嘘つきな日常
昨夜は結局、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。頭の中でひなたと凛の顔が交互に浮かんでは消え、答えの出ない堂々巡りが続いていた。目の下にはうっすらと隈ができている気がして、鏡を見るのが少し億劫だった。
朝、教室に入るといつもの声が飛んできた。
「そうくん、おはよ!」
ひなたが教室の後ろの方から手を振っている。朝からうちのクラスに顔を出しに来ていたらしい。栗色のショートボブが揺れて、丸い目がいつも通り笑っていた。周りの女子たちも、いつも通りひなたを囲んで賑やかに話している。窓から差し込む朝の光が教室の埃をきらきらと照らしている。廊下からは遅刻ぎりぎりの生徒が駆け込む足音が響いていた。
「お、おう」
声が一瞬詰まる。誤魔化すように、俺は自分の席に鞄を置いた。手のひらにじんわりと汗がにじんでいる。
「どうしたの、そうくん」
「いや、何でもねえよ」
「変なそうくん」
ひなたはそう言って、くすっと笑う。特に気にした様子もなく、また友達との会話に戻っていく。俺はほっと息を吐いて、椅子に腰を下ろす。
昨日のあの告白がなかったかのような、いつも通りの笑顔だった。それが逆に、俺の中の落ち着かなさを増幅させる。あの日の桜の木の下の空気と、今この教室の空気が、うまく繋がらない。
「藤宮、購買のパン全滅だったぞ、悲惨すぎ」
桐生が斜め前の席から、不満げに肩を落として言う。机に突っ伏す仕草まで大げさだ。眠そうな目を擦りながら、俺は生返事をした。
「そうか」
「そうかって、お前もっと同情しろよ」
「じゃあ次から早めに行けよ」
「それができりゃ苦労しねえんだって」
「言い訳すんな」
「うるせえ」
「まあ、明日から早起きしろよ」
「お前に言われたくねえよ、いつも寝坊してるくせに」
「今日はちゃんと来ただろうが」
桐生はぶつぶつ文句を言いながら自分の席に着いた。俺はその横で、隣の席にちらりと目をやる。凛は昨日までと変わらない様子で、静かに教科書を開いている。なのに俺はさっきから何度もそっちを盗み見ていて、慌てて前を向いた。
* * *
昼休み、机をくっつけて弁当を広げる。教室のあちこちで、賑やかな話し声が飛び交う。今日は珍しく、ひなたが俺たちの席までやってきた。普段は自分のクラスメイトの輪の中で食べているはずだった。
「そうくんの弁当、今日も美味しそうだね」
ひなたが横から覗き込んでくる。栗色の髪が肩からこぼれ落ちそうになっていた。凛も同じタイミングで蓋を開けた弁当箱を覗き込んでいて、二人の視線が俺の弁当の上で重なった。ひなたの椅子は、凛の机のすぐ隣に引き寄せられている。凛はそれを気にする様子もなく、箸を手に取った。
いつもは凛と二人で食べる時間だ。今日はひなたが加わったことで、机の周りの空気が少しだけ違っていた。俺はどこに視線を置けばいいか分からず、自分の弁当箱にばかり目を落としていた。
「......今日の卵焼き、また甘口?」
凛が短く聞いてくる。いつも通りの静かな声だった。
「ああ、いつもの味だ」
「今日はそうくんの卵焼き、ひなたも味見していい?」
ひなたが無邪気に聞いた。凛が一瞬、箸を止める。
「......いいけど」
凛が箸を、いったん膳に戻す。俺は自分の弁当箱に目を落とした。
ひなたが卵焼きを一切れつまんで口に運ぶ。
「甘い! そうくん、料理上手だね」
「まあ、慣れてるからな」
ひなたは満足げに頷いて、また箸を伸ばす。
「......唐揚げも、また作ってほしい」
「了解。今度な」
ひなたが唐揚げの容器に箸を伸ばしかけて、ふと凛の弁当箱に目を移す。
「凛ちゃんはいつも卵焼きもらってるんでしょ、いいなあ」
凛が箸を止めて、ひなたの方をちらりと見た。教室のざわめきの中で、その一瞬だけ空気が張り詰めた気がした。俺は自分の弁当箱に視線を落として、二人のやり取りをただ聞いていた。
「......2切れだけ」
「え、それだけ? もっとねだればいいのに」
「そんなにねだるものじゃない」
凛が短く言い返す。声のトーンはいつも通り平坦だった。ひなたはそれ以上追及せず、笑って唐揚げに箸を伸ばす。
俺は当たり障りのない返事をする。凛とひなたが、二人揃って俺の弁当箱を覗き込んでいる。二人分の視線が箸の先に集まって、卵焼きを掴もうとした手が行き場をなくして止まった。教室の喧騒がその沈黙を埋めるように流れていた。
「藤宮くんも食べなよ、時間なくなるよ」
凛にそう促されて、俺は慌てて箸を動かす。味なんて、ほとんど分からなかった。唐揚げも卵焼きも、ただ口に運んでは飲み込むだけの作業になっていた。
教室の時計を見ると、昼休みはあと15分ほどしか残っていない。ひなたはまだ楽しそうに弁当箱を覗き込んでいて、凛はそれを気にする様子もなく箸を進めている。二人ともいつも通りに見えるのに、俺だけがこの空気に馴染めずにいた。
「......そういえば、二人って幼馴染なんだよね」
凛がふと聞いてくる。
「うん! 家が隣同士なの」
ひなたが元気よく答える。
「へえ」
「昔からずっと一緒なんだよ、ね?」
ひなたが同意を求めるように俺の顔を覗き込む。
「まあな」
「小さい頃の写真とか、まだ持ってるよ。今度見せてあげる」
ひなたが楽しそうに続ける。栗色のショートボブが弾んで揺れた。
「見たいような、見たくないような」
「え、なんで? 絶対可愛いよ、そうくんの子供の頃」
ひなたが不満げに口を尖らせる。凛はそれきり、また箸を動かす。たったそれだけの相槌を、俺は何度も頭の中で転がしていた。
* * *
昼休みが終わりに近づいた頃、ひなたが友達に呼ばれて席を離れていった。凛も自分の席に戻って、文庫本を開いている。
俺は詰めていた息を、ようやく吐き出した。
「藤宮、なんか今日変じゃない?」
つぐみが、いつの間にか俺の机の前に立っている。
「は? 別に、いつも通りだろ」
「へえ」
つぐみは疑わしげに目を細める。
「凛もひなたも、いつも通りに接してるだけなのに、藤宮だけなんかぎこちないんだけど」
つぐみは腕を組んで、値踏みするようにこっちを見ていた。
「そんなことねえだろ」
「あるって。さっきも弁当の時、箸が変なとこで止まってたし」
「気のせいだ」
「昨日から様子おかしいし、絶対何かあったでしょ」
「別に何もねえよ」
「桐生に聞いた方が早いかな、あいつなら何か知ってそう」
「桐生に聞いても無駄だ」
「へえ、それも含めて怪しいんだけど」
つぐみは追い詰めるように、じわじわとこっちへ体を寄せてくる。
「ふーん。......まあ、あたしには関係ないけどさ」
「別に何もねえって言ってんだろ」
「そんなにムキになるとこが怪しいんだって」
つぐみは目を細めて、こっちの様子を観察するように見ていた。俺はそれ以上何も言えず、視線を逸らす。
「まあいいや、いつか話したくなったら聞くから」
つぐみは肩をすくめて、自分の席に戻っていく。振り返らずに片手だけ軽く振る、いつもの別れ方だった。俺は箸の先で、冷めた弁当の隅をつついた。もう味なんてほとんど分からなくなっていた。
昼休み終わりのチャイムが鳴った。教室は次の授業の準備で騒がしくなっていく。凛は文庫本を閉じて、教科書を取り出す。ページの角を揃える指先を、俺はしばらく見ていた。午後の授業が始まっても、頭の中は昨日の桜の木の下のことでいっぱいだった。
* * *
放課後、教室に残っていたのは俺と凛だけだ。凛は自分の席で、鞄に教科書を詰めている。
「今日、真っ直ぐ帰る?」
いつもの問いかけだ。
「ああ」
「じゃあ、一緒に」
凛はそう言って、先に鞄を持ち上げる。教室にはもう俺たちしかいない。廊下の向こうから、掃除当番のバケツを運ぶ音が響いてきた。窓の外では、部活へ向かう生徒たちの声が遠くに聞こえている。黒板には今日の日直の名前がまだ消されずに残っていた。
俺はその後を追いながら、昼の卵焼きの話を思い出していた。2切れだけ、と少し不機嫌そうに言った凛の横顔が、なぜか頭に残っている。廊下の窓の外で、雲の底が赤く焼けていた。
「藤宮くん、行かないの?」
凛の声に、俺は我に返った。教室の入り口で、凛が振り返ってこっちを見ている。
「いや、行く」
俺は慌てて鞄を掴んで、凛の後を追った。教室の窓から差し込む夕方の光が、二人の影を廊下に長く伸ばしている。廊下ですれ違った下級生が、軽く会釈してすれ違っていった。
昇降口で靴を履き替えながら、凛がふと口を開いた。上履きの底が、タイル床の上で小さく音を立てる。
「今日、なんか静かだった」
「そうか?」
「うん。あんまり喋ってなかった気がする」
「疲れてるだけだ」
「......そう」
凛は靴箱の扉を静かに閉めた。図星だった。だが頷くわけにはいかなかった。
「気のせいだろ」
俺はできるだけ平坦な声を意識する。凛は靴紐を結び直している。何も言わないまま、その手だけが止まった。俺は、その背中に向かって嘘をもう一つ重ねた気分になった。
靴紐を結び終えた凛が、鞄を肩にかけ直す。その仕草はいつも通りなのに、俺の方はまだ嘘の余韻を引きずったままだった。
昇降口を出ると、秋の夕風が校庭を吹き抜けていく。部活動に励む生徒たちの声が、遠くから届いていた。凛は俺の少し前を歩いている。追いつこうとした足が、なぜか鈍った。この一日、俺は何回嘘をついただろう。
校門を出て住宅街に差しかかると、街路樹の葉が風に吹かれて何枚も舞い落ちる。凛はそれを気にする様子もなく歩き続けていた。
「藤宮くん」
「ん」
「......疲れてるなら、無理に送らなくていい」
「送ってねえよ。家が隣なだけだ」
「......そう」
それきり、凛は前を向いた。無理に送らなくていい、と言われる覚えはない。今日の俺はそう見えていたということだ。
「秋月」
「......何」
「今日、何か言いたそうにしてなかったか」
昼休みのことだ。ひなたと三人で弁当を広げていた時、凛は何度か箸を止めていた。
「......してない」
「そうか」
「藤宮くんこそ」
言いかけて、凛はそこで止めた。街灯が二人の影を前に伸ばしている。
「......何でもない」
お互い様だった。
自分の家の前まで来ると、凛は小さく頷いて、背を向けて隣の敷地へ入っていく。玄関の引き戸が開いて、閉まった。
俺は自分の家の鍵を出したところで、手を止めた。
明日も同じことをするんだろう。ひなたの前で普通の顔をして、凛の前で何でもないと言う。
鍵を回した。玄関の電気がついていて、台所から母さんが「おかえり」と声をかけてくる。俺は「ただいま」と返した。今日一番、まともに出た声だった。




