいに覗き込んで、それからもう一度閉めた。
「どうかしたか」
「......図書室、寄る」
「じゃあ待ってるよ」
「......昇降口でいい」
凛は立ち上がって、先に教室を出ていく。扉のところで一度足を止めて、何か言いかけた。だが結局そのまま出ていった。
誰もいなくなった教室で、俺は自分の机に頬杖をついたまま座っている。日直が消し忘れた黒板の隅に6限の英語の例文がまだ残っていた。
後ろの扉が開く。
「おー、まだいた」
振り返ると、体操着姿の桐生が首だけ突っ込んでいる。
「部活だろ、お前」
「ボール取りに来ただけ。ロッカーに入れっぱなしだったんだよ」
桐生は教室の後ろのロッカーを開けて、バスケットボールを1つ引っ張り出した。それを小脇に抱えて、また扉の方へ戻っていく。
「じゃあな」
「おう」
扉が閉まる。廊下を走る足音が遠ざかっていった。用件はそれだけだったらしい。
俺は鞄を持って立ち上がった。廊下に出ると、掃除当番がまだモップを引きずっている。俺はその横を通って、階段の方へ歩いた。
昇降口は1階だ。下りればいい。
なのに足は上の段を踏んでいた。2階の踊り場で一度止まって、それからまた上った。3階を過ぎる。4階も過ぎる。その先はもう屋上しかない。
屋上への階段は薄暗かった。踊り場の窓から入る夕方の光だけが、段の縁を照らしている。文化祭の日もこの明るさだった。あの日は上の方から音楽が漏れていて、俺はそれを頼りに上った。
鉄の扉のノブに手をかける。文化祭の日、ここは開いていた。本当は施錠されているはずの扉だ。
押すと、今日もあっさり開いた。
誰もいない屋上に、秋の風が吹き抜けている。給水塔の影がコンクリートの上に長く伸びていた。排水口のところに落ち葉が溜まって、風が来るたびに数枚が浮き上がる。
フェンス際まで歩いて、そこに手をかけた。眼下の校庭では部活の生徒たちが走っている。声はここまで届くのに、内容までは聞き取れない。
あの日、凛はこのフェンスに寄りかかって空を見ていた。
「怖い。また、いなくなるかもしれないのに」
凛はあの時、この位置に立っていた。フェンスの継ぎ目のところだ。俺は今、同じ場所に手をかけている。
「俺はどこにも行かねえよ」
自分が返した言葉も、そのまま残っている。
あの日は下の階から文化祭の音楽が上がってきていた。今日は何も聞こえない。校庭で誰かが号令をかけて、それに応える声が重なるだけだ。
空を見上げる。秋の空は高く、雲一つない青が広がっていた。
フェンスを握る手に、少しだけ力がこもる。金網が指の腹に食い込んで、跡になった。
「俺は」
そこで喉が止まった。続きは頭の中にある。あるのに、口の形が作れない。
息を吸い直す。
「俺は、秋月のことが好きだ」
言い終わってから、扉の方を振り返った。誰もいない。給水塔の陰も見た。誰もいない。
そこまで確認して、自分が何をやっているのかと思った。
声は小さかった。風の音の方が大きいくらいだ。それでも、耳の後ろが熱くなっている。
もう一度言ってみる。2回目は、喉に引っかからずに出た。
フェンスに額を当てる。金網は冷たかった。校庭では誰かがまだ号令をかけている。俺の声はそこまで届いていない。届いていないと分かっているから、言えた。
風が吹いて、前髪が持ち上がる。俺は鞄を持ち直して、屋上の扉へ歩き出した。
階段を降りる。踊り場の窓から夕方の光が入っていて、下りの段だけが明るかった。手すりを一段ずつ滑らせながら、さっきの2回を頭の中でもう一度なぞる。
昇降口に着くと、下駄箱の前で凛が待っていた。図書室から借りたらしい本を、鞄の外側に挟んでいる。
「......遅い」
凛が俺の顔を見て、少し不満げに小さく言った。
「悪い、ちょっとだけ考え事してた」
「......どれくらい待ったと思ってるの」
「どれくらい」
「......けっこう」
数字は言わない。俺は自分の下駄箱を開けながら、凛の鞄に目をやる。図書室に寄ると言っていたはずだが、鞄は行きと同じ厚みのままだった。
「本、借りなかったのか」
「......借りた」
「入ってなくないか、それ」
「......返しに行っただけ」
さっき借りたと言った気がしたが、凛はもうこっちを見ていない。上履きの底で、タイルの目地を意味もなくなぞっている。
俺は追及するのをやめた。
「......迷ったの?」
俺の方向感覚を疑う理由が、この人のどこにあるのか。
「迷わねえよ」
下駄箱の扉を閉める。その音が昇降口に響いた。
「もう」
付け足した一言に、凛が顔を上げる。
「......何それ」
「別に」
俺は先に外へ出た。凛は少し遅れて、鞄の紐を握り直しながら隣に並んでくる。
しばらく黙って歩いた。街路樹の葉が色づき始めていて、風が吹くたびに何枚か落ちてくる。凛が肩に乗った1枚を、指でつまんで捨てた。
「明日の弁当、何がいい」
俺が聞くと、凛は少し考える顔をした。
「......唐揚げ」
「昨日も言ってただろ、それ」
「......今日も言った」
「知ってるよ」
「......作らないの?」
「作るって言ってねえだろ、まだ」
横を見ると、凛が俺を見上げていた。目が合って、すぐに前へ戻される。
「作るよ」
「......最初からそう言えばいい」
「お前が催促するからだろ」
「......催促してない」
してた。だが言い返すのはやめておく。凛は鞄の紐を握り直して、歩く速さを少し上げた。俺は半歩ぶん遅れて、それを追う。
凛が口の中で何か言った。風で聞き取れない。聞き返そうとして、やめる。
駅までの道を、いつもと同じ歩幅で歩いていく。俺は隣の横顔を見ないようにしながら、明日の朝は鶏もも肉を何グラム解凍するかを考えていた。




