元に戻っただけ
朝、家を出ると、いつもなら隣の家の玄関先で凛と鉢合わせる。今日はもう誰もいなかった。時計を見ると、まだそこまで遅い時間ではない。つまり、凛はいつもより早く家を出たということだ。
駅までの道を一人で歩きながら、俺は昨日の弁当のことを思い出していた。唐揚げを断られたこと、卵焼きに手をつけなかったこと。二つの光景が、頭の中で何度も繰り返し再生される。
電車に乗っても、凛の姿はどこにもない。いつもの車両を見渡しても見当たらず、俺は仕方なく一人でつり革を掴んだ。窓の外を流れる景色を眺めながら、スマホを取り出しかけて、またポケットに戻す。既読のまま止まった画面を、今見ても仕方がない。
学校の最寄り駅に着いて改札を抜けると、少し先を歩く凛の後ろ姿が見えた。声をかけようとして、足が止まる。凛は振り返ることなく、真っ直ぐ校門の方へ歩いていった。
早足で追いつこうとしたが、信号が赤に変わって足止めを食う。信号待ちの間、凛の背中はどんどん小さくなっていった。追いつく気力が、なぜか湧いてこない。
校門をくぐる頃には、凛の姿はもう昇降口の奥に消えていた。俺は一人、上履きに履き替える。
朝のホームルーム前、教室はいつも通りざわついている。俺は自分の席に着いて、鞄から教科書を取り出す。凛はもう席に着いていて、文庫本を開いている。
昨日の夜、結局凛からの返信は来なかった。俺は鞄からスマホを取り出しかけて、やめた。学校で直接聞けばいい話だ。
「おはよう」
「......おはよう」
声は返ってくる。だが目は本から動かない。教室の窓から差し込む朝日が凛の開いたページの上を白く照らしていた。俺は自分の席に鞄を下ろして、教科書を並べ始める。
花園先生が入ってきて日直が号令をかける。授業が始まり、終わる。休み時間になっても、凛は文庫本のページを繰るだけで、俺の方を見ない。
2限目が終わったところで、学級日誌の回収係が「今日の日直、集めて」と声を張る。俺の隣の列は凛の担当だ。凛は無言でプリントの束を受け取って回し、俺の分もついでに回収していく。指先がプリントの端に触れる距離まで来て、凛はすっと手を引いた。プリントだけが俺の机に残る。
3限目の数学の授業中、先生が問題をランダムに指名する。運悪く俺の番が回ってきて、黒板の前で立ち往生した。
「藤宮、次の行が分からないなら秋月に聞いてこい」
先生の軽口に教室がどっと笑う。俺は横目で凛を見たが、凛は表情も変えずに黒板の方を見ていた。いつもなら口の端が少しだけ動くところだ。
黒板の前で突っ立ったまま、俺は数式を睨む。分からない箇所を誤魔化そうとチョークを持つ手が止まった。教室のあちこちから「早くしろよ」という囁きが聞こえてくる。結局、桐生に耳打ちしてもらってどうにか解答を書き終える。
「今日、一緒に帰るか」
昼休みの弁当を片付けながら聞く。
「......別に」
いつもなら「いいけど」くらいは返ってくる。今日はそれだけだった。
「別にって何だよ」
「......そういう意味」
凛は弁当箱の蓋を閉めて、鞄にしまう。取り付く島がない。箸箱を仕舞う手つきだけは、いつも通り丁寧だった。
斜め前の席で、桐生が箸を止めてこっちを見ていた。何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言わずに視線を逸らす。俺は自分の弁当箱に向き直った。中身は卵焼きと唐揚げ。いつもなら凛が真っ先に箸を伸ばしてくるおかずだ。手つかずのまま並んでいるのを見ていると、余計に今の空気が信じられなくなる。
昼休みが終わるチャイムが鳴っても、教室の空気は変わらなかった。凛は自分の席で静かに授業の準備をしている。俺はその横顔を盗み見ながら、話しかけるきっかけを掴めずにいた。
放課後、数学のノートを閉じながら凛に声をかける。
「これ、分かるか」
問題集の隅を指して聞く。前ならすぐに覗き込んで解き方を教えてくれた。
「......知らない」
凛は俺の問題集を見もせずに答える。俺は差し出した問題集を、そのまま数秒、宙に浮かせたままにした。
部活に向かう生徒たちが、教室の前を賑やかに通り過ぎていく。廊下の向こうで、他のクラスの女子が二人、こっちを見ながら何か囁いていた。俺はそれに気づかないふりをして、問題集を鞄にしまう。
* * *
教室から生徒が減っていく。帰りのホームルームが終わってから、もうずいぶん経っていた。凛は帰り支度をしながら、俺と目を合わせようとしない。
窓の外はもう茜色に染まりかけていた。教室に残っているのは、俺と凛の二人だけだ。いつもならこの時間、他愛のない話をしながら一緒に帰り支度をする。今日は互いの鞄を触る音だけが、やけに大きく響いていた。
廊下から吹奏楽部の練習音が漏れ聞こえてくる。同じ旋律を何度も繰り返す音に紛れて、俺は言葉を選んでいた。何をどう聞けば、この空気を崩さずに済むのか分からない。
「秋月」
「......何」
「最近なんか怒ってるか」
凛の手が、鞄の紐の上で止まる。
「怒ってない」
「じゃあ何だよ、この態度」
凛が俺の顔を見た。まっすぐな目だった。用意していた言葉が、喉のあたりで止まる。
「元に戻っただけ」
教室に凛の声だけが残る。
「元、って」
「......前は、少し話しすぎてた」
凛は鞄を肩にかけて立ち上がる。
「話しすぎてたって、いつもの感じだったろ」
「......それが、いつもじゃなかったの」
凛はそれだけ言って、俺の横を通り過ぎる。すれ違う一瞬、凛の目がこっちを向きかけた。それきり、前を向いて歩いていく。
「おい、ちゃんと説明しろよ」
言いながら、俺は自分の声に苛立ちが混じっているのに気づく。凛は振り返らずに、教室の扉に手をかけた。
「......説明することなんて、何もない」
扉が閉まる音が、思ったより大きく教室に響く。
* * *
昇降口の靴箱の陰から、桐生がひょいと顔を出した。
「蒼太、なんかあったのか。お前の顔、死んでるぞ」
「秋月に、元に戻っただけって言われた」
「元に戻った?」
桐生が靴紐を結ぶ手を止める。
「意味分かんねえって。前がどうで、今がどうなんだよ」
「秋月さんが冷たくなった理由、心当たりないのか」
「ねえよ、そんなもん」
俺は靴箱の扉を叩きつけるように閉める。金属の縁が指の付け根に当たって、鈍く痛んだ。通りかかった1年生が、びくっとこっちを見る。
「痛って」
指の付け根をさすりながら小さく呻くと、桐生が呆れたように肩をすくめた。
「八つ当たりすんなよ、靴箱に」
「うるせえ」
桐生は靴を履き替え終えて、鞄を肩にかけ直した。俺もそれに続いて上履きを脱ぎ、ローファーに足を通す。紐を2回結び直して、2回とも同じところが緩んだ。
「ひなたちゃんの告白と関係あると思わないか」
桐生がこっちを見上げる。ふざけた色が、その目から抜けている。
「秋月は関係ねえって」
「またそれか」
桐生は鼻で笑って、鞄を担ぎ直す。
「お前、この前もそう言って怒られてたぞ」
「怒られてねえよ」
「怒られてたって。まあいいや」
桐生は昇降口を出て、校門の方へ歩き出す。俺はその後を追いながら、頭の中で「元に戻っただけ」という言葉を何度も転がしていた。元、元、と繰り返すほど、言葉は意味を失って音だけになる。
「なあ、桐生」
「何だよ」
「秋月が言ってた元に戻っただけって、どういうことだと思う」
桐生は立ち止まって、俺の顔をまじまじと見た。
「......自分で考えろ」
「は?」
「俺が全部教えたら、お前は一生気づかないぞ」
「ヒントぐらいくれよ」
俺が食い下がると、桐生はしばらく考えるように空を見上げた。
「秋月さんが今まで、お前にだけ見せてた顔があったんだろ。それが消えたってことじゃねえの」
「見せてた顔って、どんな顔だよ」
「知らねえよ、俺は見てねえんだから」
桐生はそう言って、口の端だけで笑った。
「見てたのはお前だけだろ」
桐生はそれだけ言って、また歩き出す。校門を出たところで手を振って、いつもと違う道へ折れていった。俺はその後ろ姿がだんだん小さくなるのを、しばらく見送っていた。
俺は一人、駅とは逆の方向へ歩き出す。凛の家の方角だ。今日は一緒に帰らないと分かっているのに、足が勝手にそっちへ向く。
途中で気づいて、俺は駅へ続く道に戻る。夕方の住宅街は、いつもと同じ景色のはずだった。垣根の向こうで犬が吠える声、自転車のベルの音、遠くの踏切の警報。何も変わっていないのに、隣に凛がいないというだけで、道の長さが違って感じられる。
いつもならこの時間、凛は少し先を歩きながら、たまに振り返って「遅い」とだけ言う。今日はその声もない。
コンビニの前を通りかかると、店先の唐揚げ棒の匂いが漂ってきた。凛の弁当の唐揚げを思い出して、俺は足を止めかけて、また歩き出す。
駅前の商店街に差しかかったところで、ポケットの中でスマホが鳴った。母さんからのLINEだった。凛からの返信は、まだ何も来ていない。
「今日、何時に帰る?」
母さんのメッセージに、俺は「今から帰る」とだけ返した。送信を終えてから、もう一度凛とのトーク画面を開く。昨日のやり取りから、何も動いていなかった。
電車のホームに着いて、ベンチに腰を下ろす。周りの生徒たちの笑い声が、やけに遠く聞こえた。俺はスマホをポケットに戻して、ただ電車が来るのを待った。
電光掲示板の到着時刻を見上げながら、桐生の言葉を思い返す。見せてた顔があったんだろ、それが消えたってことじゃねえの。
具体的に何を指しているのか、俺には分からない。強いて言うなら、教室の隅で交わす軽口や、弁当を挟んだ何気ないやり取り、それくらいだ。特別なことをした覚えはない。
電車が滑り込んでくる。俺は席を立って、扉が開くのを待った。車内は帰宅ラッシュにはまだ早く、座席にもぽつぽつと空きがある。窓際の席に腰を下ろし、流れていく夕暮れの景色を眺めた。
隣の座席は空いたままだ。誰も座らない。
次の駅で乗ってきたサラリーマンが、そこに腰を下ろした。鞄を膝に載せて、スマホを見始める。当たり前の光景だった。
俺は窓の外に目を戻す。ガラスに自分の顔が薄く映って、その向こうを住宅街の屋根が流れていった。
元に戻っただけ。凛はそう言った。
降りる駅の名前がアナウンスされる。俺は座ったまま、ドアが開いて閉まるのを見ていた。次の駅まで乗り過ごした。




