放課後桜の木の下で
放課後のホームルームが終わり、教室のあちこちで帰り支度の音が立つ。廊下の窓から差し込む夕方の光が、教室の床に長い影を落としていた。誰かの笑い声が響き、椅子を引く音や鞄のチャックを閉める音が重なる。いつもと同じ放課後の景色だった。俺も鞄に教科書を詰め、帰り支度を進めていた。
帰りの支度をしていると、ひなたが俺の机の横に立つ。
「そうくん、ちょっと時間ある?」
声のトーンが、いつもと違う。甲高くはしゃぐ調子がなく、低く抑えた声だ。
「ん、大丈夫だけど。どうした」
「ちょっとね。話したいことがあって」
「今からか?」
「うん。......ここじゃ、ちょっと」
「じゃあ、校舎裏来て」
俺が頷くと、ひなたは小さく息を吐いた。安堵しているのか、それとも別の理由なのか、その顔からは読み取れない。教室の喧騒の中でひなただけが少し違う空気をまとっているように見えた。
それだけ言って、ひなたは先に教室を出ていく。
鞄を持って立ち上がると、隣の席の凛がこっちを見ていた。目が合う。
「......どこ行くの」
「ちょっと、外」
「......そう」
凛はそれ以上聞かずに、机の上の文庫本に視線を戻した。戻したはずなのに、ページはめくられない。俺はそれを見ないふりをして、教室を出た。
廊下に出ると、ひなたはもう階段の踊り場まで降りていた。追いつこうとして、途中で歩調を緩める。追いついたところで何を話せばいいのか分からなかった。
昇降口を出て校舎の裏手に回る。人気のない小道に遠くのグラウンドの掛け声だけが薄く届いている。落ち葉が敷き詰められていて、踏むたびに乾いた音がした。
ひなたは俺より少し前を歩いていて、振り返らない。肩に掛けた鞄の紐を、両手できつく握っている。
「寒くないか」
「平気だよ」
「カーディガンだけだろ、それ」
「歩いてるから平気」
それだけ言って、ひなたはまた口を閉じる。俺も続く言葉が出てこない。
校舎の壁沿いに、剪定された枝が束ねて置かれていた。用務員が集めたものらしい。ひなたはそれを避けて歩き、俺も同じところを避けた。
二人とも黙ったまま歩く。落ち葉を踏む音が、交互に2つ鳴っては消えた。
校舎裏に着くと、ひなたは桜の木の下に立っている。葉はもう半分ほど落ちて、根元に散り敷いていた。夏はこの木の下が日陰になるほど茂っていたのに、今は枝の隙間から空が透けて見える。入学してすぐの春、満開だったこの木の下で、ひなたに写真を撮らされたのを覚えている。それからも待ち合わせといえば、なんとなくこの木の下だった。
たった1年半の間にも、この木の下には小さな記憶がいくつか積もっている。
「待たせてごめん」
「ううん、平気」
ひなたはそう言って、俺の方を向く。制服のリボンが風に揺れている。いつもなら人懐っこい笑みを浮かべているはずの顔が、今はやけに真剣だ。俺は手のひらを制服のズボンで、こっそり拭う。
* * *
「話って何だ」
「うん、あのね」
ひなたは俯いたまま、靴のつま先で地面の落ち葉をつつく。何かを言いかけては、口をつぐむのを二度繰り返す。俺はただ黙って待った。急かせば、この空気は壊れる。風が吹くたびに、桜の枝がわずかに揺れて、その音だけが静けさを埋めている。遠くでグラウンドの掛け声が一段と大きくなったかと思うと、また元の静けさに戻った。
夕方の光が、ひなたの輪郭を橙色に縁取っていた。いつもなら軽口の一つも飛ばしてくるはずの間合いなのに、今日はそれもない。俺は靴の中で、意味もなく指を丸めた。
ひなたは一度、深く息を吸う。両手を後ろで組んで、少しだけ体を前後に揺らした。それから、意を決したように顔を上げる。
「私、そうくんのことが好き」
辺りの音が、一瞬すべて遠のいた気がした。俺は一瞬、聞き間違いかと思う。
私。
いつもは「ひなた」なのに。喉の奥が、すっと冷える。
「ずっと好きだった」
ひなたの目は、まっすぐ俺を見ている。迷いも、照れ隠しの笑いもない。手はまだ後ろで組んだままだったが、指先だけが少し震えているのが見えた。それでも声は最後まで揺れなかった。
「ひなた」
その先が続かない。何か言わなきゃいけない。分かっているのに、口だけが半端に開いて、声にならなかった。
鞄の持ち手を握り直す。手のひらが滑って、一度で握れなかった。二度目でやっと持ち直す。
ひなたは待っている。俺が何か言うのを、そのまま立って待っている。逃げ場を作らない立ち方だった。
喉が鳴った。自分でも聞こえるくらいの音だ。ひなたにも聞こえたかもしれない。それでも表情は動かなかった。
遠くのグラウンドで、誰かが笛を吹いている。さっきまで聞こえていた掛け声は止んでいた。部活が終わったのか、ここまで届かなくなっただけなのか。
風が吹いて、桜の葉が数枚、二人の間を舞い落ちる。ひなたはその葉を目で追うこともせず、俺だけを見ていた。1枚がひなたの肩に乗ったが、払わなかった。
「返事、すぐじゃなくていい」
ひなたが静かに言う。落ち葉を踏む足音さえ聞こえない静けさの中、その声だけがはっきり届いた。桜の枝の隙間から、夕日が斜めに差し込んでいる。
「でも、伝えたかった」
俺は何も答えられなかった。ただ、目の前に立つひなたの顔を見ていることしかできない。丸い目も栗色のショートボブも、変わらないはずの顔だ。なのに、うまく目を合わせられなかった。手のひらに、じっとりと汗がにじんでいる。遠くでカラスの鳴き声がした。
「ごめん、俺」
自分でも、何に対しての謝罪なのか分からなかった。ただ、そう言わずにはいられなかった。
「謝らないでよ」
ひなたが小さく笑って、眉尻を下げる。
「いいよ。今すぐじゃなくていいって言ったでしょ」
ひなたは首を横に振る。それから、鞄の肩紐をきゅっと握り直す。
「そうくんが困ってるの、分かるから」
ひなたの声は、変わらず穏やかだった。だからこそ、俺は余計に何も言えなくなる。夕暮れの光が、二人の影を長く校庭に伸ばしていた。
「待ってる」
ひなたはそう言うと、にっこり笑う。軽く手を振って、校舎の方へ歩いていく。足取りは軽く、鞄の紐がリズムよく揺れていた。俺はその後ろ姿を、ただ見ていることしかできなかった。
俺はしばらく、その場を動けない。
* * *
ひなたの背中が校舎の角に消える直前、腕が一度だけ顔の高さまで上がった。それだけだ。角を曲がって、見えなくなる。
俺は桜の木の下から動かなかった。落ち葉を踏むと乾いた音がする。踏み直すと、また同じ音がした。
どう答えればよかったのか、分からない。
落ち葉を一つ、つま先で蹴る。軽く舞い上がって、すぐに地面へ戻った。
小さい頃、二人で犬に追われて全速力で逃げたことがある。転んだ俺の手を、ひなたが笑いながら引っ張り起こした。父さんが家を出た日も、隣に座って何も聞かずにいたのはひなただった。あの日は何を話したのか、思い出せない。話さなかったのかもしれない。
その積み重ねの上で、さっきひなたは「私」と言った。
考えているうちに、別の顔が浮かんできた。窓際の席で、文庫本を開いている横顔だ。今日の昼も、俺の弁当箱を覗き込んでいた。
振り払う。振り払った先から、また浮かんでくる。
最低だな、と思った。ひなたがまだあの角の向こうにいるかもしれないのに、俺が今考えているのは別の人間のことだ。思ってから、その言葉が自分に都合よく響いたのに気づいた。自分を責めておけば、少しは筋が通る気がしている。それも違う。
桜の木を見上げる。枝はもうほとんど裸だった。葉が一枚落ちてきて、鞄の肩紐に引っかかる。摘まんで捨てた。
スマホを取り出して、桐生を呼び出す。呼び出し音が3回鳴ったところで、出た。
「おー、どうした」
背後で誰かが笑っている。部活の後らしい。
「今、平気か」
「平気だけど。なんかあった?」
何かあった。何をどう言えばいいのか分からない。
「蒼太? 聞こえてる?」
「......聞こえてる」
「声、変だぞ。どうした」
どうした、と聞かれて、余計に喉が詰まった。桜の木の下で、と言いかけて、その先が続かない。
「......明日でいい」
「はぁ? 何だそれ」
「悪い、切るわ」
「おい、蒼太。おい」
通話を切った。スマホの画面が暗くなって、そこに自分の顔が映る。ひどい顔をしていた。
俺は鞄を担ぎ直して、校舎裏を出た。足元で桜の葉が一枚、音を立てて潰れる。振り返ると、桜の木はもう校舎の陰だった。
昇降口で靴を履き替える。外に出ると、空はもう茜色だった。ポケットの中でスマホが震えている。取り出すと、桐生からだった。
震えが止まるまで、画面を見ていた。止まってから、ポケットに戻す。家までの道を歩き出したところで、また震え始めた。ポケットの上から手で押さえたが、震えは手のひらまで伝わってくる。それも止まった。




