缶コーヒーと本音
夕食も喉を通らず、母さんに「体調でも悪いの」と聞かれた。箸を持つ手が何度も止まって、味噌汁の湯気だけをぼんやり眺めていた。適当にごまかして部屋に戻ったが、一人でいると同じ場所をぐるぐる考え続けるだけだ。
「風邪でも引いたんじゃない? 早く寝なさいよ」
母さんの声が階段の下から聞こえてくる。俺は「分かった」とだけ返して、部屋のドアを閉めた。
ひなたの顔と、凛の顔が、部屋の暗がりに交互に浮かんでは消える。答えを出そうとするたびに、頭の中が真っ白になった。
スマホには桐生からの不在着信が3件と、メッセージが1件残っていた。
「切り方が不穏すぎるだろ。何時でもいいから連絡しろ」
俺は返信を打っては消し、また打った。結局送ったのは、公園の名前と時間だけだった。既読はすぐについて、「了解」の2文字が返ってくる。
桐生とはいつもの公園で待ち合わせる。この時間の公園は人気がなく、遊具の影が街灯にぼんやりと伸びているだけだった。ブランコの鎖が風を受けてかすかに軋む音を立てている。
街灯の下、ベンチに座った桐生は、スマホでゲームをしながら足を組んでいた。
「悪い、急に呼び出して」
「急にっつーか、こっちが3回かけたんだからな」
桐生はスマホから顔を上げずに言う。
「悪かったって」
「まあいいけど。で、何かあったのか」
俺は隣に腰を下ろす。桐生の指はまだ画面の上で動いていた。
「新しいイベントの攻略法とか? それなら詳しいぞ」
「違う」
「じゃあ限定ガチャの話? あれは今引くと損するからやめとけ」
「そういう話でもねえよ」
「じゃあ何だよ、宿題見せてほしいとか」
「それも違う」
「金貸してくれとか?」
「んなわけあるか」
俺は短く否定する。桐生はようやくスマホをポケットにしまい、こっちを見る。
「じゃあ何だよ」
俺は一度、深呼吸をした。言葉にしようとすると、喉のあたりで詰まる。桐生は急かさず、ただ黙って待っていた。ブランコの鎖がまた風もないのに軋む音を立てる。
「ひなたに告白された」
「知ってた」
「は?」
「ずっと好きだったんだぞ、あいつ」
桐生は足を組み直しただけで、こっちを見もしない。ベンチの木の板がきしんで、小さな音を立てた。
「知ってたのかよ」
「お前以外全員知ってたよ」
桐生は呆れたように肩をすくめる。ゲームの画面が眩しく光っているのに、その手はもうスマホを構えていなかった。
「マジかよ、俺だけ蚊帳の外だったのか」
「今更気づいたのかよ、遅すぎるだろ」
桐生は缶コーヒーを一口飲んで、ため息をついた。
「つぐみも柚木さんの様子見て分かってたって言ってたし、俺も夏くらいから薄々気づいてた。お前だけだぞ、そこまで鈍いの」
「そんなに分かりやすかったか」
「分かりやすいっつーか、お前が鈍すぎるんだって」
桐生はベンチの背もたれに寄りかかり、夜空を見上げる。星はほとんど見えず、街灯の明かりが空をぼんやりと白く濁らせているだけだった。
「思い返せば、いくらでも思い当たる節あるだろ。お前が凛ちゃんの弁当作るようになった頃から、柚木ちゃんの態度、明らかに変わってたぞ」
「そうだったか?」
「お前が気づいてないだけだって」
桐生は呆れたように首を振った。
「柚木ちゃん、夏祭りの時とかもずっとお前ばっか見てたぞ。俺が話しかけても上の空だったし」
「気づかなかった」
「文化祭の日も、お前が凛ちゃんの話ばっかしてる時、柚木ちゃんの顔曇ってたの覚えてないのか」
「そんなことあったか」
「だから鈍いって言ってんだよ」
桐生は呆れたように首を振って、缶コーヒーをもう一口飲んだ。
「秋月さんとのことばっかり考えてて、周り見えてなかったんじゃねえの」
「そんなつもりはねえよ」
「そんなつもりがなくてもそうなってたんだから仕方ねえだろ」
「で、お前はどうしたいんだ」
その問いに、俺は答えられなかった。
* * *
沈黙が続く。桐生は急かさず、俺の言葉を待っていた。自販機の明かりが遠くでぽつんと灯っていて、時折そこを通る人影が見えるだけの静かな時間だった。
「分からない」
しばらくして、俺はそれだけ言った。
「返事、どうするつもりもないのか」
「ひなたを傷つけたくない。だけど」
俺は言葉を探す。
「だけど?」
「今すぐ、頷ける気がしない」
桐生は何も言わず、俺の顔を見ていた。ベンチの向こうで遠くの街灯が一つ、ちかちかと明滅している。その視線に、いつものおどけた色がない。
「お前、ちゃんと考えろよ」
桐生の声が、急に低くなった。
「ひなたちゃんも、秋月さんも、お前のこと真剣に見てんだから」
「秋月は関係ないだろ」
口が、勝手に動いていた。
桐生が大きく息を吸い込んだ。
「お前の目は節穴か!!!」
腹の底から絞り出したような絶叫が、夜の公園に響き渡った。近くの木にとまっていた鳥が、驚いて羽音を立てて飛び去っていく。しばらくの間、公園に静寂だけが残った。
「うるせえよ、近所迷惑だろ」
「うるさくもなるわ! お前が鈍すぎるから!」
桐生は立ち上がって、俺を指差す。街灯の光の下で、その表情は普段のおどけた調子とはまるで違っていた。
「本気で心配してんだよ、俺は」
その一言に、俺は視線を落とした。
「秋月さんが関係ないわけねえだろ。お前、自分の態度分かってんのか」
俺は何も言い返せない。
「毎日弁当作って、帰り道も一緒で、LINEも毎晩やり取りしてる相手だぞ」
桐生は指を折りながら数え上げていく。街灯の光が、その指先を白く照らしていた。言い返す言葉が、出てこない。
「柚木さんに告白されて、真っ先に頭に浮かんだのが秋月さんじゃなかったのかよ」
夜の公園に、桐生の声だけが響いていた。俺は口をつぐんだ。
「な、図星じゃね?」
俺は何も返せなかった。
「答えられねえのが答えだよ」
桐生はそれ以上追及せず、ベンチに座り直す。夜風が二人の間を通り抜けていった。
「まあ、答えはお前が出すことだけどな」
桐生の声は、もう落ち着いていた。さっきまでの絶叫が嘘のように、いつもの調子に戻っている。
「柚木ちゃんもお前が悩んでるくらい真剣に受け止めるって。適当に流すのが一番失礼だ」
「分かってる」
「分かってねえから節穴なんだよ」
桐生はそう言い切ると、缶コーヒーの縁を親指で軽く弾いた。乾いた音が、静かな公園に小さく響く。
「まあ、時間かけて考えろ。柚木ちゃんも急かさないって言ってたんだって」
「言ってた」
「なら焦る必要ねえよ。ちゃんと自分の気持ちと向き合ってから答え出せばいい」
桐生の言葉には、いつもの軽さがなかった。
「でも、いつまでも逃げてらんねえよな」
「分かってんじゃん。あとは腹くくるだけだ」
桐生はそう言って、また元のおどけた調子でスマホを取り出す。
「まあ、俺にできるのはここまでだ。あとはお前が自分で決めろ」
「悪いな、遅くまで付き合わせて」
「別にいいって。こういう時のための親友じゃね?」
桐生はそう言って、缶コーヒーの最後の一口を飲み干した。空き缶を近くのゴミ箱に投げ入れて、綺麗にシュートを決める。
「よし、入った」
「それどうでもいいわ」
「いや、大事だろ、こういうのは」
桐生は満足げに笑うと、ベンチから立ち上がって鞄を担ぎ直した。
「それじゃ、また明日な」
軽く手を挙げて、桐生は帰っていく。俺はしばらく、ベンチから立ち上がれずにいた。
夜風が首筋を撫でていく。ようやく立ち上がって、家までの道を一人で歩いた。街灯の間隔が空いた場所では、自分の足音だけが妙にはっきり聞こえる。コンビニの明かりが遠くに見えて、その前で数人の生徒らしき人影が笑い合っているのが見えた。俺には関係のない、平和な景色だった。
* * *
玄関の鍵を開けると、リビングの明かりはもう消えていた。母さんは夜勤で家にいない。静まり返った家の中を、足音を殺して自分の部屋まで歩く。冷蔵庫の作動音だけが、やけに大きく聞こえた。
家に帰ってからも、桐生の言葉が頭から離れなかった。
秋月は関係ないだろ。
あの一言が、口の中でまだ熱いままだった。
俺はベッドに寝転がって、天井を見つめた。電気を消した部屋に、窓の外の街灯の明かりだけが薄く差し込んでいる。ひなたの顔と、凛の顔が、交互に浮かんでは消える。桜の木の下で真っ直ぐに見つめてきたひなたの目と、隣の席で静かに文庫本を開く凛の横顔。どちらも、ずっと当たり前のようにそこにあった。
物心つく前からずっと隣にいたひなた。半年前から隣の席になっただけの凛。時間の長さで比べれば、答えは決まっているはずだった。それなのに、頭に浮かぶ順番はいつも同じだった。
柚木さんに告白されて、真っ先に頭に浮かんだのが秋月さんじゃなかったのかよ。
桐生の言葉が、また耳の奥で鳴った。
スマホを手に取り、画面をつけては消す。誰にも連絡する気になれない。
ひなたに何と返事をすればいいのか。凛に対して、これまでと同じ顔で接することができるのか。考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
窓の外、フェンス一枚隔てた向こうに、凛の家がある。今この時間、凛はもう眠っているだろうか。それとも起きて、いつものように文庫本でも読んでいるだろうか。
桐生の言葉が、また頭の中で繰り返される。柚木さんに告白されて、真っ先に頭に浮かんだのが秋月さんじゃなかったのかよ。
否定できなかった。それが一番、自分でも怖かった。
明日、学校で二人の顔を見た時、俺はどんな顔をすればいいんだろう。
寝返りを打った拍子に、窓の方を向いた。フェンスの向こう、凛の部屋の明かりがついている。こんな時間まで起きているのは珍しい。
見ているうちに、その明かりがふっと消えた。




