冬が来た理由
12月に入って、朝の空気が明らかに変わった。吐く息が白くなる。教室の窓ガラスが、朝一番はうっすらと曇っている。
俺は自分の席に着きながら、隣を見た。凛はもう来ていて、机に突っ伏すようにして座っている。マフラーをまだ外していないのか、紺色の布地が机の端からはみ出していた。
「......寒い」
凛がぼそりと呟く。誰に言うでもない独り言だったが、俺の耳にはしっかり届いた。
その一言だけで、なぜか頬が緩みそうになる。俺は慌てて口元を引き締めた。
......待て。今の、なんだ。
凛が「寒い」と言っただけだ。それだけのことに、なんで反応してるんだ、俺は。深呼吸を一つして、鞄から教科書を取り出す作業に集中しようとした。だが視界の端に、まだ凛の姿が入り続けている。
11月の終わりに、修学旅行から戻ってきた。あれから約2週間。俺はひなたに気持ちを伝え、ひなたは泣きながらも笑って送り出してくれた。
自分の気持ちに、名前がついた。秋月凛のことが好きだ。そう認めてしまうと、これまで何とも思わず見ていた仕草の一つ一つが、急に意味を持ち始めた。
凛が机に突っ伏したまま、小さく身じろぎする。マフラーの端が、ふわりと揺れた。
ただそれだけの光景に、心臓が変な音を立てる。俺は自分の胸に手を当てたくなる衝動を、なんとか堪えた。
これは、まずい。
「おい蒼太、聞いてんのか」
肩を叩かれて、俺は我に返る。振り返ると、桐生がにやにやしながらこっちを見ていた。
「......何が」
「何がじゃねえだろ。さっきから話しかけてんのに、ずっと秋月さんの方見てるからよ」
「別に、見てねえよ」
「見てた見てた。めちゃくちゃ見てた」
桐生は椅子を引き寄せて、俺の机に肘をつく。
「お前、最近秋月さん見るたびに顔がにやけてんぞ」
「にやけてねえよ」
「鏡見ろ、鏡」
桐生はスマホのカメラを起動して、こっちに向けてくる。画面に映った自分の顔を見て、俺は思わず息を止めた。確かに、口元が少し緩んでいる。
「......うるさい」
「図星じゃねえか」
桐生は満足げに笑って、スマホをポケットにしまう。俺は誤魔化すように教科書を開いたが、内容はまるで頭に入ってこなかった。
朝のホームルームが始まって、花園先生が入ってくる。生徒たちが席に着く音が教室中に響いた。凛もようやく身を起こして、マフラーを外し始める。
紺色の布地が、するすると首元から離れていく。凛はそれを丁寧に畳んで、机の中にしまった。その一連の動作を、俺はなぜか目で追ってしまう。
ホームルームが終わって、1限の授業が始まった。数学の教師が黒板に数式を書いていく声が、遠くのことのように耳を抜けていった。俺はノートを取りながらも、頭の片隅では別のことを考えていた。
黒板の数式を写しながら、視線だけがどうしても隣に流れる。凛はシャープペンを走らせながら、時々前髪をかき上げていた。その仕草一つにも、意味もなく目を奪われる。
......いや、集中しろ。数学だぞ、今は。
自分に言い聞かせて、ノートに視線を戻す。だが数分も経たないうちに、また視線が凛の方へ吸い寄せられていた。桐生に見つかったら、また何か言われる。俺は慌てて姿勢を正した。
この気持ちを、いつ、どう伝えればいいんだろう。
まだ答えは出ていない。ひなたに伝えたのと同じように、凛にも伝える日が来るのか。想像しただけで、胃の辺りがきゅっと締まる感覚があった。
昼休みになって、いつも通り凛と弁当を広げる。今日のおかずは肉じゃがと卵焼き、それに冷凍の唐揚げを2個。
「今日、唐揚げ少ない」
凛が箸を止めて、こっちを見てくる。
「昨日買い忘れた。悪いな」
「......そう」
凛はそれだけ言って、代わりに卵焼きに箸を伸ばす。俺はその横顔を、また盗み見てしまう自分に気づいた。
凛の手が、卵焼きを口に運ぶ。咀嚼する頬の動き。目を細める微かな表情。何一つ特別なことじゃないのに、今の俺には全部が特別に見えてしまう。
......これは重症だな。
自分でそう思いながら、俺は自分の弁当箱に視線を戻した。
「藤宮くん」
凛が箸を置いて、こっちを見ている。
「......何」
「顔、赤い」
指摘されて、俺は思わず頬に手を当てた。
「気のせいだろ」
「......そう」
凛はそれ以上追及せず、また弁当に視線を戻す。だが俺は、凛が一瞬こっちの様子を窺ったのを見逃さなかった。
昼休みが終わって、5限は移動教室だった。廊下を歩いていると、桐生が隣に並んでくる。
「よお蒼太、午前中どうだった」
「別に、普通だったけど」
「秋月さんに弁当のこと突っ込まれてただろ。廊下まで聞こえてたぞ」
「聞こえてたのかよ」
「そりゃ聞こえるだろ、教室の端と端だぞ」
桐生は肩を組んでくる。俺はそれを軽く払いのけた。
「お前、いつになったら言うんだよ」
「......何を」
「わかってて聞いてんじゃねえよ」
桐生は呆れたように息を吐いた。
「ひなたちゃんの件、ちゃんとケリつけたんだろ。だったら次は秋月さんだろうが」
「そう簡単に言うなよ」
「簡単だろ、好きなら好きって言うだけだ」
言葉自体はシンプルだったが、その一言が重かった。俺は視線を落として、少し歩調を緩めた。
「......まだ、心の準備ができてねえんだよ」
「準備なんかいつまで経ってもできねえよ、そういうのは」
桐生はそう言って、教室の入り口で立ち止まった。
「まあ、急かしはしねえけどよ。あんまり待たせすぎんなよ」
それだけ言って、桐生は先に教室へ入っていく。俺はその背中を見送りながら、自分の中でまだ答えの出ていない疑問を、もう一度考え直した。
放課後、教室を出る前に凛が「今日、真っ直ぐ帰る?」といつもの調子で聞いてくる。俺は「ああ」とだけ答えて、いつも通り並んで昇降口へ向かった。
廊下を歩きながら、凛が両手をこすり合わせているのに気づく。指先が少し赤くなっていた。
「手袋、忘れたのか」
「......家に置いてきた。今朝、急いでたから」
凛はそう言って、また手をこすり合わせる。俺はその様子をしばらく見てから、何も言わず自販機の方へ足を向けた。
「......どこ行くの」
凛が不思議そうに聞いてくる。俺は答えず、自販機の前で立ち止まった。ボタンを押すと、缶の落ちる音が響く。取り出し口から出てきたのは、ホットのココアだった。
俺はそれを凛の前に差し出す。
「......これ」
凛は一瞬、驚いたように目を見開いた。
「......いいの?」
「別に、大した金額じゃねえよ」
俺は視線を逸らしながら答えた。凛はしばらくその缶を見つめてから、両手で受け取る。
「......ありがとう」
その声に、鼻にかかったような柔らかい響きが混じっていた。俺は返事の代わりに、自分の缶のプルタブを開けた。開ける音が、妙に大きく鳴った。
凛は缶を両手で包むようにして持つ。指先の赤みが、少しずつ引いていくのが見えた。
「あったかい」
凛がぽつりと呟く。缶の熱で頬がほんのり赤くなっているのは、寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか、俺には判断がつかなかった。
二人並んで駅までの道を歩く。街路樹の葉はほとんど落ちて、枝だけが冬空に伸びていた。
「秋月、そんなに寒いのか」
「......寒がりだから」
凛はそう言って、ココアの缶を両手で握り直す。
「ヒートテック、2枚重ねてる」
「2枚も?」
「......3枚の日もある」
思わぬ告白に、俺は笑いそうになるのを堪えた。
「そんなに着込んで、動きにくくないのか」
「......平気。慣れてるから」
凛はそう言って、少し先を歩く。俺はその後ろ姿を見ながら、また一つ、凛についての情報が増えたことに気づいた。寒がり。ヒートテック2枚、時には3枚。こういう些細な情報の一つ一つが、俺の中に積み重なっていく。
駅に着いて、改札の前で立ち止まる。
「じゃあ、また明日」
「ああ、また明日」
凛はそう言って、改札の向こうへ歩いていく。俺はその背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、しばらくその場に立っていた。
帰りの電車の中で、俺はさっきの凛の「あったかい」という一言を思い返していた。缶を包んでいた両手と、赤くなっていた指先。窓ガラスに映る自分の顔が緩んでいるのに気づいて、吊り革を握り直した。向かいの席のおばさんと目が合って、慌てて窓の外を見た。
家に着いて、玄関を開けると、母さんがちょうど夜勤に出る支度をしていた。
「おかえり、蒼太」
「ただいま」
「今日、機嫌良さそうね」
母さんが靴を履きながら、こっちをちらりと見てくる。
「別に、いつも通りだって」
「そう? なんか顔がにやけてる気がするけど」
「にやけてねえよ」
俺は誤魔化すように鞄を持ち直して、自分の部屋へ向かう。母さんの「そう?」という声が背中に追いかけてきたが、俺は振り返らなかった。
台所からは、母さんが夜勤前に作っておいてくれた味噌汁の匂いがまだ残っていた。俺はそれを一口すすってから、部屋のベッドに寝転がって、天井を見上げる。今日一日、何度凛のことを考えただろう。数え切れないくらいだった。
桐生の「あんまり待たせすぎんなよ」という一言が、まだ耳の奥に残っている。分かってはいる。分かってはいるが、実際に言葉にする勇気は、まだ胸の奥に固まったままだった。
スマホが震えて、通知が届く。凛からのメッセージだった。
「今日のココア、ありがとう」
それだけの短い文面だったが、俺はしばらくその画面を見つめてしまう。返信を打とうとして、何度も文字を消しては打ち直した。結局、送ったのは短い一言だった。
「いや、別に」
既読はすぐについたが、それ以上の返信は来なかった。俺はスマホを枕元に置いて、もう一度天井を見上げる。
窓の外はもう真っ暗だった。隣の家の窓に、小さな明かりが灯っているのが見える。凛の部屋の明かりだ。
カーテンの向こうで、影が一度動いた。机に向かっているのか、立って何かしているのか、そこまでは分からない。
スマホがもう一度震えた。凛からだった。
「......明日、ココアの缶のお金、払う」
「いらねえよ、あれくらい」
「......払う。決めたから」
決めたから、で押し切るのがこいつらしい。俺は「じゃあ130円な」とだけ返した。既読がついて、猫が敬礼するスタンプが返ってきた。
130円。手帳に書くまでもない数字を、俺はたぶん明日まで覚えている。




