壊れた距離
今日も、藤宮くんとまともに目が合わなかった。朝の挨拶も、昼休みの弁当も、いつも通りのはずなのに、私の方が勝手にぎこちなくなっている自覚がある。
昼休み、机をくっつけて弁当を広げた。藤宮くんが今日のおかずを聞いてきたのに、私はうまく答えられなかった。箸で卵焼きを挟んだまま、口へ運ぶのを忘れている。藤宮くんは何も気づいていない様子で、自分の分を頬張っていた。それが余計に苦しかった。
教室の後ろの方で、桐生くんが誰かと話している声が聞こえた。柚木さんの名前が混ざっていた気がして、思わず箸を止める。聞き取ろうとしたが、教室のざわめきに紛れてすぐに分からなくなった。
「秋月、今日静かだな」
藤宮くんに言われて、慌てて箸を動かす。
「......そんなことない」
「そうか?」
藤宮くんはそれ以上追及せず、自分の弁当に視線を戻した。それが少しだけ、ありがたかった。
5限目の授業中、窓の外を歩く柚木さんのクラスの生徒が見えた。柚木さんの姿は見当たらなかったが、それだけで胸の奥がざわついた。ノートを取る手が止まって、先生に指されるまで気づかなかった。
「秋月さん、答えて」
名前を呼ばれて、慌てて立ち上がる。教科書のどこを読んでいたかも分からず、隣の席の子に小声で教えてもらって、どうにか答えた。先生は軽く頷いて次の生徒を指す。着席しながら、頬が少し熱くなっているのを感じた。
放課後の教室で、机に頬杖をついている。窓の外はもう夕方の色に染まりかけていた。私は鞄の紐を握ったまま、しばらく動けずにいる。教室にはもう数人しか残っていなくて、机を並べる音や椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。
「凛」
つぐみが横の椅子を引いて座る。
「......何」
「購買、新作のクリームパンあったよ。もう売り切れてたけど」
「......そう」
興味のない返事をする。つぐみはそれを咎めず、机に頬杖をついてこっちを見た。制服のリボンを緩めながら、値踏みするような目でこっちを見ている。
「あんた、今日一日ずっとその調子だったよね」
「......そんなことない」
「あったって。授業中もぼーっとしてたし、昼休みもろくに喋ってなかった」
図星を突かれて、何も言い返せない。つぐみはそれ以上追及せず、机の上に頬杖をつき直した。
「なんで藤宮くん避けてんの」
「......避けてない」
「嘘。あんたわかりやす過ぎ」
つぐみは断言する。反論する言葉が出てこない。今日、藤宮くんに話しかけられて「知らない」としか答えられなかった自分を思い出す。
「......そんなんじゃない」
「じゃあなんで、目、合わせないの」
答えられない。窓の外で、部活動の生徒の声が遠く聞こえている。
「柚木さんが藤宮くんに告白したって、噂で聞いた」
つぐみの声のトーンが、少し落ちた。
「......知ってる」
「知っててその態度なんだ」
「関係ない」
言い切ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づく。つぐみは何も言わずに、しばらくこっちを見ていた。教室の時計の秒針の音がやけにはっきり聞こえる。
「関係ないって、何回も言えば本当になると思ってる?」
「......そうやって言わないと、無理なだけ」
「無理って、何が」
つぐみは机の上のノートを閉じて、私の方に体ごと向き直った。
答えられずに黙っていると、つぐみは短くため息をついた。責めるような色はなく、ただ困っているような息だった。
「関係ないなら、なんでそんな顔してんの」
つぐみが私の顔を覗き込む。私は視線を逸らした。窓の外では部活を終えた生徒たちが自転車置き場の方へぞろぞろと歩いていくのが見える。誰かの笑い声がやけに遠く聞こえた。
「自分の気持ち、わかってるんでしょ」
「......」
答えられない。答えたら、認めることになる。
「わかってても、意味ない」
私は小さく言った。窓の外の光がだんだん赤みを増していく。教室の中も、その分だけ薄暗くなっていた。
「なんで意味ないの」
「......柚木さんの方が、ずっと藤宮くんの傍にいた」
言葉にした瞬間、体の力が抜けた。幼馴染で、ずっと隣にいて。私はまだ、一年も経っていない。
「それ、自分で決めることじゃないでしょ」
つぐみが言う。
「......私が決めなくても、そうなの」
「事実って何。あんたが勝手に決めた順位でしょ」
つぐみの声に、いつもの茶化しがない。真剣な目でこっちを見ている。
「順位とか、そういうのじゃない」
「じゃあ何」
「......時間の長さ」
言ってから、自分の言葉の頼りなさに気づく。時間の長さで測れるものなら、最初から悩んだりしない。
「時間の長さって、あんたそんなことで諦めんの」
「諦めるとかじゃなくて」
「じゃあ何なの」
「......そう思わないと、無理」
私はそれだけ言って、鞄を持って立ち上がる。
「凛」
「......今日は帰る」
つぐみは追いかけてこなかった。教室を出る間際、振り返ると、つぐみはまだ机に頬杖をついたまま、こっちを見ていた。
昇降口で靴を履き替えて、一人で校門を出る。いつもならこの時間、藤宮くんと並んで帰り道を歩いている。今日は一人で歩く道が、思っていたより長く感じられた。
商店街の角を曲がったところで、見慣れた唐揚げ屋の匂いが漂ってくる。藤宮くんが好きな店だ。足を止めかけて、そのまま通り過ぎた。
いつもならこの道を並んで歩きながら、他愛のない話をする。今日のクラスの誰かの話とか、次のテストの範囲とか、話す内容はいつも大したことではなかった。それでも、その時間が嫌いではなかった。
自転車が横を通り過ぎていく。ベルの音に少しだけ肩が跳ねた。夕方の風が、少し冷たくなってきている。もうすぐ本格的に冬が近づいてくる季節だ。
家に着いて、玄関で靴を脱ぐ。リビングには誰もいなかった。両親はまだ仕事から帰っていない時間だ。私は鞄を持ったまま、まっすぐ自分の部屋に向かった。
* * *
自分の部屋のベッドに座って、スマホの画面をつけたり消したりしている。制服のまま、鞄も下ろさずに座り込んでいた。
藤宮くんとのトーク画面。最後のやり取りは、昨日の「今日、体調大丈夫か」だった。既読をつけたまま、まだ何も返していない。
返信の文字を打っては消す。「大丈夫」「別に何でもない」「ごめん」。どれも指を止めた時点で消してしまう。
柚木さんが告白した。
噂で聞いた時から、頭の中で何度もその一言が繰り返されている。柚木さんが藤宮くんに告白した。柚木さんが。藤宮くんに。並べてみるだけで、当たり前のことのように思えてくるのが嫌だった。
藤宮くんが泣いた夜に、隣にいたのは柚木さんだった。私はその夜がどんな夜だったのかも知らない。小学生の頃からの幼馴染で、家が隣同士で、お互いの家族のことも知っていて。積み重ねてきた時間の分だけ、二人の間には私の入り込めない場所がある。
私はスマホを胸に伏せて、天井を見上げる。電気をつけていない部屋は、窓から差し込む夕方の光だけでぼんやり明るい。
柚木さんが羨ましい。胸の底からせり上がってきたそれを、私は奥歯で噛んで飲み込んだ。飲み込んだはずなのに、まだ喉のあたりに残っている。
藤宮くんが困った顔で笑うのを、柚木さんは何年も見てきた。私が知っているのは、隣の席でのほんの数ヶ月だけだ。弁当を作るようになって、少し話すようになって、それだけの関係。柚木さんの隣にある年月の重さに、太刀打ちできる気がしない。
枕に顔を埋めて、しばらくそのままの姿勢でいた。制服のスカートが皺になるのも構わず、体を丸める。
スマホがまた震える。つぐみからのLINEだった。
「今日はごめん。言い過ぎた」
私は少し考えて、返す。
「......ううん。ありがとう」
既読がついて、しばらく返事が来なかった。
「凛、あんたが決めることじゃないってのは本気で言ってる」
その一言に、指が止まる。
「......分かってる」
返事を送ってから、しばらく画面を見つめていた。つぐみが本気で心配してくれているのは分かる。分かっているのに、素直に頷けない自分がいた。
スマホの画面を暗くして、机の上に置く。窓の外を見ると、隣の家の窓に明かりがついていた。藤宮くんの部屋の明かりだ。カーテン越しに、人影がゆっくり動いているのが見える。
いつもならメッセージの一つも送るところだ。今日は指が動かなかった。
階下から、母の声が聞こえてくる。
「凛、ご飯できたわよ」
「......今行く」
声を張って返事をしたが、体はすぐには動かなかった。ベッドから起き上がって、鏡の前で軽く前髪を整える。鏡に映った顔は、思っていたより普通だった。これなら夕食の間、変に思われずに済むはずだ。
食卓につくと、母がテレビをつけたまま夕飯の支度をしていた。
「今日、学校どうだった?」
「......普通」
「そう。唐揚げ、また藤宮くんの分作ってあげてる?」
「......今度ね」
適当に答えて、味噌汁の椀を持ち上げる。母はそれ以上聞かず、テレビのニュースに視線を戻した。箸を持ちながら、頭の中では別のことばかり考えている。味なんて、ほとんど分からなかった。
「そういえば、藤宮くんちの息子さん、モテるらしいわね。この前咲良さんと立ち話した時に、ちらっと聞いたの」
「......そう」
「幼馴染の子に告白されたとかなんとか。凛は知ってる?」
箸を持つ手が止まった。知っている、とは言いたくなかった。母に勘繰られるのも、この件を家の中にまで持ち込まれるのも嫌だった。母は気づかずに、テレビを見ながら茶碗を洗い場に運んでいく。
「......さあ、知らない」
声が少し掠れた。母はそれ以上気にする様子もなく、洗い物を始めた。私は残った肉じゃがを黙って口に運ぶ。味は、やっぱりよく分からなかった。
夕食を終えて、また自分の部屋に戻る。窓の外を見ると、隣の家の明かりはまだついたままだった。
指はまだ、スマホに伸びかけていた。私はそれを枕の下に押し込んで、電気を消す。
暗い天井を見上げても、藤宮くんの名前が消えなかった。
枕の下で、一度だけ振動があった。手を伸ばしかけて、止める。確かめないまま、私は寝返りを打った。




