いつも通りの笑顔
翌朝、目が覚めても体が重かった。昨日の公園でのやり取りが頭の中で何度も再生される。ひなたのあの笑顔が本当にあれで良かったのか、まだ分からないままだった。
朝食も、ほとんど喉を通らなかった。ご飯を半分残して箸を置くと、母さんがこっちを見た。
「食欲ないの?」
「別に、いつも通りだ」
「ふーん。ひなたちゃんとケンカでもした?」
箸を置いた手が止まる。
「なんでそこでひなたが出てくるんだよ」
「なんとなく。あんたが変な時は大体そこでしょ」
母さんはそれ以上追及せず、テレビの朝のニュースに視線を戻した。天気予報が今日の最低気温を読み上げている。台所からは味噌汁のいい匂いが漂ってきていた。
支度を済ませて家を出る。隣の家の前を通ると、凛の姿はもうなかった。玄関先の自転車も消えている。先に出たのか、行き違ったのか、判断がつかない。
昨日、公園に呼び出したことを、凛は知らないはずだった。だが今日、教室でどんな顔をして会えばいいのか、俺自身まだ整理がついていなかった。
駅までの道で、途中の信号を2回とも待つことになった。電車に乗っても、窓の外の景色に目の焦点が合わない。周りの乗客たちの話し声も、どこか遠くのことのように聞こえる。
学校の最寄り駅に着いて、校門へ向かう道を歩く。校門が見えてきたところで、見慣れた小柄な人影が目に入った。
ひなただった。
俺は思わず足を止めそうになる。昨日のあの涙を知っているだけに、今日どんな顔で会えばいいのか、まるで見当がつかなかった。校門の周りには他の生徒たちも集まり始めていて、朝の挨拶を交わす声があちこちから聞こえてくる。
ひなたは俺に気づくと、大きく手を振ってくる。
「そうくん、おはよ!」
その声は、いつもと寸分違わない明るさだった。栗色のショートボブが朝の光を受けて揺れている。制服のリボンも、きっちり結ばれていた。
俺は一瞬、息を呑んだ。昨夜、あんなに泣いていたはずなのに、その痕跡はどこにも見当たらない。
「......おう、おはよ」
俺はどうにかそれだけ返す。ひなたは小走りで隣に並んできた。
「ねえ、今日、寒くない? そうくん、上着薄くない?」
「別に、これくらいの寒さなら平気だって」
「ねえ、そうくん、これからの季節、絶対に風邪引かないでよね」
ひなたはそう言って、軽く俺の背中を叩く。鞄の上を平手が鳴らして、乾いた音が朝の空気に響いた。
「そうくん、今日部活は?」
「今日はちょうど休みだ、たまたま」
「じゃあ帰り、久しぶりに一緒に帰れるじゃん」
俺は小さく頷くだけで精一杯だった。周りを行き交う生徒たちの声が、朝の空気に溶けていく。
校門をくぐりながら、俺はひなたの横顔をちらりと盗み見る。周りの生徒たちも登校してきて、朝の校庭は次第に賑やかになっていった。
目の下に、うっすらと隈があった。俺の視線に気づいたひなたが、鞄の紐を肩にかけ直しながら首を傾げる。
「なに?」
「いや」
「なにー、気になるじゃん」
「......昨日、ちゃんと寝たか」
言ってから、聞くべきじゃなかったと思った。ひなたは一瞬だけ目を丸くして、それからいつもの速さで笑った。
「寝たよ。ドラマ見てたら遅くなっただけ」
「そうか」
「そうくんこそ、顔ひどいよ」
指を伸ばして、俺の目の下を軽く押してくる。爪の先が冷たかった。
「痛えって」
「ほら、隈。おそろい」
ひなたはそう言って指を引っ込め、何事もなかったように前を向いた。俺は自分の目の下に触れる。ひなたの言う通りだった。
「ねえ、今日の授業、数学からだっけ」
「......そうだったか」
「そうだよ、そうくんったら寝てたでしょ、時間割」
ひなたが笑う。俺は何も言えなくなった。
「ねえ、数学、また小テストあるんじゃなかった?」
「......そうだったな、忘れてた、完全に」
「もー、そうくん、しっかりしてよね」
ひなたが呆れたように肩をすくめる。校舎に着くまでの短い時間、俺たちはそんな他愛のない会話を続けていた。
昇降口の前で、ひなたは友達に呼ばれて手を振ってきた。
「じゃあ、また後でね」
「ああ、また後で」
ひなたはそう言って、友達の輪の中へ駆けていく。その後ろ姿を見送りながら、俺は靴を履き替えて、一人で自分の教室へ足を向けた。廊下の窓から差し込む朝の光が、床にくっきりとした模様を描いていた。
教室のドアを開けると、凛はもう自分の席についていた。窓際の光を受けて、静かに文庫本を開いている。
「おはよう」
俺が声をかけると、凛は本から目を離さずに答える。
「......おはよう」
短い返事だった。教室のあちこちで、生徒たちが登校してきては席についていく。俺は自分の席に鞄を置きながら、もう一度凛の横顔を見た。
凛がふと顔を上げる。目が合った。文庫本のページに指を挟んだまま、少しだけ首が傾いた。
「......何かあった?」
俺は少し迷ってから、首を横に振った。
「別に、何も」
「......そう」
凛はそれ以上追及せず、また文庫本に視線を戻す。だがすぐに、もう一度ちらりとこっちを見た。
「......顔、疲れてる」
「そうか? 気のせいだろ」
「......そう」
言いながら、凛はページをめくった。めくってすぐ、戻す。今のは読んでいない。
「秋月」
「......何」
「その本、面白いのか」
「......面白い」
「どんな話だよ」
「......言うと、面白くなくなる」
凛はそう言って、今度こそ文庫本に顔を伏せた。伏せた耳の縁が、髪の隙間から少しだけ見えている。
教室の喧騒が、二人の間の沈黙を埋めるように流れていた。
昨日の公園で、俺はひなたに答えを渡した。その相手が今、隣で文庫本のページを繰っている。
花園先生が入ってきて、朝のホームルームが始まった。日直の号令がかかり、生徒たちが一斉に立ち上がる。俺も立った。隣で凛が椅子を引く音がする。
礼をして座る。その拍子に凛の髪が肩から落ちて、耳のうしろが見えた。俺はそこから目をそらすのに、一拍かかった。
教科書を出す音が教室中で重なる。凛が机の横のフックに鞄をかけ直して、その手が止まった。
「......藤宮くん」
「ん」
「昼、いつもの場所でいい?」
いつもの、と凛は言った。俺は返事をする前に、教科書のページを一枚めくり損ねた。




