旅館の夜
旅館の夕食は修学旅行らしい豪華な会席料理だった。テーブルを囲んだ桐生が箸を伸ばしながら「これうまいな」と繰り返している。凛は少し離れたテーブルでつぐみやひなたと一緒に食事をしていた。時折視線が合いそうになったが、どちらからともなく逸らしてしまう。
「蒼太、湯葉食わねえのか。もらっていいか」
「食うわ、待て」
桐生が箸を伸ばしかけたところを制すると、周りの席から小さな笑いが起きた。テーブルの上には湯葉の他にも京都らしい料理が所狭しと並んでいる。凛のテーブルからも、つぐみが何か言ってひなたが笑っている声が聞こえてくる。何を話しているのかは分からなかったが、その笑顔だけは遠くからでもよく見えた。
夕食を終えて風呂も済ませると、男子部屋はすっかりくつろいだ空気に包まれていた。畳の上に敷かれた布団の間で桐生が枕を抱えたまま寝転がっている。
「今日、収穫あったんじゃねえの、蒼太」
唐突に切り出されて、俺は手にしていたスマホから顔を上げた。
「何の収穫だよ」
「清水寺での話に決まってんだろ。秋月さん見つけて二人でしばらく戻ってこなかったって、つぐみが言ってたぞ」
「別に、迷子になったの探しただけだ」
俺はそっけなく答えたが、桐生はにやにやした顔を崩さない。
「探しただけにしちゃ、随分時間かかってたよな」
「寺が広かったんだよ」
「言い訳っぽいな、それ」
桐生はそう言いながら、枕を抱え直す。同室のクラスメイトたちは、それぞれトランプに興じたり、スマホでゲームをしたりしていて、こっちの会話には興味を示していなかった。その喧騒から少し離れた場所で桐生は枕に頬杖をついたまま、こっちをじっと見ている。
「なあ、蒼太」
桐生が急に声のトーンを落とした。いつもの軽口とは違う響きに、俺は身構える。
「何だよ」
「お前、秋月さんのこと好きなんだろ。いい加減認めろよ」
部屋の照明の明るさが、急に頼りなく感じられた。桐生はこっちを見据えたまま、続きを待っている。俺はしばらく黙ったまま、自分のスマホの画面を見つめていた。
否定しようと思えばできたはずだった。「別にそんなんじゃねえよ」の一言で、いつも通りこの話は流せる。だがその言葉が出てこなかった。
桐生は急かさなかった。トランプの音、誰かの笑い声、廊下から響く先生の見回りの足音。部屋の中の時間だけが俺たちの間でゆっくり流れているように感じられた。
俺は結局、何も言わなかった。ただ、視線を落として黙っていた。
桐生は小さく頷いた。それだけだった。何も言わずに、俺の肩を軽く叩く。
「まあ、そういうことだよな」
「......うるせえ」
それだけ言い返すのが精一杯だった。桐生は満足げに笑って、また布団に寝転がる。
「別に急かさねえよ。お前のペースでいいから」
「お前が急かしたんだろうが、さっき」
「それとこれとは別だって」
桐生はそう言って、天井を見上げる。部屋の照明がその横顔をぼんやり照らしていた。
「秋月さんも柚木さんも、お前のこと真剣に見てんだからな」
その一言に、俺は何も返せなかった。清水寺で凛が見せた「......ごめん、最近」という一言と、桜の木の下でひなたが告げた気持ちが、頭の中で交互に浮かんでは消える。答えはまだ出ていない。それでも、桐生に指摘されて初めて、自分の中で何かがはっきりした気がした。
「二人ともちゃんと見てるんだから、お前もいい加減、はっきりさせろよ」
「分かってるよ、そんなの」
俺がそう言い返すと、桐生は満足そうに頷いた。トランプに興じるクラスメイトたちの笑い声が、部屋の隅から響いてくる。
「蒼太、消灯前にもう一戦やるぞ」
桐生がトランプを片手にこっちを見る。俺はスマホをポケットにしまって、その誘いに乗ることにした。
「いいけど、お前弱いくせに強気だな」
「うるせえ、今日は勝つ」
同室のクラスメイトたちも輪に加わって、大富豪が始まる。桐生は序盤から強気に攻めていたが、結局最初に上がったのは別のクラスメイトで、桐生は最後まで大貧民のままだった。
「なんでだよ、今日勝つって言ったのに」
「口だけは達者だよな、お前」
俺がからかうと、桐生は悔しそうにカードを畳に叩きつける。周りのクラスメイトたちがそれを見て笑い、部屋の中に、また軽い笑い声が広がった。さっきまでの少し重い空気がいつもの調子に戻っていく。
* * *
布団に入って電気を消した後も、隣の部屋からは女子たちの笑い声が壁越しに聞こえてきた。私は自分の布団の上でまだ眠る気になれずにいた。天井の木目を見つめながら、清水寺での出来事を頭の中で繰り返し思い出していた。
「凛、寝た?」
隣の布団から、つぐみが小声で聞いてくる。
「......まだ」
「じゃあ、枕投げしよ」
唐突な提案に、私は思わず体を起こした。
「え」
「ひなたも起きてるでしょ、こっち来て」
つぐみが声をかけると、少し離れた布団からひなたがひょいと顔を出した。
「起きてる! 何、枕投げ?」
「そう。修学旅行の夜って言ったらこれでしょ」
ひなたが嬉しそうに起き上がって、自分の枕を抱える。私は戸惑いながらも、二人の勢いに押される形で布団から出た。
「先生に見つかったら怒られるよ」
「大丈夫、見回りはさっき終わったばっかり」
つぐみは自信満々にそう言うと、部屋の真ん中に自分の枕を放り投げた。畳の上で枕が跳ねる音が静かな部屋に響く。
「別に、そんな子供っぽいこと」
「いいから、いいから」
つぐみに手を引かれるまま、部屋の真ん中に集まる。他の女子たちも数人、興味を示して起き上がってきた。
「ルール、当たったら退場ね」
つぐみの号令で、枕投げが始まる。誰かの枕が飛んできて、私は慌てて避ける。ひなたが的確に誰かを狙って当てて、歓声が上がった。
「凛ちゃん、狙うよ!」
ひなたが枕を構えて宣言してくる。私は慌てて別の女子の後ろに隠れたが、結局逃げ切れずに肩へ命中した。
「あ、当たった!」
「......油断した」
悔しさを滲ませて答えると、周りから小さな笑いが起きた。退場のはずが、いつの間にかまた枕を拾って参加を続けている自分に気づく。しばらく夢中で枕を投げ合っているうちに、いつの間にか肩で息をしていた。
「凛ちゃん、意外と本気だね」
ひなたに指摘されて、我に返る。
「......つい」
「いいことだよ、それ」
ひなたはそう言って笑うと、また枕を構えた。
* * *
しばらく騒いだ後、みんな疲れて自分の布団に戻っていった。部屋の電気が消え、静かな寝息があちこちから聞こえ始める。私も布団に潜り込んだが、まだ目が冴えていた。
「凛」
隣からつぐみの声が、囁くように届く。
「......何」
「藤宮くんとちゃんと話した方がいいよ」
唐突な一言に、私は布団の中で身を固くする。
「話すって、何を」
「自分の気持ち」
つぐみの声には、いつもの茶化しがなかった。暗闇の中で、私は何と答えればいいか分からずに黙り込む。窓の外を、車の音が一台分だけ通り過ぎていった。
「......気持ちなんて」
「あるでしょ。もう隠せてないよ」
その一言に、指先が冷たくなった。清水寺での「......ごめん、最近」を、最後まで言えなかったことを思い出す。あの時、確かに何かを伝えようとしていた。だが言葉にする勇気が、まだ足りなかった。
「別に、隠してるつもりもない」
「隠してないなら、なんで最後まで言わないの」
つぐみの声には、いつになく真剣な響きがあった。私は布団の中で、答えに詰まる。
「......分かってる」
小さく答えると、つぐみが布団の中で身じろぎする気配がした。
「無理にとは言わないけどさ。溜め込んでも、いいことないよ」
「......うん」
それだけ答えて、私は天井を見上げた。旅館の古い木目が、暗闇の中でぼんやりと見える。
「藤宮くんも、多分同じくらい悩んでると思うよ」
つぐみの一言に、私は少し驚いた。
「......何で分かるの」
「女の勘。あと、あんたらってお互い似たようなとこあるから」
つぐみはそう言って、小さく息を吐いた。布団の中で、私はその言葉を反芻する。似たようなところ、というのがどういう意味か、はっきりとは分からなかった。それでも、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
「明日、竹林散策あるんでしょ。いい機会じゃない?」
「......考えとく」
「班別行動って言っても、藤宮くんと二人になれるようにあたしが調整してあげてもいいけど」
「......そこまでしなくていい」
「その返事、絶対考えないやつだ」
つぐみが小さく笑う気配がした。私はそれに何も言い返せず、ただ布団を頭まで引き上げた。
「凛」
「......まだ何か」
つぐみの声が、暗闇の中で静かに続いた。
「あんたが幸せになるとこ、見たいだけだから」
つぐみの声から、からかう調子が消えていた。私は布団の中で、しばらく何も言えずにいた。
「......ありがとう」
小さく答えると、つぐみは満足したように「うん」とだけ返してきた。それきり、隣の布団から聞こえていた声も静かになる。
廊下の向こうから、消灯を知らせる先生の見回りの声が微かに聞こえてくる。部屋の中は、いつの間にか静かな寝息だけが満ちていた。
私は目を閉じて、明日のことを考えた。竹林で何を話せばいいのか、まだ答えは出ていない。それでも、清水寺で言いかけた言葉の続きを、いつかは口にしなければならない気がしていた。
窓の外から、虫の鳴き声がかすかに聞こえてくる。旅館の布団は自分の家のものより硬くて、なかなか寝付けなかった。隣の布団からは、つぐみの規則正しい寝息がもう聞こえ始めている。それでも、私のまぶたは少しずつ重くなっていく。




