新幹線の距離
修学旅行当日の朝は、いつもより早い時間に家を出た。玄関を出ると、隣の家の前で凛が鞄を抱えて立っているのが見えた。目が合いそうになって、互いにすぐ逸らす。あの「元に戻っただけ」発言から、まだ気まずさが続いていた。
母さんが見送りに玄関先まで出てきて、旅行鞄の中身を最後にもう一度確認させられた。
「着替えは足りてる? 常備薬は?」
「持った。大丈夫だって」
「凛ちゃんとは、同じ班?」
母さんの何気ない一言に、返事が一瞬遅れた。
「......同じ班」
「そう。楽しんできなさいね」
母さんに背中を押されるようにして、俺は家を出た。少し先を歩く凛の背中が見える。声をかけようか迷ったが、結局そのまま距離を保って駅へ向かった。
朝早く、駅の改札前にクラス全員が集合している。旅行鞄を提げた連中が点呼の最中も喋るのをやめない。担任が3回同じ注意を繰り返していた。俺は桐生と並んで新幹線のホームへ向かう。
「出席番号順って、地味に鬼だよな」
桐生が座席表を見ながらぼやく。
「まあ、しょうがねえって」
「秋月さん、お前と離れた席だぞ。ほら」
桐生が座席表の凛の名前を指差す。俺の列よりずっと後ろだ。
「知ってる」
俺は指定席に鞄を放る。座席表を見た時から分かっていたことだった。出席番号順の座席は、俺と凛の間に十数列分の距離を作っている。
ホームにはクラスメイトたちが列を作って並んでいた。担任の花園先生が点呼を取りながら、忘れ物がないか一人一人に聞いて回っている。凛の姿は少し離れた列の中にあった。つぐみと並んで、何か話しているようだった。
新幹線が動き出す。窓の外を流れる景色を、桐生は早々に飽きてスマホをいじり始めた。
「なあ、秋月さんと話したいなら行けよ」
「別に」
「別にって、お前らずっとぎこちなさすぎだって。修学旅行くらい、いい機会じゃね」
「今は、いい」
俺はそれだけ答えて、窓の外に目をやる。桐生はしばらくこっちを見ていたが、やがて肩をすくめてスマホに戻る。
「意地張ってんなよ」
「張ってねえよ」
言い返した声が、思ったより尖った。桐生はそれ以上突っ込まず、イヤホンを片耳に差す。
車内販売のワゴンが通路を通り過ぎていく。前の座席の生徒が数人、はしゃぎながらお菓子を買っていた。俺はそれを横目に見ながら、窓の外に流れる街並みをぼんやり眺める。
「まあ、修学旅行中くらいは楽しめよ」
桐生がイヤホンをつけたまま、片方だけ耳から外して言った。
「分かってるよ」
「分かってなさそうだから言ってんだよ」
桐生はそう言って、また窓の外に視線を戻した。俺は何も言い返さず、座席の背もたれに深く沈み込んだ。
* * *
通路を挟んだ後方の席から、つぐみの笑い声が聞こえてくる。凛と同じ列に座っているはずだ。俺は座席の背もたれに寄りかかって、目を閉じかけた。
車内アナウンスが次の停車駅を告げる。周りの座席ではクラスメイトたちがトランプを広げたり、お菓子を回し合ったりしていた。俺たちの座席の近くでも、女子の何人かがしりとりを始めている。
ふと、通路の向こうに目を凝らす。ずっと後方、窓側の席で、凛が文庫本を開いているのがかろうじて見えた。ページをめくる指先だけが動いている。
凛がふと顔を上げた。
目が合う。
一瞬だった。凛はすぐに視線を本に戻す。開いたページは、さっきと同じところで止まっていた。
「何ぼーっとしてんだよ」
桐生が肘で小突いてくる。
「別に」
「顔赤くね?」
「赤くねえよ」
俺はイヤホンを取り上げて、桐生の口に押し付ける。桐生が「うるさ」と笑いながら音楽を聴き始める。
窓の外を、田んぼと山が交互に流れていく。俺はもう一度そっちを見ようとして、やめた。
昼食用の駅弁を配る係の生徒が、通路を歩きながら弁当を配り始めた。俺の分を受け取って、包みを開ける。桐生も自分の弁当を受け取って、早速蓋を開けていた。
「これ、意外と美味いな」
桐生が唐揚げを頬張りながら言う。俺はそれに軽く相槌を打って、自分の弁当に箸をつけた。仕出しの唐揚げの味は、いつも自分で作るものとは違う。隣で「一つだけ」と箸を伸ばしてくる相手がいないことも、妙に落ち着かなかった。
弁当を食べ終える頃、車内アナウンスがもうすぐ京都駅に到着することを告げた。周りの生徒たちが荷物をまとめ始める気配がする。窓の外の景色が、田園風景から徐々に建物の多い町並みに変わっていった。
* * *
京都駅に着くと、駅前の人の多さにクラス全体がどよめく。修学旅行生らしき団体が何組も行き交い、駅前の広場は人でごった返していた。
「うわ、人多すぎ」
つぐみが眉をひそめる。
「観光地なんてこんなもんだって」
桐生が偉そうに言う。
「桐生くん、詳しいの?」
「去年、家族旅行で来たからな」
「ふーん」
つぐみは興味なさそうに返して、スマホで写真を撮り始める。
花園先生が旗を掲げて、班ごとの集合場所を大声で指示している。俺たちの班は先生の旗の下に集まった。凛は少し離れた位置で、鞄の紐を両手で握りながら立っていた。
「よし、点呼するぞ。名前呼ばれたら返事しろよ」
桐生が班長らしくメンバーの名前を読み上げていく。凛の番になると、少し遅れて「はい」という声が返ってきた。
「秋月さん、はぐれんなよ。人多いから」
「......分かってる」
凛は短く答えて、鞄を持ち直す。周りでは他の班も次々と集合を終え、それぞれ観光バスや目的地へ向けて歩き出していた。
班別行動のメンバーは、俺、凛、つぐみ、桐生、それに他のクラスメイト2人だ。清水寺までのバスに乗り込むとき、凛は列の最後尾についた。
バスの車内は観光客と修学旅行生でぎゅうぎゅう詰めだった。俺はつり革を掴みながら、少し離れた場所に立つ凛の様子を窺う。凛は窓の外を見つめたまま、一言も発さなかった。桐生とつぐみは、俺と凛の間に挟まる形で立って、二人で何やら話し込んでいる。
バスが揺れるたびに、周りの生徒たちの体が押し合う。凛は誰かにぶつかりそうになって、慌てて手すりを掴んだ。その拍子に、鞄の中から何かが落ちそうになる。
「大丈夫か」
思わず声をかけると、凛は驚いたように振り返った。
「......大丈夫」
短い返事だけが返ってくる。それ以上、会話は続かなかった。
清水寺の最寄りのバス停で降りると、参道は土産物屋と観光客でさらに賑わっていた。八つ橋の匂いや、漬物の試食を勧める声があちこちから聞こえてくる。
「見て見て、これ美味しそう」
つぐみが土産物屋の店先で足を止めて、試食用の八つ橋を頬張った。
「白河お前、集合時間ギリギリなのに買い物する気かよ」
桐生が呆れたように言う。
「いいじゃん、少しくらい」
つぐみはそう言いながら、もう一つ試食に手を伸ばした。凛はその隣で、静かに土産物屋の商品棚を眺めている。
「秋月、もっと寄れよ」
俺が声をかけると、凛は小さく頷いて半歩だけ距離を詰める。それでもまだ、間には人一人分の隙間がある。周りの観光客の話し声や、参道の喧騒が、その隙間を埋めるように流れ込んできた。
少し先で、地図を確認していたクラスメイトの2人が「音羽の滝に行こう」と声を上げて、班のメンバーを先導し始めた。俺たちもその後についていく。
班のメンバーで境内を歩き始める。紅葉した木々が参道の両側に並び、時折吹く風で葉が舞い落ちてくる。観光客の話し声や、外国語の案内板を読み上げる声が混ざり合っていた。
清水の舞台が見えてくる。紅葉した木々の向こうに、朱塗りの柱が並んでいる。
「わあ、綺麗......」
つぐみが小さく声を漏らす。
「これ、これ」
凛が小さく呟く。地図を覗き込んでいる。
「ああ」
俺は短く返して、凛の隣に並ぶ。人混みに押されて、肩が触れる距離まで近づく。凛はそれを避けるでもなく、ただ地図を見つめていた。
舞台の上から見下ろす景色は、想像していたより高く感じられた。紅葉した山々が眼下に広がり、観光客の歓声があちこちから上がっている。舞台を支える木組みの柱を見下ろすと、思わず足がすくみそうになった。
「思ったより高いな、これ」
「お前、高所恐怖症だっけ」
桐生が茶化してくる。
「んなわけねえだろ」
「顔、ちょっと引きつってるぞ」
つぐみが笑いながら言った。俺は否定しようとして、結局黙って景色に視線を戻す。
舞台の端で、凛が手すりに軽く手をかけて景色を眺めていた。風が吹いて、凛の髪が少し揺れる。俺はその横顔を、少しの間だけ見ていた。
「凛も、写真撮ろうよ」
つぐみが凛の腕を引っ張って、スマホを構える。凛は戸惑いながらも、その場に留まった。
「ほら、藤宮くんも入りなよ」
つぐみに手招きされて、俺も渋々その輪に加わる。桐生がタイミングを合わせてシャッターを切った。
撮れた写真には、微妙な距離感を保ったまま並ぶ俺と凛が写っていた。つぐみがそれを見て、満足そうに頷いている。
「はい、みんなで確認」
つぐみがスマホの画面をみんなに見せる。桐生が「俺の顔、変じゃね」と文句を言い、つぐみがそれを笑い飛ばした。凛は写真の中の自分を一瞥して、何も言わずに視線を逸らした。
「凛、送っとくね」
「......うん」
つぐみの申し出に、凛は短く答えた。班のメンバーは次の目的地に向けて、また境内を歩き出す。紅葉した木々の間を抜けていく足音が、参道の喧騒に混ざって消えていった。
舞台を後にして、音羽の滝へ続く階段を降りる。列の先頭を桐生とつぐみが歩き、その後ろに俺と凛が続く形になった。他のクラスメイト2人は、少し離れた場所で写真を撮りながら歩いている。
階段の途中で、凛が小さくつまずいた。とっさに手を伸ばしかけたが、凛はすぐに体勢を立て直す。
「大丈夫か」
「......大丈夫」
短いやり取りだけが交わされて、また沈黙が続く。階段を降りきったところで、凛は少し歩調を緩めて、俺の一歩後ろにつく。




