噂の温度
朝のホームルーム前、教室のあちこちで小さな話し声が重なっている。誰かがスマホの画面を見せ合いながら、こそこそと笑っていた。俺が席に着くと、近くの席の女子二人がこっちをちらりと見て、また声を潜めた。
「なあ、なんか今日、視線感じねえか」
隣の席の桐生に聞くと、あっさり頷かれる。
「感じるだろうな。昨日の話、もう広まってるっぽいぞ」
「昨日の話って」
「ひなたちゃんがお前に告白したって話。誰が言いふらしたのか知らねえけど、隣のクラスまで届いてる」
桐生は他人事のように言って、机に頬杖をついた。俺は自分の机の木目を見つめる。文化祭からまだそう経っていないのに、話が広がるのは早い。
「まあ、いいことじゃねえの。もててる証拠だろ」
「そういう話じゃねえんだよ」
俺はそれだけ返して、教科書を鞄から取り出した。凛の席をちらりと見る。凛はまだ来ていない。
しばらくして、凛が教室に入ってきた。いつも通りの無表情で、真っ直ぐ自分の席に向かう。近くの席の女子たちが、また何か囁き合っている。凛はそれに気づいているのかいないのか、鞄を机の横にかけて、静かに文庫本を取り出した。
「おはよう」
声をかけると、凛は本から目を離さずに答える。
「......おはよう」
短い返事だった。本のページをめくる指が俺が挨拶する前から同じ速さで動き続けている。読んでいるにしては速い。
俺は自分の席についた。鞄を下ろす音で、凛の指が一度止まる。止まってから、また同じ速さで動き出した。
その日の放課後、ホームルームが終わって教室を出る生徒がぞろぞろと廊下に流れ出す。俺は凛と並んで歩いていた。凛が今日の弁当箱を鞄にしまいながら、ぼそりと言う。
「......唐揚げ、また作って」
「了解。明日な」
いつものやり取りだ。凛の声のトーンも、いつも通り低くて静かだった。
廊下の角を曲がったところで、前を歩く女子二人の会話が耳に入った。誰だったか、他クラスの生徒だと思う。朝、桐生から聞かされた噂が、まさか凛の前で流れてくるとは思っていなかった。
「ねえ、聞いた? 柚木さんが藤宮くんに告白したらしいよ」
「えー、幼馴染でしょ? 付き合うのかな」
隣で凛の足が止まった。
俺はそのまま数歩進んでから振り返る。凛は廊下のど真ん中で、靴のつま先を見つめるように立っている。
「......秋月?」
名前を呼ぶと、凛はすぐにまた歩き出した。何事もなかったような顔で。噂話をしていた女子二人は、もう購買のパンが売り切れていた話に移っていて、俺たちのことなど気にも留めていない。
廊下の窓から差し込む午後の光が、凛の頬に斜めに落ちている。歩き方は変わらない。ただ、鞄の紐が肩に食い込むほど引き下ろされていた。
「今の、聞いたか」
「......別に」
凛はそれだけ答えて、また鞄の紐を握り直す。
「柚木さんとお前の噂じゃねえよ。俺とひなたの話だ」
「......知ってる」
凛の声には、いつもの抑揚がなかった。俺は横顔を盗み見る。廊下を歩く凛の横顔は、いつも通り静かなだけに見えた。
昇降口の分かれ道まで来ると、凛は靴を履き替えながら、こっちを見ずに言った。
「今日は先に帰る」
「ああ」
いつもなら並んで校門を出るところだ。凛の背中を見送りながら、俺は靴箱の扉に手をかけたまま、しばらく動けずにいた。噂話の内容自体は間違っていない。ひなたが告白したのは事実だ。だとしても、凛がここまで静かになる理由が分からない。
* * *
昼休み、机をくっつけて弁当を広げる。今日のおかずは肉じゃがと卵焼きだ。凛が箸を持ったまま、俺の弁当箱を覗き込む。
「今日は何?」
「肉じゃがと卵焼き」
凛は小さく頷いて、自分の弁当を開ける。だがいつもなら卵焼きに箸を伸ばすところを、今日は動かなかった。
「......別に、何でもいい」
俺の弁当箱に伸びかけていた視線を、凛が自分の弁当箱に戻す。何でもいいと言われても、何のことか分からない。
「唐揚げは?」
昨日約束したばかりのリクエストを思い出して聞く。凛が箸を止めた。
「......いらない」
凛はいつも「一つだけ」と言いながら、俺の弁当から卵焼きを二つも三つもかすめていく。その凛が、唐揚げを断った。俺の箸を持つ手が、一瞬止まった。
「体調悪いのか」
「......違う」
短い返事だけが返ってくる。凛は自分の弁当をつつくばかりで、顔を上げない。俺は肉じゃがを一つ、凛の弁当の隅にそっと置いてみた。凛は箸の先でそれを端に寄せただけだった。
「じゃあ何が」
「......何でもない」
凛はそう言って、卵焼きを一切れだけ口に運んだ。咀嚼する間、箸の先も肩もほとんど動かない。向かいに座っているのに、間に一枚ガラスが挟まっている。
「......今日、疲れてるだけ」
付け加えた声は、俺のほうを向いていなかった。俺はそれ以上聞かず、自分の肉じゃがを口に運ぶ。味なんて分からなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。凛は弁当箱の蓋を閉め、布巾で包んで鞄にしまった。いつもなら包み方も丁寧で、結び目まできっちり整えるのに、今日は端が少しはみ出したままだった。それに気づいたのか気づいていないのか、凛は何も言わずに席を立つ。
教室の後ろで、ひなたのクラスの女子たちが弁当箱を片付けながら何か話しているのが見えた。柚木さんの名前が聞こえた気がして、俺は思わずそっちに耳を傾けかけて、慌てて自分の弁当箱に視線を戻す。
* * *
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、桐生が横に並んできた。
「なあ、蒼太。今日、なんか変じゃなかったか」
「何がだよ」
「秋月さんだよ。昼休み、めちゃくちゃ静かじゃなかったか」
「......いつも静かだろ」
「いつもと違う静かさだったって」
桐生は靴紐を結びながら、それ以上は言わなかった。
「お前、何か知ってるのか」
「さあな」
桐生は靴箱の扉を閉めて、俺の方を見た。何か言いかけて、やめる。その仕草に、俺は思わず一歩詰め寄った。
「なんだよ、言いかけたなら最後まで言えって」
「別に。お前が自分で気づくべきことだと思っただけだ」
「意味わかんねえよ」
「そのうち分かる」
桐生は靴の踵を地面にとんとん打ちつけて、鞄を担ぎ直す。俺の顔を見ずに、昇降口の外へ歩き出した。知っていて言わないのか、それとも本当に知らないのか。桐生の背中からは読み取れなかった。
外に出ると、夕方の空気が少し冷たくなっている。俺はスマホを取り出して、凛にLINEを送った。
「今日、体調大丈夫か」
既読はすぐについた。返信は来ない。
画面を見つめたまま、俺は昇降口の前でしばらく立ち尽くす。桐生はもう校門の方まで歩いていて、振り返って「おーい、置いてくぞ」と手を振っている。
「今行く」
俺はスマホをポケットに突っ込んで、桐生の後を追った。歩きながらもう一度画面を確認する。返信の通知は、やっぱり何も来ていなかった。
「秋月さんから返事、来た?」
桐生が横目でこっちを見てくる。
「いや、まだ」
「珍しいな。あいつ、返信だけは早いのに」
桐生の言う通りだった。凛は素っ気ない返事でも、既読をつけたら大抵すぐに何か返してくる。今日に限って、それがない。
「なんかあったんじゃねえの、お前の知らないとこで」
桐生はそれだけ言って、駅の方へ足を速めた。俺はポケットの中のスマホをもう一度確かめたい衝動を抑えて、その後を追う。
まあ、疲れてるだけだろう。
夕方の空気は、まだ少し冷たいままだった。駅前の時計を見ると、いつもならとっくに返信が来ている時間だった。
* * *
家に帰って自分の部屋に入ると、鞄を床に放って、そのままベッドに倒れ込んだ。天井の木目を眺めながら、スマホを顔の上に掲げる。トーク画面は、朝から時間が止まったままだった。
母さんが夕飯だと呼ぶ声が階下から聞こえたが、返事をするのに一拍遅れた。
「今行く」
声を張って返しながら、俺はスマホをもう一度確認する。何も変わっていない。
階段を降りながら、昼休みの凛の顔を思い出す。卵焼きに箸を伸ばさなかったこと、唐揚げをいらないと言ったこと、どれも普段の凛らしくない。だが「らしくない」と感じているだけで、何がどうおかしいのか、言葉にはできなかった。
食卓につくと、母さんが味噌汁をよそいながら聞いてくる。
「今日、なんかあった? 顔、難しい顔してるけど」
「別に、何もねえよ」
俺はいつも通りの声を意識して答えた。母さんはそれ以上追及せず、テレビのニュースに視線を戻す。
箸を持ちながら、俺はもう一度スマホを確かめたい衝動と戦っていた。夕飯の間、ポケットの中でスマホが震える気配は一度もなかった。母さんが茶碗を下げながら、思い出したように聞いてくる。
「そういえば、秋月さん、あんたの唐揚げ気に入ってるんでしょ? 今日も喜んでた?」
「まあ、普通に」
「今度、うちにご飯食べに来てもらったら? いつなら来てもらえそう?」
「さあな。それは秋月に聞いてくれ」
俺は箸を止めずに答えたが、頭の中は別のことでいっぱいだった。母さんはそれ以上聞かず、洗い物を始める。
風呂から上がって部屋に戻ると、画面には新しい通知が一つも増えていない。俺はスマホをベッドの脇に置いて、天井を見上げた。
噂話一つでここまで静かになる理由が、どうしても分からない。柚木さんとの話は自分とひなたの間の話で、凛には関係ないはずだった。それなのに、凛の足はあの一瞬だけ止まった。
電気を消してからも、しばらく寝付けなかった。
* * *
同じ頃、隣の部屋の明かりはまだついていた。
凛は机の椅子に座ったまま、スマホの画面を暗くしたり点けたりしていた。藤宮からのメッセージは、もう何時間も同じところで止まっている。
「今日、体調大丈夫か」
その一文を、何度も読み返した。心配してくれているのは分かる。分かるからこそ、何も返せない。柚木さんの告白の話を聞いた瞬間、自分でも驚くくらい足が動かなくなったことを、どう説明すればいいのか分からなかった。
机の上の教科書を開いても、文字が頭に入ってこない。シャープペンシルの先で、ノートの隅に意味のない線を引いては消す。何本目かの線を引いたところで、手を止めた。
窓の外に目をやると、藤宮の部屋の明かりが見える。カーテン越しの光を、凛はしばらく見つめていた。
スマホを机に伏せて、凛はもう一度、ノートに視線を戻す。シャープペンシルの先が、また意味のない線を引き始めた。




