柚木ひなたの秘密
昇降口を出たところで、私は足を止める。
少し先の校門で、そうくんと秋月さんが並んで歩いていく。二人とも喋っているふうではない。それでも、隣にいることが当たり前みたいな距離感だった。秋月さんの鞄が歩調に合わせて小さく揺れている。そうくんが何か言うと、秋月さんが小さく頷いた。風で色づいた葉が一枚、二人の間を横切って地面に落ちる。どちらも気にせず、そのまま歩いていった。
昇降口の周りには、まだ何人か生徒が残っていた。誰かの笑い声、自転車のスタンドを外す音。その全部が耳を素通りしていく。目に入るのは、校門へ向かう二人の後ろ姿だけだった。
私は鞄の紐を両手で握って、その背中をしばらく見ている。追いかけて声をかければいいのに、足が動かない。二人が校門を抜けて見えなくなってから、私はようやく歩き出した。
帰り道はひどく静かだった。落ち葉を踏む自分の足音だけがやけによく聞こえる。いつもなら鼻歌の一つも出そうな帰り道が、今日は妙に長く感じられた。
途中のコンビニの前で、クラスメイトの数人とすれ違った。声をかけられて、いつも通りの調子で手を振り返す。それだけのやり取りに、思ったより力が要った。
胸のどこかが、うまく畳めない。
いつからだろう。そうくんの隣に秋月さんがいるのが、こんなに気になるようになったのは。
そうくんが誰かと仲良くしているのは、いいことのはずだった。秋月さんが隣の席になったと聞いた時も、そうだった。夏の海で、そうくんが秋月さんの背中を気にしていたのを見た時も。夏祭りの夜、二人が神社の裏で長く話し込んでいた時も、私は何とも思わなかった――はずだった。
文化祭の日、教室の隅で執事服のそうくんを見つけて駆け寄った時は、いつも通りはしゃげた。写真を見せて、一緒に笑って。あの時までは、何も変わっていなかったはずだ。
あの時、秋月さんが少し離れた場所からこっちを見ていたのを、今になって思い出す。あの視線の意味を、当時の私はまるで気にも留めていなかった。
でも今、そうくんの隣にいる秋月さんの背中を見送りながら、私は爪先立ちのまま、しばらく動けずにいた。
* * *
家に帰って、制服のまま自分のベッドに寝転がる。天井の木目を見ながら、私は昔のことを思い出す。
そうくんと初めて口をきいたのは、庭の隅だった。引っ越してきたばかりの男の子は、私と目が合っても何も言わず、地面の蟻の行列をじっと見ていた。私が隣にしゃがんで一緒に覗き込むと、そうくんは小さな声で「ここ、巣がある」と言った。それが最初の会話だった。
ある日、近所の犬に追いかけられて、二人で全速力で逃げたことがある。そうくんが転んで泣きそうになったのを、私が「泣いたら負けだよ」と笑い飛ばした。犬はすぐに飼い主に呼び戻されたのに、二人はしばらく手を繋いだまま走り続けていた。あの犬の名前はもう思い出せない。小学校に上がってからは、毎朝一緒に登校するのが当たり前になった。そうくんが寝坊した日は、私が玄関の前で待って、一緒に走った。
小学3年生のあの日のことは、今でもはっきり覚えている。
いつもと同じ時間に習い事から帰ってきたはずだった。それなのに、隣の家の様子がどこかおかしいと、子供心にも感じ取っていた。
夕方、隣の家の前を通りかかったら、そうくんが玄関の前にしゃがみこんで泣いている。声を殺して、肩だけを震わせていた。玄関先には、片方だけ脱げた運動靴が転がっている。その日、そうくんの家からお父さんの姿が消えたことは、ずっと後になってから聞いた。あの時の私はまだ何も知らない。ただ、目の前でそうくんが泣いていることだけが分かった。
私は何も考えずに、ただそうくんの隣に座った。手を握った。
「大丈夫、ひなたがいるから」
その時のそうくんの手は、驚くほど冷たかった。私はその手を、自分の手が温かくなるまでずっと握っていた。あの日を境に、そうくんは誰の前でも泣かなくなった。
あれから、そうくんの隣は私の場所だった。誰かに取られるなんて、考えたこともなかった。教室でも休み時間でも下校の時も、そうくんの隣に座るのはいつも私で、それ以外の形を想像したことすらなかった。
中学に上がってからも、その距離は変わらなかった。そうくんが部活で帰りが遅くなる日も、私は自分の部屋の窓から、隣の家の明かりが灯るのを待っていた。そうくんが誕生日に何をもらったら喜ぶか、いつも真っ先に私が知っていた。
高校に上がるタイミングでクラスが分かれた時は、少し寂しかった。それでも毎朝の登校は変わらず一緒で、下校時間が合えば駅まで並んで歩いた。誰かに「幼馴染ってやっぱり特別なの?」と聞かれるたび、私は「別に、普通だよ」と笑って答えていた。本当にそう思っていた。
でも今、その場所に秋月さんがいる。
私は寝返りを打って、枕に顔を埋めた。
* * *
どれくらいそうしていたか、スマホが鳴って我に返った。つぐみからのビデオ通話だった。
「もしもし、ひなた? 今日の数学の宿題、範囲どこだっけ」
画面の中のつぐみは、いつも通りの調子で笑っている。部屋の照明の下で、私はスマホを持ち直した。私も同じトーンで返そうとした。
「えっと、待って」
私は慌てて起き上がり、鞄から連絡帳を取り出す。だが手元が定まらず、ページをうまくめくれない。指先が震えているのが、自分でも分かった。
「ひなた?」
つぐみの声のトーンが変わった。画面越しにこっちを覗き込んでくる。
「ひなた、さっきから上の空じゃん」
「そんなことないよ」
「嘘。数学の話振ったのに、ずっと連絡帳めくってるだけじゃん」
言葉に詰まる。つぐみは黙って画面の向こうで待っている。急かさない、そのつぐみのやり方に、私はいつも救われてきた。
部屋の時計の針が、静かに時を刻んでいる。私は連絡帳の角を指で折り曲げた。
「そうくんの、こと」
「うん」
つぐみは画面の向こうで、静かに続きを待っている姿勢を崩さなかった。私は連絡帳の角をもう一度指で押さえて、言葉を探す。
私は一度深呼吸をしてから、続けた。
「今日、帰り道で見たの。そうくんと凛ちゃんが、一緒に歩いてて」
「うん」
「二人とも、何も言わなくても平気そうで」
「うん」
「別に、珍しいことじゃないんだけど」
「うん」
つぐみは相槌だけを返し続ける。私は自分の膝を見つめたまま、続きを探す。
「なんか、胸のあたりがざらざらして。それが、ずっと消えなくて」
私は自分の胸に手を当てた。言葉にしてみると、余計にその感覚がはっきりしてくる。
画面の向こうで、つぐみが小さく息を吐くのが聞こえた。
「それ、恋だよ。しかもだいぶ前から」
「え」
思わず声が裏返った。直球だった。私は笑ってごまかそうとする。いつもの調子で「え〜、そんなわけないじゃん」と流すつもりだった。このまま気づかなかったふりを続けられたら、どんなに楽だろう。
画面の向こうのつぐみは、急かすこともせず、ただじっとこちらの返事を待っている。その沈黙が、かえって答えを急かしているようだった。
でも、口が動かなかった。
私はスマホを持つ手に力を込めた。小さく息を吐いた。
「そうかな」
「そうだよ。ひなた、自分の気持ちにだけ鈍いよね」
つぐみの声は責めるふうではなかった。ただ、事実を淡々と置くような言い方だった。画面の向こうで、つぐみが小さく頬杖をついているのが見えた。
私は膝を抱えて、しばらく黙っていた。認めてしまえば、もう後戻りできない。それが分かるから、口が重い。
でも。
「うん」
声が掠れた。
「知ってた。認めたくなかっただけ」
言ってしまうと、胸のつかえが少し軽くなった。それと同時に、目の奥が熱くなる。窓の外で、隣の家の玄関灯が灯るのが見えた。誰かが帰ってきたのかもしれない。
「私、そうくんのことが好きなんだ」
言い終えてから、口の中に残った音が自分の声じゃないみたいだった。膝を抱えた腕に、じわりと力がこもる。部屋の中は静かで、スマホのスピーカーから漏れる小さな雑音だけが聞こえていた。
画面の向こうで、つぐみが優しく笑った。
「うん。知ってる」
あっさりとした答えに、私は拍子抜けした。もっと驚かれるか、からかわれるかと思っていた。
「......ずっと知ってたの?」
「まあね。ひなたが気づくの、待ってた」
「意地悪」
私が小さく笑うと、つぐみも笑った。画面越しの笑い声が、少しだけ部屋の空気を軽くしてくれた。
「で、どうするの、これから」
「分かんない。......まだ何も」
「焦んなくていいよ。ひなたのペースで」
つぐみの声には、いつもの茶化しがなかった。ただ静かに、寄り添うような口調だった。つぐみはそれだけ言って、通話を切る前にもう一度画面を覗き込んだ。
「数学の宿題、範囲送っとくから」
私は鼻をすすった。
「ありがとう」
通話が切れると、部屋は急に静かになった。私はスマホを両手で持ったまま、画面が暗くなるまで見つめていた。連絡帳はベッドの脇に開いたまま放り出されている。数学の宿題の範囲は、結局まだ聞けていなかった。
ベッドから起き上がって、カーテンの隙間から外を覗く。窓の外で、隣の家の明かりが小さく灯っている。そうくんの部屋の明かりだ。カーテン越しに、時折人影がゆっくり動くのが見えた。
スマホをもう一度点けて、そうくんとのトーク画面を開く。最後のやり取りは3日前で、スタンプ1個だ。
文字を打ち始めて、消した。もう一度打って、また消す。
こういうのは、画面越しに言うことじゃない。
私はスマホを伏せて、明日の時間割を確認した。6限まで授業がある。放課後なら、教室に人はほとんど残っていない。




