秋風と距離感
放課後のホームルームが終わる。教室のあちこちで椅子を引く音や、鞄を閉めるチャックの音が重なった。窓の外では、部活へ向かう生徒たちの声が遠くに聞こえる。鞄を持って席を立った凛が、教室を出ていく――かと思えば、俺の机の横で足を止める。
「藤宮くん、今日、真っ直ぐ帰る?」
「ああ、特に用事ねえし」
「......そう」
凛はそれだけ言うと、鞄を肩にかけ直した。そのまま昇降口の方へ歩き出す。俺は鞄を掴んで後を追う。断られなかっただけのことで、足が軽い。
昇降口を出ると、空気はもうすっかり秋の匂いがしている。校門の外の街路樹が色づき始めていて、風が吹くたびに葉が一枚二枚と舞い落ちた。上履きから履き替えたローファーの底に、乾いた葉が一枚張りついた。校庭では部活動の生徒たちがまだ声を張り上げて練習を続けている。
「涼しくなったな」
「もう衣替えの季節じゃない」
凛が短く答える。俺たちは駅とは反対方向、住宅街を抜ける道へ折れた。凛の歩幅は俺より半歩ぶん狭くて、放っておくと自然に俺が先に出る。だから俺は、少しだけ足を緩めて歩く癖がついている。誰に教わったわけでもない、いつの間にか身についた歩き方だった。
街路樹の下を通ると、時折はらはらと葉が舞い落ちてくる。凛はその一枚が肩に乗ったのに気づかず、そのまま歩き続けていた。俺はそれを指摘するべきか迷って、結局黙っていた。
途中の生垣の下で、凛がふと足を止める。
「......猫」
見ると、茶トラの猫が生垣の隙間からこっちを覗いている。耳の先が少し欠けた、よく見かける野良猫だった。凛はしゃがみこんで手を伸ばしかけたが、猫はさっと奥へ引っ込んでしまう。
「前も同じとこにいたよな、こいつ」
「......うん。よくいる」
凛はしゃがんだ姿勢のまま、生垣の隙間を覗き込んでいた。猫の姿はもう見えないが、それでもしばらくその場を動こうとしない。
「逃げた」
「まあ、猫だしな」
凛は少し名残惜しそうに生垣を見ていたが、やがて何事もなかったように立ち上がって歩き出す。
「猫、好きなのか」
「......別に。近所で見かけるだけ」
そう言いながらも、凛はもう一度だけ振り返って生垣の方を見る。俺はそのまま先を歩いた。凛が足を止めるのは、いつも同じ生垣の前だ。この道を通るたび、必ずと言っていいほど同じ場所で立ち止まる。
「今度、餌でも持ってくるか」
「......別に、そこまでは」
凛はそう言いながら、口元だけがわずかに緩んでいる。
スマホが振動したのは、住宅街の交差点に差しかかった時だった。凛のポケットから軽い音が響く。凛は画面を一瞥して、また鞄にしまった。信号待ちの間、通り過ぎる車のヘッドライトが道路を白く照らしていった。信号が変わって、俺たちはまた並んで歩き出す。
「誰から」
「お母さん。晩ご飯、何がいいかって」
「何て返すんだ」
「まだ決めてない」
「早めに決めた方がいいんじゃねえの、母さん困るだろ」
「......分かってる」
凛はスマホをもう一度取り出して、画面を睨んだまま黙り込む。俺はその横顔を見ながら歩調を緩めた。
凛の指が画面の上で迷うように動いている。返信の文字を打っては消しているのか、なかなか送信される気配がない。俺はそれを急かさず、街路樹の落ち葉を踏みながら待った。
「カレーとか無難じゃねえの」
「......カレーは、この前食べた」
「なら鍋だな、そろそろ寒いし」
「......鍋、いいかも」
凛は少しだけ足を速めて、俺の半歩前に出た。振り返らずに続ける。
「うちも今度作るか、母さんに言っとく」
「......うちのお母さんにも言ってみる」
凛はそう言ったきり、しばらく黙って歩いている。俺のスマホにも、昨日の夜遅くに凛から短いメッセージが来ていたのを思い出す。「......図書室にあった本、面白かった」の一言だけだった。返信は「良かったな」で終わった。たった一往復のやり取りを、俺は今も消さずに残している。特に理由はない、ただ消す気になれないだけだった。
住宅街の路地を抜けると、見慣れた我が家の屋根が見えてくる。凛の家はその隣、庭のフェンス越しに見える距離だ。もうすぐこの何気ない帰り道も終わる。
「今日の唐揚げ、まだ残ってる?」
「明日また作るから安心しろ」
「......本当に?」
「毎回同じこと言ってるだろ」
俺はそれだけ答えて、鞄の紐を持ち直した。
「......疑ってるわけじゃない。ただ、確認したかっただけ」
凛はそう付け加えて、少し気まずそうに視線を逸らした。
「......楽しみ」
小さな声だったが、はっきり聞こえた。俺は思わず横目で凛の顔をうかがう。表情はほとんど動いていなかった。それなのに、耳の裏がじわりと熱くなる。夕暮れの光が、凛の頬に赤い筋を落としていた。住宅街の家々から、夕食の匂いがどこからともなく漂ってくる。
半年前は隣の席というだけの関係だった。今こうして並んで帰り道を歩いているのが、当たり前のようになっている。桐生がこの場にいたら、また余計なことを言うんだろうな。俺はそんなことを考えながら、もう一度街路樹を見上げた。葉はまだいくつか枝に残っていて、風が吹くたびに揺れている。
* * *
その日の夜、母さんに頼まれた買い物でコンビニに寄った。レジ袋を提げて夜道を歩いていると、隣の家の窓に明かりが灯っている。ひなたの部屋だ。カーテン越しに小さな人影が動いていた。夜風が首元を撫でていく。
ひなたの家とはもう何年も隣同士だ。子供の頃はよく庭を行き来していたが、さすがに高校生にもなると、家まで上がり込むことはなくなった。学校では毎日のように顔を合わせるのに、家ではこうして窓の明かりを見かけるだけの距離感が、いつの間にか当たり前になっている。
俺は特に気にも留めず、自分の家の玄関を開けた。
* * *
翌朝、教室に入ると、朝の光がカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。つぐみが自分の机に頬杖をついて少し離れた席の方を見ている。視線の先にはひなたがいる。朝からうちの教室に遊びに来ているらしく、小柄な体を弾ませるようにして、女子たちと何か話している。栗色のショートボブが揺れるたび、丸い目がくるくると表情を変える。
俺が席に着くと、つぐみがこっちに椅子を寄せてきた。声を潜めるように、少し顔を近づける。
「ねえ藤宮」
「なんだよ」
「ひなた、最近元気ない?」
「は? 急に何だよ」
俺はひなたの方をもう一度見る。栗色のショートボブが揺れて、丸い目が友達の話に合わせてくるくる動く。いつもの柚木ひなただ。
「別に、いつも通りに見えるけど」
「そう?」
つぐみは腕を組んで、疑わしそうにひなたの方を見つめ続けている。俺にはその視線の理由がまるで分からなかった。
「見えるっていうか、いつも通りじゃねえの」
つぐみはそれ以上何も言わず、ただひなたの方を見続けていた。俺はその視線の意味が分からないまま、鞄から教科書を取り出す。
「藤宮ってさ、たまに鈍すぎ」
「は? 何だよ急に」
「別に。独り言」
つぐみは肩をすくめると、自分の席に戻っていく。俺は釈然としないまま教科書を机の上に積む。凛は隣の席で、静かに文庫本を開いている。ページをめくる音だけが、静かに響いていた。
朝のホームルームが始まる予鈴が鳴ると、ひなたは「またねー」と手を振りながら自分の教室へ戻っていった。花園先生が入ってきて、日直が号令をかける。俺はその様子をちらりと見て、教科書に目を戻す。つぐみだけが、まだ扉の方をじっと見ている。
昼休み、廊下を歩いていると、つぐみがひなたを呼び止めるのが見えた。俺はちょうど水を飲みに行く途中で、少し離れた場所から様子をうかがう形になる。
「ひなた、大丈夫?」
「うん! 大丈夫だよ!」
ひなたが即答する。いつもの明るい声だった。廊下の窓から差し込む光が、二人の影を長く伸ばしている。
「本当に? 何かあったら言ってよ」
「大丈夫だってば。心配性だなあ、つぐみは」
ひなたは笑いながら軽くつぐみの肩を叩いた。つぐみは何か言いかけたが、結局それ以上は続けなかった。
「まあ、いいや」
それだけ言って、つぐみは自分の教室へ戻っていく。ひなたはまた友達の輪の中に戻り、何か笑いながら話している。
俺は蛇口をひねったまま、水を出しっぱなしにしていた。つぐみの「まあ、いいや」が耳の奥に残っている。シンクの底で水が跳ねる音だけが、やけに大きく聞こえた。廊下からは、昼休みの賑やかな声が絶え間なく響いている。
つぐみがひなたのことをあそこまで気にかけるのは珍しい。普段は誰に対してもどこか一歩引いた態度を崩さないつぐみが、あんな風に食い下がるのを見たのは初めてかもしれない。
「藤宮、ぼーっとしてどうした」
いつの間にか隣に来ていた桐生に肩を叩かれ、我に返った。
「いや、何でもねえよ」
「なんだそれ、顔怖いぞ」
「怖くねえよ」
「いいから購買行くぞ、パン売り切れる」
「お前が誘っといて急かすなよ」
廊下の向こうから、購買の混雑した声が漏れ聞こえてくる。桐生が背中を押してくる。俺は蛇口を閉めて、渋々その後をついていく。
購買までの廊下は、昼休み特有の喧騒に包まれていた。すれ違う生徒たちの間を縫うように進みながら、桐生がまた何か喋っている。
「今日のパン、早く行かないと焼きそばパン売り切れるからな」
「お前、それしか頭にないだろ」
「当たり前だろ、あれが一番美味いんだから」
購買の前は既に長い列ができていた。俺たちはその最後尾に並びながら、歩きながらもう一度だけ廊下の先を振り返った。ひなたはもう友達の輪の中で笑っている。俺は前に向き直って、桐生の背中を追った。




