肩の温度
朝、旅館をチェックアウトする時、桐生が「あっという間だったな、修学旅行」としみじみ呟いていた。俺も同じ気持ちだった。3日間という短い間に色々なことがありすぎた気がする。
京都駅のホームは、多くの修学旅行生でごった返していた。他校の生徒たちも同じタイミングで帰路につくのか、駅員が拡声器で誘導の声を張り上げている。
修学旅行3日目、京都駅から新幹線に乗り込むと、車内はすでに帰路の空気に包まれていた。行きとは違い、座席の指定はなく、クラスメイトたちがそれぞれ好きな場所に座っていく。
俺は窓側の席に鞄を置いて、荷物棚に旅行鞄を押し込んだ。桐生はどこかで別の生徒と話し込んでいて、まだこっちに来る気配がない。
「ここ、空いてる?」
声をかけられて顔を上げると、凛が通路に立っていた。
「......ああ、空いてるけど」
「じゃあ、座る」
凛はそう言って、あっさりと隣の席に腰を下ろす。行きの新幹線では出席番号順の座席で十数列も離れていたことを思い出す。あの時は凛の姿を探すのに苦労したのに、今は当たり前のように隣に座っている。
隣の車両からも、修学旅行生らしき賑やかな声が漏れ聞こえてくる。誰かが座席の背もたれを倒して、友人にからかわれている声も聞こえた。
「行きは、大変だったな」
「......うん」
凛は短く答えて、鞄を膝の上で抱え直した。あの時の気まずい距離感を思うと、今こうして隣に座っていることが不思議に感じられる。
「桐生は」
「向こうで盛り上がってる。多分しばらく戻らない」
窓の外に目をやると、桐生がクラスメイトの輪の中で何やら身振り手振りを交えて話しているのが見えた。つぐみもその近くにいて、こっちを見て小さく手を振ってくる。何か言いたげな顔をしていたが、結局何も言わずに輪の中に戻っていった。
「つぐみは、いいのか。一緒に座らなくて」
「......あっちで盛り上がってるみたい」
凛はそう言って、鞄を膝の上に置いた。荷物棚に入れるほどでもない大きさの、旅行用の小さなバッグだ。
新幹線が動き出す。窓の外を流れていく京都の街並みを、凛はじっと見つめていた。
「修学旅行、あっという間だったな」
「......うん」
凛は短く答えて、また窓の外に視線を戻す。行きの時とは違う、落ち着いた横顔だった。竹林での会話を経て、二人の間の空気は確かに変わっている。
「唐揚げ、約束通り作るからな」
「......楽しみにしてる」
凛はそう言って、少しだけ口元を緩めた。俺はその表情を横目で見ながら、鞄から取り出したスマホをいじり始める。
「お土産、何買ったんだ」
「......八つ橋と、あと色々」
「桐生に見せたら羨ましがりそうだな」
「......あげない、桐生くんには」
凛は珍しく即答した。その素っ気ない返事に、俺は思わず笑ってしまう。
「なんでだよ、可哀想に」
「......からかわれるの、嫌だから」
凛はそう言って、少しむくれたような顔をする。竹林での一件以来こういう素直な反応が増えた気がした。
「じゃあ俺には」
「......あげてもいい。ちゃんとお礼言うなら」
凛は少し考えるようにそう答えた。俺はそれに何と返せばいいか迷って、結局「ありがとう」とだけ言うことにした。
しばらく他愛のない話をしながら時間が過ぎていった。窓の外の景色は都市部から次第に田園風景に変わっていく。
「眠くなってきた」
凛がぽつりと呟いた。
「昨日、遅くまで起きてたのか」
「......つぐみたちと話してた」
凛はそう答えて、小さくあくびを噛み殺す。俺は特に気にせず、スマホの画面に視線を戻した。
「何話してたんだよ、そんなに遅くまで」
「......色々」
凛はそれ以上答えず、目を細めて窓の外を見つめる。夕方の陽射しが車内をオレンジ色に染めていた。
「無理して起きてなくていいぞ、寝てても」
「......そうする」
凛はそう言って、小さく頷いた。それきり会話が途切れて、車内には規則正しい走行音だけが響いていた。
しばらくして、ふと隣から視線を感じなくなったことに気づく。横目で確認すると、凛は目を閉じて、規則正しい呼吸を繰り返していた。窓にもたれるようにして、いつの間にか眠り込んでいる。
俺はそのまま息を潜めて、スマホをそっとポケットにしまった。凛が起きないように、できるだけ静かに座り直す。
車体が緩やかにカーブしたところで、凛の体が少し傾いた。とっさに支えようとした俺の肩に、凛の頭がことんと乗る。
俺は動けなくなった。
凛の髪から、ほのかに石鹸の匂いがした。長い睫毛が、閉じた瞼の上でかすかに震えている。穏やかな寝息が、規則正しく繰り返されていた。
起こすべきか迷った。だが体を少しでも動かせば、凛は目を覚ます。俺は肩の位置を固定したまま、窓の外に目を向けた。
窓の外の景色が、次々と流れていく。田んぼ、山、小さな駅。凛の頭の重みだけが、その景色とは無関係に、ずっと肩の上にあった。
通路を車内販売のワゴンが通り過ぎていく。他の生徒たちが飲み物を買っている声が、遠くから聞こえてきた。俺はそれに答える余裕もなく、ただ息を潜めて座り続けている。
凛の呼吸が、時折すうっと深くなる。夢を見ているのかもしれない。その規則正しいリズムを聞いていると、こっちまで眠くなりそうだった。だがうっかり体を動かして凛を起こしてしまうわけにはいかない。
窓の外の田園風景が、次第に街の景色に変わり始めた。まだ着くまでには時間がありそうだったが、それでもこの静かな時間が、思ったより長く感じられた。
俺、こいつのこと。
頭の中に浮かびかけた言葉を、俺は慌てて打ち消す。今ここで、そんなことを考えている場合じゃない。だが打ち消そうとするほど、その言葉は形を持ち始めていた。
「おい、蒼太」
背後から声をかけられて、俺は反射的に振り返る。座席の後ろから、桐生がスマホのカメラをこっちに向けていた。
「撮るなよ」
小声で制止するが、桐生はにやにやしながらシャッターを切ろうとする。
「これは記念に残しとかねえと」
「消せ、絶対消せよ」
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
桐生は聞く耳を持たず、スマホのアングルを調整している。俺は振り返ったまま身動きが取れず、凛を起こさないように小声で抗議するしかなかった。
「頼むから静かにしてくれ、起きたらどうすんだよ」
「起きても別にいいじゃん、これくらい」
桐生は悪びれる様子もなく、なおもスマホを構え続けている。
「桐生くん、それ没収」
横から伸びてきた手が、桐生のスマホをひょいと奪い取った。つぐみだった。いつの間にか通路の反対側から近づいてきていたらしい。
「なんでだよ、返せ」
「馬鹿。こういう時は見て見ぬふりするもんでしょ」
つぐみはそう言って、スマホを自分のポケットにしまう。桐生は不満げな顔をしていたが、それ以上は食い下がらなかった。
「後で返すから、静かにしてろ」
つぐみは俺に向かって親指を立てると、桐生を引き連れて自分の席に戻っていった。桐生は最後まで不満げにこっちを振り返っていたが、つぐみに背中を押されて見えなくなる。
俺はほっと息を吐いて、また前を向く。肩に乗った凛の頭は、まだそこにあった。
凛はまだ眠っていた。周りの喧騒に気づく様子もなく、肩に頭を預けたまま、穏やかな寝息を立てている。
新幹線がまたカーブして、車体がわずかに揺れた。凛の頭が肩からずれそうになって、俺はとっさに体を傾けて支える。凛はそれに気づく様子もなく、ただ静かに眠り続けていた。
窓の外の景色を眺めながら、俺はさっき打ち消したはずの言葉を、もう一度頭の中で反芻する。答えはまだ、はっきりとは出ていない。
新幹線が次の駅に近づくアナウンスが流れて、車内が少しざわつく。凛はそれでも目を覚まさず、規則正しい呼吸を続けていた。
窓の外を、見覚えのある景色が流れていく。もうすぐ地元の駅に着く頃合いだった。名残惜しいような、それでいて早く着いてほしいような、矛盾した気持ちが胸の中で入り混じっている。
凛が目を覚ましたのは、新幹線が減速を始めた頃だった。
「......あ」
凛は自分が肩に寄りかかっていたことに気づいて、慌てて体を起こす。視線を窓の外に逃がしたまま、しばらくこっちを見なかった。
「......ごめん、寝てた」
「別に、いいけど」
俺はできるだけ平静を装って答えたが、肩にはまだ、凛の頭の重みの余韻が残っている気がした。凛は落ち着かない様子で、乱れた髪を手で軽く整えている。
新幹線が駅のホームに滑り込んでいく。窓の外に、見慣れた地元の景色が広がっていた。
「おーい、着いたぞー」
桐生が席から立ち上がって、こっちに手を振ってくる。つぐみもその横で、荷物をまとめ始めていた。
「随分と仲良く寄り添ってたみたいで、何よりだね」
つぐみがにやにやしながら言うと、凛は顔を赤くして俯いた。
「......寝てただけ」
「そういうことにしといてあげる」
「ほんとに寝てただけだから」
凛は珍しく食い下がったが、つぐみはそれ以上取り合わず、桐生を連れて先に降車口の方へ向かっていく。俺と凛も荷物をまとめて、その後を追った。




