見えない壁
昨日の夜、結局藤宮くんには何も返信しなかった。今朝、家を出る時も隣の家の様子を窺うように見てしまって、そんな自分に嫌気が差す。
玄関を出ると、隣の家の門はもう閉まっていた。藤宮くんはいつも私より少し早く家を出る。今日はそれが、ちょうどよかった。顔を合わせずに済む。
駅までの道を一人で歩きながら、昨日母に聞かれたことを思い出していた。幼馴染の子に告白されたとかなんとか。あの一言だけで、まだ胸の奥がざわついている。
朝、教室に入って自分の席に着く。藤宮くんの席はもう埋まっていて、視線を向ける前に横を通り過ぎた。今日も、昨日と同じように話しかけなかった。鞄を机の横にかけながら、教室の空気だけは変わらず賑やかだった。
1限目、2限目と授業が進む。黒板の文字を写しながら、頭の中では別のことばかり考えている。数学の先生に指名されて、慌ててノートを見返す一幕もあった。答えられたが、頭に何も残っていない。
休み時間になっても、私は席を立たずに文庫本を開いた。文字は目で追っているのに頭には入ってこない。同じ行を何度も読み返しては、結局何も理解できないまま次のページに進めずにいた。窓の外では、渡り廊下を歩く生徒たちの声が響いている。
「そうくん、これ見て! つぐみんが送ってきたやつ」
柚木さんの声が教室の前の方から聞こえる。藤宮くんの席の周りだ。
「なんだそれ」
「猫の動画。可愛くない?」
「......猫か」
藤宮くんの声が少し柔らかくなる。動画を覗き込む二人の距離は近い。柚木さんが藤宮くんの肩に軽く手を置いて、画面を指差している。
「見て見て、この子、しっぽふりふりしてるの」
「ほんとだ。器用だな、これ」
「そうくんも猫好きだよね。昔、うちで飼ってた猫とよく遊んでたじゃん」
「懐かしいな、それ」
「あの猫、そうくんにだけ懐いてたよね。なんでだろ」
「そんなことねえだろ」
「あったって。うちのお母さんも覚えてるもん」
柚木さんが笑いながら言う。藤宮くんは苦笑いで頭をかいていた。
二人の間に、遠慮という言葉が存在しない。何年分もの時間が、その距離の近さに詰まっている。それだけのことに、私は文庫本のページを一つ、必要以上に強くめくった。
柚木さんが藤宮くんの肩を軽く叩いて、また何か言っている。二人とも、教室の視線など気にする様子もない。周りの生徒も、二人が並んでいる光景をもう見慣れたもののように扱っていた。誰も、それを特別なこととして見ていない。
あれが正しい距離だ。
藤宮くんがふと、こっちを見た。目が合う。
「秋月?」
「......何でもない」
私は文庫本に視線を戻す。だが藤宮くんはまだこっちを見ていた。眉が少し寄っている。その顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。
距離を取れば、この重さも薄れるはずだった。
休み時間が終わるチャイムが鳴って、教室のざわめきが引いていく。柚木さんは自分のクラスに戻っていった。藤宮くんはまだこっちを気にしているようだったが、私は文庫本のページをめくり続けて、視線を合わせないようにした。
授業が始まっても、頭には入ってこなかった。先生の声が、遠くの雑音のように聞こえる。
* * *
昼休み、いつもなら藤宮くんと机をくっつけて弁当を広げる時間だ。今日はそれをせず、自分の席で一人、弁当箱を開いた。母が詰めてくれたおかずが並んでいる。あの甘い卵焼きも、唐揚げも、今日はない。自分からそうしたのに、弁当箱の中が妙に物足りなく見えた。
斜め前の席で、藤宮くんが桐生くんと何か話しながら弁当を食べているのが見える。いつもの調子で笑っているのを見て、少しだけ安心して、同時に自分でもよく分からない苛立ちを覚えた。
桐生くんが何か言うたびに、藤宮くんが軽く言い返している。二人のやり取りはいつも通りで、私の存在などまるで関係ないみたいに続いていた。それが分かっていても、少し離れた場所からその声を聞くのは落ち着かなかった。
弁当を食べ終えて、箱を布巾で包む。今日は結び目まできっちり整えられた。それだけが、いつも通りだった。
図書室に本を返しに行こうと思い立って、席を立つ。教室を出る時、藤宮くんがこっちを見た気がしたが、確かめずに廊下に出た。
図書室までの廊下は、昼休みの生徒たちで賑わっている。人混みを避けるように壁際を歩いていると、視線の先に見覚えのある制服のリボンが見えた。柚木さんだ。話しかけるべきか迷ううちに、先に声をかけられる。
「凛ちゃん」
「......柚木さん」
「最近、元気ない? 大丈夫?」
柚木さんの目には、疑いも遠慮もない。ただ純粋に心配している顔だ。
「......大丈夫」
「そう? なんか、顔色よくないよ」
柚木さんが私の顔を覗き込む。近い距離に、私は半歩下がった。
「疲れてるだけ」
「ふうん」
柚木さんは納得していない顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。廊下の窓から差し込む光が、柚木さんの髪を明るく照らしている。
「そうくんにも、何かあった? って聞かれたんだ。凛ちゃんのこと」
握った鞄の紐に、指がぎゅっと食い込んだ。
「......何て、答えたの」
「分かんない、って正直に言った。だって本当に分かんないもん」
柚木さんは肩をすくめて笑う。悪気のない笑い方だった。廊下の向こうで誰かが柚木さんの名前を呼んだが、柚木さんはそちらを見ずに続けた。
「そうくん、優しいけど鈍いところあるからさ。凛ちゃんが我慢してること、案外気づいてないかもよ」
柚木さんはそう言って、少し困ったように笑った。
柚木さんの言葉に、何と返せばいいか分からなかった。我慢しているつもりはない。ただ、うまく言葉が出てこないだけだ。昼休みの終わりを告げるチャイムが、廊下の向こうから微かに響いてきた。
「無理しないでね。凛ちゃん、頑張り屋さんだから」
柚木さんはそう言って、にこっと笑う。屈託のない笑顔だった。
「柚木さんは、藤宮くんのこと」
言いかけて、口をつぐんだ。聞いてどうするつもりなのか、自分でも分からない。
「ん? どうしたの」
「......ううん、何でもない」
「そう?」
柚木さんは首を傾げたが、深くは聞いてこなかった。廊下の向こうで誰かに呼ばれて、柚木さんはそちらに顔を向ける。
「......ありがとう」
それだけ言うのがやっとだった。柚木さんが手を振って自分のクラスの方へ戻っていく。
その背中を見送りながら、私は握ったままのスカートの裾に気づいて、指を離した。
午後の授業も、ほとんど頭に残らないまま終わった。放課後、鞄をまとめながら教室を出る準備をしていると、藤宮くんが席を立つ気配がした。声をかけられるかもしれないと身構えたが、結局藤宮くんは桐生くんと一緒に別の話をしながら昇降口へ向かっていった。
「一緒に帰るか」といういつもの一言を、今日は聞かなかった。それが少し寂しくて、同時にほっとする自分もいた。
昇降口で靴を履き替えて、一人で校門を出る。空は夕方の色に近づき始めていた。校門を出たところで、部活に向かう1年生の集団とすれ違う。賑やかな声が通り過ぎていくのを、少し離れた場所で聞いていた。
家に帰る途中、コンビニの前を通りかかる。唐揚げ棒の匂いが漂ってきて、いつもならすぐに藤宮くんの顔が浮かぶのに、今日はそれさえ億劫だった。
* * *
夕飯を終えて、部屋の机に向かう。教科書を広げても、文字が頭に入らないのは今日ずっと同じだった。母に「今日は静かね」と言われたが、「別に」とだけ返して部屋に戻った。
鞄からスマホを取り出して、藤宮くんとのトーク画面を開く。既読のまま止まった昨日のやり取りが、画面の一番下にある。指がしばらく宙に浮いたままだった。
「......ごめんなさい」
打ってから、消す。
「......最近」
打ってから、消す。
「......藤宮くん、」
打ってから、また消す。
「唐揚げ、明日も作ろうか」
打ってから、これもまた消した。何を送っても、今の状況を説明したことにはならない気がする。
送信ボタンに指を置いて、離す。
指先で、藤宮くんの過去のメッセージを遡る。唐揚げのリクエスト、放課後の待ち合わせ、他愛のない相槌。数ヶ月分のやり取りが、今はただの文字の羅列に見える。
一番古いやり取りまで遡ると、ぎこちない敬語混じりのメッセージが並んでいた。まだ弁当を作り始めたばかりの頃だ。「今日のはちょっと味濃かったかもしれない」「いや、普通に美味かった」。そんな短いやり取りが、今は懐かしく感じられる。
あの頃のメッセージには、絵文字も敬語も、今よりずっとよそよそしさが残っている。スクロールする指を止めて、しばらくその文面を見つめた。
スマホがまた震える。桐生くんからのグループLINEだった。修学旅行の班決めについての連絡だ。私はそれを一度だけ見て、何も返さなかった。
グループLINEの中では、いつものように誰かが冗談を飛ばして、誰かがスタンプで返している。その賑やかなやり取りが、今の自分とは別の世界のことのように感じられた。
もう一度、画面を暗くする。真っ黒な画面に、自分の顔がぼんやり映っている。目の下に、うっすら影がある。
机の引き出しを開けて、中を整理するふりをした。プリントの束、使いかけの消しゴム、古い定規。手を動かしていれば、何かを考えずに済むかと思ったが、結局意味はなかった。プリントの束を元通りに戻して、引き出しを閉める。
カーテンの隙間から、隣の家の光が細く漏れているのに気づく。藤宮くんの部屋の明かりだ。私はそれ以上見ないようにして、カーテンをきっちり閉め直した。
スマホを机に置いて、電気を消す。ベッドに入って、壁の方を向いた。
昼間のひなたの笑顔だけが、妙にくっきりと目の奥に残っている。藤宮くんの顔は、うまく思い出せなかった。目を閉じても、教室での柚木さんと藤宮くんの近い距離ばかりが浮かんでくる。




