清水の迷子
音羽の滝へ続く階段を降りきったところで、班のメンバーの数を数え直す。桐生、つぐみ、俺、それにクラスメイトの2人。
凛がいない。
「あれ、秋月さんは」
桐生も気づいて周りを見渡す。さっきまで俺の一歩後ろにいたはずなのに、階段を降りる途中でいつの間にか姿が見えなくなっていた。
「トイレとかじゃねえの」
「それにしても遅くね」
つぐみが階段の上を見上げながら首を傾げる。周りには似たような制服の生徒たちが行き交うばかりで、凛らしき姿は見当たらない。
「さっきまでいたよな」
「いたって。すぐそこの土産物屋の前で写真撮ってた時までは」
つぐみが階段の上を振り返る。参道は相変わらず観光客でごった返していて、似たような制服の生徒たちが何組も行き交っている。この人混みの中で一人はぐれたら、見つけるのは簡単ではない。
スマホを取り出しかけたところで、ポケットの中で震える気配がした。画面を見ると、凛からのLINEだった。
「......どこにいるの」
地名も目印も書かれていない、いつもの短いメッセージだ。だが今日ばかりは、そのそっけなさが妙に心細く感じられた。迷子になったことをそのまま認めるのが恥ずかしいのか、それとも誰かに頼ること自体に慣れていないのか。凛の性格を考えると、多分両方だ。
「桐生、先に音羽の滝行っといてくれ。俺、秋月探してくる」
「一人で大丈夫か? お前も方向音痴だろ」
「うるせえ、行ってくる」
この境内の地理に詳しいわけではなかったが、凛を放っておくわけにもいかない。
桐生の軽口を無視して、俺は来た道を引き返す。つぐみが何か言いたそうな顔でこっちを見ていたが、結局何も言わずに手を振った。
「藤宮、見つけたら連絡くれよ。心配だから」
つぐみの声が背中から追いかけてくる。俺は片手を上げて応えながら、参道の人混みに戻っていった。
土産物屋の前まで戻ってみたが、凛の姿はどこにもなかった。試食用の八つ橋を並べていた店員に一応聞いてみたものの、要領を得ない返事しか返ってこない。人混みの中に紛れてしまえば、探すのは簡単ではなかった。
参道を戻りながら、凛にLINEを送る。
「今どこにいる? 目印になるもの見えるか」
既読はすぐについたが、返信までに少し間があった。凛のことだから、周りをきょろきょろ見渡しながら文字を打っているんだろう。そんな姿を想像すると、少しだけ笑いそうになる自分がいた。
「......大きい石の階段の下。屋根がある建物の裏」
情報としてはあまりにも曖昧だった。清水寺の敷地内には似たような階段も屋根付きの建物もいくつもある。だが凛らしいと言えば凛らしい。地図を読むのは得意でも、自分がどこにいるかを説明するのは苦手なんだろう。
もう一度メッセージを送る。
「近くに看板とかないか。何て書いてある」
「......音羽の、なんとか」
音羽の滝だ。桐生たちが向かった場所とそう遠くないはずだった。俺は人混みをかき分けながら、案内板の矢印を頼りに滝の方角へ足を速める。
境内は紅葉見物の観光客で埋め尽くされていた。修学旅行生らしき集団もあちこちに散らばっていて、遠目には見分けがつかない。似たようなリボンの制服を何度も見間違えては、違うと分かって落胆する。それを繰り返しながら、俺は滝の方角へ向かって進んだ。
途中、同じ修学旅行らしき集団に道を聞かれたが、俺自身がこの寺の地理をよく分かっていない。適当に案内板を指差して、また歩き出す。
凛の姿を探しながら歩いていると、案内板の裏手に人が少ない一角があるのに気づいた。滝の音がやけに近く聞こえる。
そこに、ぽつんと立っている凛の後ろ姿があった。
「秋月」
声をかけると、凛がびくっと肩を震わせて振り返る。
「......藤宮くん」
俺の名を呼ぶ声が、少し掠れていた。
「修学旅行でも迷子になるのか」
「......寺が広すぎる」
「お前の方向感覚が狭すぎるんだよ」
「......広すぎるの。私は悪くない」
言い返してくる声に、もう掠れはなかった。凛の肩から力が抜けて、抱えていた鞄の位置が下がる。
「どれくらい探してたんだよ」
「......探してない。待ってた」
「同じ場所でか」
「......動くと、余計に分からなくなる」
正論だった。正論だが、その理屈で人混みの真ん中に立ち尽くしていたらしい。修学旅行の班行動で、一人だけ。
「他のみんなは」
「先に行かせた。お前が変な方向に歩いていかないように、俺が捜索担当だ」
「......変な方向になんて、歩いてない」
「今まさに、迷子になってただろうが」
凛は反論できずに黙り込む。滝の水音が二人の間の沈黙を埋めていた。近くの木の枝から、色づいた葉が一枚、ひらひらと落ちてくる。
「音羽の滝、来たかったのか」
「......一緒に来た方がいいと思って」
「はぐれてちゃ意味ねえだろ」
「......分かってる」
凛は少し俯いて、地面を見つめた。参道の喧騒がここまで届いて、遠くで誰かの笑い声が響いている。
「連絡先、桐生に送っといた方がいいか」
「......もう大丈夫」
「大丈夫って、さっきまで迷子だっただろ」
「......見つかったから、もう平気」
凛は短くそう言って、視線を滝の方へ向ける。木々の間から差し込む光が、水面を白く照らしていた。
「秋月」
「......何」
「新幹線の時から、ずっと変な感じだったよな」
核心を突いたつもりはなかったが、凛の表情が一瞬だけ強張るのが分かった。
「......そう、かな」
「そうだろ。ここ数日、ずっとそうだった」
凛は答えず、視線を地面に落としたままだった。俺は続きを急かさず、ただ待つ。滝の音が途切れることなく背後で響いている。
「......ごめん、最近」
凛の声が、ようやく小さく開いた。俺はその先を待つ。
「......何でもない」
だが凛は途中で言葉を止めて、それ以上続けなかった。喉のあたりまで出かかった何かを、また飲み込んだような沈黙だった。
「言いかけたなら最後まで言えよ」
「......今は、無理」
凛はそう言って、視線を上げる。目が合った瞬間、逸らされることはなかった。ただ、その目の奥に何かを迷っているような色がある。
「分かった。無理には聞かない」
俺がそう言うと、凛は小さく頷いた。強張っていた表情が、ようやく緩んだ。
「行こう。桐生たちが待ってる」
「......うん」
凛が先に歩き出す。俺はその後を追いながら、さっきの「ごめん、最近」の続きを頭の中で反芻していた。何を謝ろうとしたのか、聞けないままだ。前を行く凛の歩幅は、俺が追いつける速さになっている。
音羽の滝の前まで来ると、桐生とつぐみが手を振ってきた。
「おーい、遅かったな。迷子は保護できたか?」
「保護っつーか、勝手に見つかった」
「人聞き悪いこと言うな」
凛が短く言い返す。声のトーンはいつも通りに戻っていた。つぐみがそれを見て、何か含みのある笑みを浮かべる。
「二人とも、随分すっきりした顔してるじゃん」
「別に、何も」
「そうかそうか」
つぐみはそれ以上追及せず、スマホを取り出して滝の写真を撮り始めた。桐生も肩をすくめて、案内板の方へ歩いていく。
滝から流れ落ちる水の音を聞きながら、俺は隣に並んだ凛の横顔をちらりと見た。表情はいつもの無表情に戻っていたが、視線はまだ少し落ち着かなく揺れていた。
「柄杓、使うのか」
「......3本の水、それぞれ違うご利益がある。学業、恋愛、延命」
「詳しいな」
「......ガイドブックに書いてあった」
凛はそう言って、列に並ぶ観光客たちの方へ視線を向ける。俺もその流れに従って列の最後尾についた。
「秋月はどれ狙うんだ」
「......言わない」
「なんでだよ」
「......恥ずかしいから」
俺はそれ以上聞かず、列の方に視線を戻した。柄杓を手にした生徒たちが、順番に水を汲んでは飲んでいる。
「桐生くんは、どれ狙うんだろうね」
少し離れた場所から、つぐみが桐生をからかう声が聞こえてきた。
「俺は全部欲しいんだよ、贅沢言うな」
「そんなの卑怯じゃん」
桐生とつぐみのやり取りに、凛が小さく笑った。屋上の一件以来、久しぶりに見る笑顔だった。
俺たちの番が回ってくるまで、しばらく列に並んで待った。紅葉した木々の向こうに、清水の舞台がまだ小さく見えている。
「藤宮くん」
「何だよ」
「......ありがとう、探しに来てくれて」
凛がぽつりと言った。柔らかい声だった。俺はそれに何と返せばいいか分からず、結局「別に」とだけ答えた。
列がまた一歩進む。滝の音がずっと途切れずに響き続けていた。前に並んでいた見知らぬ観光客が柄杓を手に取って、嬉しそうに水を口に運んでいる。
俺たちの番が近づいてきた。3筋に分かれて流れ落ちる水を見上げながら、凛は真剣な顔で柄杓を選んでいる。
「どれにするか、まだ迷ってるのか」
「......真剣に選ばないと、ご利益が薄れる気がする」
「そんな話、聞いたことねえけど」
「......気持ちの問題」
凛はそう言い切って、ようやく一つの柄杓に手を伸ばした。俺もその隣で、自分の番が来るのを待つ。紅葉した木々の間から差し込む光が、水面に反射して揺れていた。
凛が水を口に運ぶ瞬間、周りの生徒たちがひやかすような声を上げた。凛はそれを気にする様子もなく、静かに柄杓を戻す。指の背で口元を押さえる仕草に、時間をかけていた。
「どうだった」
「......言わない」
「秘密主義かよ」
「......願い事は言うと叶わなくなる」
凛はそう言って、俺に柄杓を差し出す。俺もそれを受け取って、列の先の水に手を伸ばした。
柄杓を通して伝わる水の冷たさが、指先にじんわりと染み込んでくる。何を選んだかは、あえて凛には言わなかった。
「藤宮くんは、どれ選んだの」
「......秘密主義かよ」
さっき言われた言葉をそのまま返すと、凛が小さく口の端を上げた。
「お互い様」
「まあな」
列の後ろで待っていた桐生とつぐみも、それぞれ柄杓に手を伸ばしていた。桐生は迷わず全部の水を試そうとして、つぐみに「欲張りすぎ」と呆れられている。その様子を、凛は目を細めて眺めていた。




